『隙』 剣道雑誌に隙について色々書いてあった。 もう少し分析した形で書いてみたいと思う。
内田先生の本に書いてあった。 【隙がない】こちらから見て相手の動き、変化が分からない、読めない時を言う。 (本を見直したが何処に書いてあるか不明!)
相手が自由に動きを選択出来る状態、この状態に打って出ると、相手はこれに乗じて対応することが出来る。 隙がない相手に自ら隙を作って打って出た事になる。 心が打つと決め左手が動くと、その動きは終点まで変えることは出来ない。 相手は心の変化を察知し、左拳が動いた瞬間その動きが決定した事を知る。 要は自分の選択しを無くした状態なのだ。 この状態を『隙』という。
相手が心も身体も静止状態(心も身体もどの方向にも千変万化に対応出来ている状態)のとき、相手のこちらへの対応方向が分からない。 この状態を『隙がない』という。
隙がない自分とはこの状態をいう。 相手に『隙』が無ければ打つ事は出来ない。 だから、相手の『隙』を打とうと待っていても、相手も同じ事を考えていればお互いに隙がない事になる。 ここで大切なのは相手の隙を待っている状態は、相手のフェイントに容易に釣り込まれる可能性が高いのだ。 しかし、自分が相手の存在すら忘れてしまった様な状態『木鶏』のとき、相手の攻め、フェイントには反応しない。 相手が本気に危害を加えようとした時『智』が勝手に、反射的に対応処置してくれる。・・・この境地は難しい! 意識が相手の面を打つぞ!と強い念を送るとき、自分の意識波動は強く相手に感応させて、相手の無意識がそれに大しての対応処置をとる。 見えない意識の起こりが予備動作の程度に身体を動かす、相手の意識がこれに対応症と予備動作に入る。
意識波動の感応が予備動作としての微かな動きとして、無意識の正体を形で現してしまう。 こちらの念、意識波動、予備動作に相手が一定の感応、反応をしはじめた時、相手の心が手の平に乗りつつの状態になる。 ここに隙の初期が起きる。 相手の心に四つのマイナスの心が起きる。 四戒とは、驚・懼・疑・惑の四つを言い、剣道修業中に、この中の一つでも心中に起こしてはならないと買う戒めである。 (1)驚とは 予期しない相手の動作に驚くときは、一時心身が混乱し、正当な判断と適切な処置を失い、甚だしきは呆然自失することもある。 (2)懼とは 恐怖の念が一度起きると、精神活動が停滞し、甚だしきは手足がふるえて、その働きを失うものである。 (3)疑とは 疑心あるときは、相手を見て見定めがなく、自分の心に決断がつかず、敏速な判断、動作ができない。 (4)惑とは 惑う時は精神が混乱して、敏速な判断、軽快な動作ができない。 従って剣道の勝負は技だけでなく、心の動きに支配される事が多いもので、相手に隙が生じても、この四戒の一つが心に起きれば、隙を見る事ができぬうえ、自ら萎縮し隙を出し、相手から打たれるものである。 故に、常に四戒を脱して、思慮の深い活発な精神を養うよう修練すべきである。 攻め合いの中で相手のウエイトの大きいところが次第に見えて来る。 しかし、本当のところは未だ分からない。 これを確認するには『先』を懸け、相手の心の動きが決定した状態を作る。 相手の左拳が動く状態を作ることだ。 これを『相手に隙を作らせる』という。 医療の現場では手術前に超音波診断、血液診断等のあらゆる検査をするが、最後には『確定診断』腫瘍から細胞診で顕微鏡下でガン細胞を直接確認する。・・・・この確定診断に相当するのが『先を懸ける』に相当する。
隙とは!相手の意志が決定し、打つべき方向が決まり、もう後戻りが出来ない状態になった瞬間、相手の動きのベクトルが決定した瞬間、これをいう。 この『隙』を作る作業が『攻め合い』である。
この『隙』が見えたとき、勝負は既に決している。 竹刀はその結果を体現したにしか過ぎない。
人生、仕事においてこの過程を十分に検証して対応する必要がある。
分かり易い具体例で説明する。
蛇に睨まれたカエルがいる。 蛇はカエルが逃げようと飛んだ瞬間、その放物線状の動きの時間的な位置を的確に捉え、蛇の口にカエルが飛び込んでくる様に捕まえに行く。 カエルが跳んで逃げようとしない時、フェイントを懸け、我慢出来ない状態に追い込んで逃げようと跳ばす。 このカエルがジッと静止している状況は隙がないのである。 蛇はカエルに隙を誘発するのである。 このカエルに隙が無い状態で、蛇がカエルに飛びかかると、カエルはそれに対応した跳び方をして容易に逃げることが出来る。
アフリカの草原で野生の母の猛獣が子供に狩りの方法を教え込む。 この過程が剣道の稽古に似ている。 これが稽古でなく、練習レベルで終始すると餓死することになる。
賢く意識をもって稽古をしないと、ただ身体を動かす練習で終わってしまう。 剣道の稽古は深いレベルでその本質を理解すれば、自然に超速の進歩を遂げる。 しかし、実際の道場で見かける光景は稽古とは言えない、練習に終始している人ばかりである。 西村は師匠から稽古を頂き、その本質を分析して深い意識レベルに落とし込んで来た。 これが稽古である。 武道は体感的に指導をしているが、意識レベルを高めて稽古をするのが現代流ではないかと思うのだ・・・西村の意見。
六段は肉弾相打つ中で打ち勝てば受かる。 七段は剣道のこのレベルの理解が出来ているかを問われている。 先を懸け相手を引き出して勝ちを得るレベルを問われている。
剣道は誰が言ったか知らないけれど『面』ばかりが優先されている。 自分の身の安全を考えると『小手』が有効であり、咄嗟に身を捨て勝ちを得るには『胴』が立派な技である。 相打ちで勝ち、相手は死んだが、自分は半死半生、肩輪になり残りの人生を棒に振ってしまう様な立ち会いは褒められた話ではない。
楢崎先生九段が見事な面を打っていた。それを見た小川先生十段はそれを見て嘆いていた。 九段が使う技ではないと。
相手を十分に手の平に乗せ、相手を誘い、相手の起こりをサッと体を捌いて安全に勝ちを得る。 攻め込まれて打った胴は相手が0,5段が上、相手に面を打たせ捌いた胴は1,0〜2段上 これは心のレベルの差を言っている。
西村の回りで七段に受かった諸兄、七段を目出す諸兄にこの心がけを大切にして欲しいと思う。
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