皆様、御無沙汰しています。 最近、剣道への考え方が変ってきました。 武術から武道へと研究をしてきましたが。 武道から武術への回帰・・・を考えています。
経営は武道的精神の涵養により飛躍的に躍進します。 しかし、経営は一つの決断の失敗が経営破綻になります。 経営は武道でもなくスポーツでもなく、自他共栄の精神を基礎に置く、武術そのものです。 命を賭けて開発された武術的身体動作を考察すると、正々堂々の姿は無い。 ただ生き残る道を心身の極限にて探る所から出ている。 経営は勝たなくても負ける訳にはいかない! 身の安全を図るためには負けない事なのだ! 武術的身体動作、技術はその究極の極意は『後の先』にある。
先日の全剣連合同稽古での原田先生との稽古で判った。 先生の体調が優れなかった事もあるが、一瞬の我慢比べ(左拳の動かし)において、西村は十分に我慢が出来た。 この一点において先生と対峙して稽古を重ねた。
この様子を青木君が見ていて、「西村先生は今日は面が遠かったですね!」と言った。 彼から見れば、西村が原田先生に面を打ち出せなかったと見えたと思う。 西村の前のKさんは攻めの鼻を原田先生に見事に打たれていた。 さらに快心の面打ちは見事に胴を抜かれていた。 原田先生の真骨頂だ! K君は見事な武道的な面を打った。 その結果・・・武術的には命を無くし終わりにになる。 武道は有難い・・・何度でも生き返るから。 武術はそうは行かない! 武術は決して自分から打ち込まないのだ!
しかし、西村の場合はそうにはならない。 先生と十分合気になりながら、そこで体を進め左拳の我慢をする。 先生の気力不十分ならば先生の方が先に拳が動く。 そうすると、そこの小手を押さえる事が出来る。 残念なのは先生の面を捕えるレベルには行き着かないのだ。
岡田さんとの稽古の最後に決まった小手・・・これが左拳の我慢です。 近間に入って面打てると無意識が確信して面を打とうと、左拳が浮きかけた瞬間、そこに吸い込まれる様に無意識が小手を打っている。 相手の白刃の下に身を置くと、内なる神格の発露として勝手に手が動く!
ゲームとして、スポーツとして、武道としての競技ならば『打ち込んで行く勇気』 が称賛されるが、もし命が懸かっていたならばそうは行かない。 それ故、秘伝の理解は武術的意識に心を置かないと真の理解は得られない。 決して打ち込まない我慢の勇気こそが精神的秘伝なのだ。 武術身体動作はこれが原点なのだ。
そうすると、姿勢やその他の動きにおいても見栄えがしない、姑息な手段的な動きになる。 最近の雑誌に中村先生が中山博道先生から教わった足さばきが書いてあった。 ネズミ足、歩み足・・・等の武術的運側が大切かとおもう。
例え長刀を持っても、小太刀を持った意識で太刀に身を隠し、間合いの不利を入り身と左右の捌きで補う。 これが武術だと思う。
東京の剣道と京都武専の剣風の違いがそこにある。 戦後、持田先生を筆頭に武専流の剣道が今日まで続いているが・・・それが現代風剣道であるが・・・剣道はそれだけではないような気がする。 高段者になると戦前の東京風剣道も見直してみてはどうだろうか。
この手の内容は相当高段者の人には受けるが、余り参考にされない方がよいかもしれない。
西村の剣風が変る!
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