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- 西村の剣道観のおさらいです(当時) - 西村雅興 [2007年4月8日(日)]



西村の剣道観のおさらいです(当時)
西村雅興
2007年4月8日(日)
すでにお読みになっていると思いますが、このホームページを作った時点での西村の剣道観です。
まとめましたので、昇段審査前に目を通して下さい。

六段への道
当時、私は3医院を開業していました。100名以のスタッフを抱え、1日が20分くらいにしか感じられない忙しい日々を送っていたある日、75才までの残り時間を1日20分で計算すると150日にしかならないことを知り、愕然としました。

残り時間のあまりの少なさに驚いた私は、好きな剣道をもう一度やることにしました。
もともと段位に興味はなかったのですが、1年に一度京都で開かれる大会で師匠と稽古する機会があり、その大会は六段以上でなければ参加できません。
年に一回といっても残り30年で30回しか師匠と稽古できないのかと思うと、無性に六段に挑戦したくなったのです。ところが、最初の挑戦は見事に失敗。小柄な相手に思わず打って出たのが原因でした。
「お前の体重は前足にしか乗っていないから、打つしかないし、これでは相手の色が観えない」との師匠からの手紙を読み、“強さとは何か?”について考え込みました。

その頃、“禅”をベースにしたセミナーを紹介され、そこでいろいろなことを発見しました。
例えば「あなたは誰だ?」という問いに何時間も答えているうちに、最後には「私はあなたの子供だ」と一生懸命母親に答えている自分がいました。
母親への愛に気づいたら、あとは簡単です。何よりも母の歯を治療すればよいのです。さっそく実行しました。
いない敵と闘う虚しさ。
医院を三つも抱えて頑張っていたのも、医者の兄に対抗していただけだったのです。

兄が私を認めていないのならともかく、「お前はよくやっている」と認めてくれているのに、自分で勝手に存在しない敵を作って無理をしていたのです。

存在していない敵に勝てるはずがありません。
無理はやめて1医院だけにしようと思ったのです が、なかなか決心がつきませんでした。
そんなとき、歯科医師会の旅行で初めてお会いした先生から「僕は君のことを誤解していた」と言われました。そのとき初めて会った人に誤解されるはずがありません。

その先生は人から聞いた“噂”だけで、私を判断していたのです。そのとき、人から「医院をツブした」と“噂”されることをイヤがっていた自分に気がつき、本当の決心がついたのです。

心が晴れると、剣道も変わりました。そして私は六段になったのです。

七段への道
本当の強さは“技術”ではなく、“心”
次はいよいよ七段への挑戦です。バリバリ練習をして自信満々出かけたのですが、結果は失敗。
あんなに練習してあれだけ技術も磨いたのに、まだまだ私が気づいていない原因があるようです。

その頃の私は自分自身のエネルギーを持て余しているようなところがありました。
一つのことに興味を持つと行き着くところまで行かないと気がすみません。人からは「よくそこまでやるなぁ」と、なかばあきれ顔で言われましたし、自分でも、そのエネルギーがどこからくるのか不思議でした。しかし、社長やプロ野球の監督をメンバーにしたセミナーに参加して、まだ私が解決していなかった問題に気がついたのです。
それは「女性に負けたくない」という気持ちです。
とっくの昔に忘れていた幼児期の体験が女性コンプレックスに繋がり、これを克服しようとして私は必死に「俺は男だ」と主張していたのです。

これが、これまでに様々なことを勉強して学会で発表し、本を書き、講演会や研修会を開いてきた私のエネルギーの源だったのです。

そのことに気がついて、やっとノンビリした毎日が送れるようになりました。剣道も、構えを見ただけで相手の気持ちがわかるようになり、師匠の言う“相手の色”が観えます。強さとは、技術ではなく“心”だったのです。ようやくそのことがわかって、私は七段に合格しました。

“癒し”とは?

アイダ・ロルフ博士によって開発された“ロルフィング”。
いま話題のヒーリングをご存知の方も多いと思いますが、ダニエル・ミルズは、日本にいる三名の公認ロルファーの一人です。
私は彼との出会いによって、身体の奥に溜まったストレスを解放するボディーワークを学びました。ダニエルの著作「光の中へ」に、私のことが書かれていますのでその一部を紹介します。

『彼は既にマスターレベルの武道家であり、次への昇段試験を計画中だった。武道家もこのレベルになると、技術やテクニックは決定的な要素となることはない。彼は言った。
「敵よりも優れた技術を持ち、相手を負かすことが勝利に結びつくのではない。乗り越えなくてはならない問題は、相手を敵とみることだ。敵がいるかぎり敗者がでる。精神的なレベルでは皆、兄弟だ。一人が負ければ、もう片方も負けなのだ」
ロルフィングをしながら会話は続いた。
「葛藤が消える意識状態があるはずだ。敵が消え、自分の一部である友人だけが残る意識状態が存在する。このビジョンを持てれば、葛藤は消える。敗者はいない。勝者だけが残る」
彼は試験に受かった。簡単に、しかも歓びをもって。試合は始まる前に終わっていた。試合はなかった。敵を完全に自分に受け入れてしまったのだ…
僕たち一人一人が現状の中で嫉妬と怖れと怒りと不足欠乏からなる競争心を彼のように超えようとするならば、人類に未来はあるかも知れない』

私が七段になったときの話です。
ダニエルは言います。
「私はロルフィングをしながら愛を語り、その人を支えます。その人が愛を取り戻したとき、病気は治り初めています。西村先生も歯を治療しながら愛を語っています。その意味で、あなたは既にヒーラーなのです」

最後に、ヒーリング(癒し)についてお話しましょう。

兪の月は身体を、りっとうは刀を表し、全体として兪は木をくりぬくための工具の象形で、丸木舟を作るという意味になります。これに車がつくと輸送の輸になります。

ところで、愉快の愉のりっしんべんは心を表わしています。なぜ心がつくと愉快になるのでしょうか?
これはつまり、余分なところを削って丸木舟を作るように、心の不浄物を取り除くという意味なのです。
そして心をもって病から不浄物を取り除けば“癒し”という字になります。
目に見える部分の病気は治っても、心の癒しがないと本当に治ったことにはなりません。そして、心を治すことをヒーリングといいます。

癒しとは、快いこと、愉快の愉を感じること。病になったとき、愉快の愉で身体と心の不浄物を取り除いてきれいになれば、癒されるのです。これがヒーリングです。
「哲学をもって医学を施せば、神の技に等しい」と いう言葉がありますが、「哲学をもって医学を施し、 失ったものを取り戻せば、まさに神の技」ではないでしょうか?
患者さんが取り戻すのものは勿論“歯” であり、さらにもう一つ大切なもの、それは“自分 自身への愛”なのです。
そして、その過程を“愛”をもって支えるのが、私たち歯科医なのです。
剣道の極意への道
柳生新陰流の『月影』に、剣道高段者の打たせて取る秘訣があります。

打ち勝って段を取るのが五段まで。
攻め勝って打ち勝つのが六段なら、打たせて取るのが七段。

私の昇段審査の講評を、師匠の原田源治先生がしてくれました。

「お前が小手を見せ、相手が打ってきたら軽く払って面を打ったとき、全員が○をつけた。七段ぐらいになると、相手を引きだして勝つぐらいの剣道になって欲しいと審査員は思っている」

何故、高段者はあんなに上手に胴が打てるのだろうと思ったことはないですか?

真似をしてやってみるが、うまくいきません。
打ってくる相手の胴は打てない。しかし、面打ちに引きだせば、簡単に胴は打てる。

「月が雲間から顔を出した瞬間、足下の水面に月が映る」

これを『月影』と言う。
雲から月が出る。剣先に色が出る。
雲の動きが、最初の右足の攻め。
雲が動き、月が出始める。
それが、相手の剣先の乱れ。
その瞬間に、水面に月が映る。
それを、右足の甲が受ける。
そこで、打つ。
打たせて取る、柳生兵庫之助の秘伝です。
水面に月が映る(月の影)。それを、足の甲に感じる。
ギリギリの間合いで何かが起れば、もう打ち出すしかありません。
相手が少しでも動けば、負けずに打つしかない。こような状態に持っていき、左足の膕(ひかがみ)に十分体重を乗せていた状態から、そっと右足で攻め入る。
相手は来たと察知し、面に打って出ようとする。
出した右足は攻めであり、《虚》。まだ、剣は動いていません。
この《虚》に対して、《実》の状態で対応し始める。
しかし、剣が動かないので、一瞬《虚》に転じる。
このかすかな気配が、剣の先のわずかな動きとなる。
このかすかな剣先の気配を、右足の甲が感じる。
このとき相手の無意識は打つと決めたが、有意識はまだ打つと決めていない。
そこで、相手の有意識が打つと決断する前に、こちらが打ちに行く。
相手の無意識を操作する、究極の《理合》です。
来た!と思い、とっさに打とうとするが、相手の《実》を感じないので一瞬戸惑う。その瞬間、《虚》に転じる。
そこを、こちらは《実》である剣で打ちに行く。
これはいわゆる「虚実の戦い」です。
中・高生は、これをフェイントのように大げさに実行しています。
ペンネーム・meさんからのメール
ほーっ…先生いい感じです!
有意識と無意識の共存する間を相手側に創りだす…これが錯覚というものですよね。(違ったらゴメン)
甲野善紀さんの[古武術の発見]という本に、「人は錯覚を起こす動物である」とありました。
あの鍔競り合いから容易に離れて、面の打ち逃げが決まる瞬間の不思議さ!相手の油断というには少し事情が違ってるような感じです。
御主、できるな!

このような状態で面を打たれれば、なぜ打たれたかはわかりません。まさに、meさんのお説の通りです。
《油断》は、その場の対応への《気の喪失状態》です。
無意識を攻めるということは、次のような状態をいいます。
小手を2回続けて攻めると、相手はそれに対する無意識な警戒体勢に入ります。そこで、同じパターンで攻め入ります。途中までは同じパターンですから、相手の無意識は小手をかばう体勢に入ろうとします。
無意識がその行動を起こし始めますが、有意識は正眼に構えているつもりですから、竹刀を動かしたり、体勢を変えているとは思っていません。しかし、相手の無意識はすでにこちらの手の平で転がってます。
つまり、私と剣道をしないで、私の竹刀と剣道をしているのです。
そこで、途中から急激に変化させると、相手の有意識と無意識との間に一瞬混乱が生じます、キネオロジの世界では、スイッチングと言います。一種の明き盲の状態です。
腕が二段くらい違えば、面白いように見えます。
私の地区では六段くらいだと私に全く刃が立ちません。全部見られているからです。有意識も、本人も知らない無意識も、私の手のなかに握られています。
この状態では、打ちたいときに打ちたいように打ちたいところを打てるようになります。
ギリギリまで攻めて、面を打つと見せて小手を打つ。同じように攻めを緩め、シメタと相手の無意識が思った瞬間、面を見せると飛んできます。そこで小手を取る。
ここには、次のメカニズムも働きます。
目が捕らえて脳に指令を送るまでには、相当な時間がかかります。
千円札を自分で手放し、自分でつかむのは簡単ですが、これを相手にやられると、まずつかむのは不可能です。
脊髄反射の世界に対し、生理的に知覚して脳が判断する世界、目が見て感じ、脳へ指令を送り、それから手につかめと指令し、手の筋肉がつかみにかかるには、かなりの時間がかかります。これの早いのを《感がいい》といいます。
しかし、脊髄反射の世界へ誘われたら、手も足も出ません。
現代風、生理学的分析で述べると、スイッチングと脊髄反射ということになります。
これらを知っていても、実行するには、相手より精神的優位にある必要があります。
また、千円札を手放す初期動作を《先》といいます。
《先》をかけるには、自分をその一瞬の勝負にかける勇気、身を捨ててその一瞬に入っていく決断が、重要な意味を持ってきます。
わかってもできるようになるには、精神的に長い道のりがあります。
これは、八段の先生に「ウーン!」とうならせた内容です。
油断!
油断は、今、必要なことに対して、《無意識・有意識》両方の意識の喪失状態です。
敵が攻めてくるのに、昼寝をしていた状態。今は打ってこないだろうと頭が勝手に判断をして、気を抜いていた状態です。
無意識を攻めるのは、無意識の予測を覆す作用です。
有意識ではコントロールできないので、ハマってしまいます。
また、有意識と無意識の中間を攻められると、これもハマります。
知覚から脳の判断の時間と、脊髄反射の時間差を使う―。これらを《理合》といいます。
「理合にかなった面を打て」と先生方はよくいいますが、わかるように説明してくれた先生は一人もいませんでした。でも、これならわかりやすいと思います。
フェイントが、これの典型です。
武道では、これが微かな動きの世界、気の世界、精神エネルギーの世界にまでいき着くので、不立文字(ふりゅうもんじ)の世界へ入っていきます。
ペンネーム・meさんからのメール
ウ〜ン…なるほど……
《脳の判断時間と脊髄反射との時間差を使う!》なんとなく解ったような…?
こういうことですか  
脊髄反射>脳の反応時間
ところが、速すぎてもダメなときってありますよね。私程度の考えで一笑に付されるのを覚悟で言いますと、反応時間の個人差は当然あるとしても、いつも勝てた相手にさらに磨きをかけた私は、なぜかいつものように技が決まらなくなったのです。相手が強くなったというのとも違って、なぜか噛み合わなくなった。
野球でいうところのピッチャーの癖を盗まれたのか? 自分には気づかない癖があるのだろうか?
いろいろ考えましたが、結局は必要な速さが相手によって違うということでした。
しかし、私の剣道はまだスピードがすべてでした。傍目には態勢が変わらないように見えても、まばたきする程度の仕草で、相手の意識をずらしてしまう六段を越えた技は言葉で知っている程度で、まだ実体験としてはないのが残念です。
前回の日本選手権では兄弟対決があったと思いますが、2連覇した兄に、弟は無意識に出た?偶然の動き?によって面をとって勝ちましたが、試合後に「面の二段打ちは意識して打ったものではない」といっていました。これは本当の偶然か?それとも、日本一を決める戦いのなかで「江夏の21球」(野球)にあるような刹那的なものをも感じ取って繰り出した脊髄反射?でしょうか?
うーん…いいたいことがうまく伝わらないもどかしさ・・ (^^;)
先生は彼に勝てますか?

試合では宮崎氏に勝てないでしょう。

最後の質問は愚問でしょう。
スポーツ剣道の頂点を極めた人に、それを極めない人が勝てるわけがありません。
大阪府警の世界チャンピオンが八段への挑戦で、先生に見事に面を打たれましたが(NHKで放映)、スポーツ剣道の試合ではやはり世界チャンピオンの方が勝つでしょう。鍛え方、スピードが圧倒的に違いますから。
しかし、練習ではやはり先生の方が強いです。
彼らが八段を受ければ受からないでしょう。かなりの修業が必要でしょう。全日本で2回チャンピオンの上段選手が、六段審査に苦労した例もあります。
大阪府警の首席師範が、中倉先生に手玉ににとられているビデオをを見ましたが、これを佐藤博信先生に聞いてみると「そうだろう。力が違うからなあ!」でした。
当て合い(試合)をすれば、現役の首席師範が勝つでしう。
では、なぜ中倉先生に手玉に取られるのでしょう。
お互いが今しようとしている剣道において、中倉先生の方が上なのでしょう。
今、中倉先生が世界選手権で優勝するとは思いません。しかし、練習で中倉先生に勝てる人が日本にいるとも思えません。
このあたりがわかるようになると、剣道はもっと面白く、奥が深くなると思います。段を受けていきますと、少しずつ要求されていることがわかっています。当たり盛りの剣道が壁にぶつかります。
どうも、そこから剣道が始まるようです。
私は一昨年、京都の朝稽古で師匠の原田源次先生に、相打ちで初めて面が入りました。26年かかりました。天にも昇る気持ちでした。師匠は一言「いいじゃないか!」といわれました。
七十過ぎの先生です。
この先生にかかると、練習では世界チャンピオンもやはり刃が立たないのです。
しかし、選手権の基準で試合をすれば、やはり現役が勝つでしょう。
六段ぐらいの審査でよくあることですが、「あんなに当たったのに、なぜ落ちたのか?」と不満をいう人がいて、これが数回重なると受験を止めてしまいます。
師匠に聞くと、「勝手に打って当たっても、強いね、若いね、もう少し修業をしてくださいと言うこと だ!」

師匠曰く
「いい攻めをしてるな!いつ捨てるかな!
打ってしまった、早すぎる!若い!
返して打った。捨てきれないね!おしいね!」
こんなところで判断していると聞きました。
私が七段に受かったときの師匠の話です。
「どの時点でお前は受かったと思う?
立った姿がよかった、審査員の皆がいいじゃないかといった。
そして、小手を見せて打たせて払って面を打った。
その時、全員が○をつけた。
打たせて取った、七段ぐらいはこれぐらいの剣道を見せて欲しい。
ともかく、受験にこないで、剣道をしにきていたのがよかった」
剣道は、各々が目標を持ち切磋琢磨しています。その意味では、似かよったなかで成長し、次の目標に進みます。
一つ上がればそこでは最下位です。そして修業をします。
剣道に入れ込めば仕事がおろそかになり、仕事に熱中すると剣道をする時間がない。葛藤の連続です。そこから自分の生きる道を捜します。これが《剣道》だと思います。
meさんが今考えていることは、私もかつて考えました。その通りだと思います、そして暫くたつと考え方が変わってきます。そのように変わるのが《人間》です。剣道歴、年齢、背中に背負っている荷物、才能、それらが統合されて《剣風》になります。
meさんの年齢や剣道暦、段位はわかりませんので何ともいえませんが、かなりの腕前のような気がします。
剣道の方向の一つとして、島野亮一君のホームページを見てはどうでしょうか?
私もいつも読んで参考にしています。
http://www.st.rim.or.jp/〜shimano/doujo/doujo.html
生理学的な説明は面白いので、会って説明をしてもいいですよ。

ペンネーム・meさんからのメール

近づくためには捨てなさい…ですか?
>もっと面白い奥の深いもの・・・
(フムフム・・・)
しかし、試合で勝てるものが練習で勝てない?というのは、やはりわかりません。
>そこから、どうも剣道が始まるようです。
(そこから始まる剣道を 知ってる人は一体どのくらいいるのでしょう?)
「・・・・強いね、若いね・・・もう少し修行をしなさい・・・云々」
「いい攻めしてるな、いつ捨てるかな?・・・・」
「・・・・・・・・・・・・捨てれてないね・・・・・・・」
そこに審判が知っている何かがあるんでしょうね。
誤解を招くような書き方をしてしまいましたが、もう何年も剣道をやっていません。長い間の疑問みたいなものを、先生宛に書いてしまいました。
示現流では、竹刀を振り下ろすだけの素振りを3年やらされたという話を聞きました。反復練習の必要性はよくいわれますが、六段を越えた世界でも、それを肯定するのでしょうか?お話(書き込み)を聞いていると、そこには術理の世界を感じてしまいます。
正しい構え、正しい素振り、正しい足の運びetc...これらはやっかいな習慣として捨てなければならないような、そんな気もしてきました。
お忙しいなか、長いコメントをありがとうございました。

武士の表芸は槍です。
 スポーツ・チャンバラで得物を自由にすると誰もが薙刀を取ります。足を薙ぎることは強いです。女子が薙刀を持つのがうなずけます。
 弁慶も、やはり薙刀でした。
 小太刀と短刀の試合をすると、意外に短刀が勝ちます。振りかぶる間に、まっすぐに手を下から振り子のように刺し入ります。小太刀と長刀では、やはり長刀が強いです。
 長刀と槍では、圧倒的に槍が強いです。しかし、二刀を持つと槍に肉薄します。
 長槍と短槍では短槍の方が強いです。
 赤穂浪士の討ち入りで「得物はかってたるべし」と大石が連絡すると、ほとんどが槍を持って参上したようです。
 実際に小太刀で女子と練習をするときはかなり余裕でやっていますが、同じ女子が槍を取ると私の身体中が臨戦態勢に入り、毛が逆立ちます。槍との対戦にはそれほどハンディがあるということです。
 馬の上で使った太刀は、長くそっていて振り回して使いました。刀は昔の鎧には刃が立たなかったようです。
 刀の歴史をみると世の中が騒乱状態では慶長新刀のように実践的な肉厚大振な刀が流行り、振りやすい鉄の棒的になります。太平の世では腰に軽く負担が少なく振り回しやすい、軽く短い物が好まれています。
 斬るより刺したほうが効率がよいことがわかってくると、ソリの少ない直刀の体裁になってきます。特に居合的要素が強い時代になると、より一層ソリは緩くなります。刀は実用刀と儀仗用に別れ、実践の闘いでは実用刀を数本持ち歩いたようです。
 私は10本ほど大小刀を持っていますが、ワラを斬る刀、竹を切る刀、釘でも斬ってみる気の刀、据え物斬り用で青竜刀と争うぐらいの刀、片手で使う小太刀、その他観賞用の刀です。観賞用や居合用ではもったいなくて物は斬れません。
 本当の闘いでは、片手に楯を持ち片手に刀を持つのが自然です。フェンシングにしても楯を持って闘った方が強いと思います。
 かのローマ軍も腰に刀、左手に楯、右手に槍の出で立ちです。これが命をかけた闘いの出で立ちです。
 刀がシンボル的な存在になったとき、本来の武器から違う意味を持ってきました。それでも剣術として残りました。
スポーツ・チャンバラをご存知ですか。
 その考え方は、危険に身を置かないこと。もし、相手が刃物を持っていたとき、素手で闘うより何か手に得物を持って身をかばい、相手が攻撃できなくなったら、走って逃げる。つまり、最小限の闘いで身を護る。これが基本的な考えです。
 抜刀術(真剣でワラ、竹を切る)を教わりに行った先生が、小太刀護身道の創始者で、剣道六段、居合道六段、抜刀術七段、銃剣術日本一、小太刀、槍術、柔など武芸百般の人です。その他にも刀や鎧の鑑定、骨董鑑定、焼き物の趣味など多芸です。
 その彼、曰く、「命の危険が迫ったときは、卑怯もヘチマもない。身を護った方が勝ち。竹刀でどんなに強くても、命が懸かれば逃げるか、勝つかしかない。正々堂々と闘っても、相打ちで死ねばそれで終わり。だから実戦を想定して、尚、安全な方法を捜した結果、このスポーツ・チャンバラを興した」
 さて、私は抜刀を習いに行ったのですが、そこではスポーツ・チャンバラの練習をしていました。警棒の長さで、面は空手の面のような物を着けて、フットワークよく打ち合うのです。私は剣道六段でもあるし、そこの誰にも負けない自信がありました。
「ちょっとやらないか」と女の子に誘われてやってみました。どこを打ってもよい。相手の攻撃能力がなくなったとしたときを一本とする。これがルールです。
 例えば、小手の指一本が強く打たれたとき、これではもう武器が持てないと判断して負けになります。試合は基本的に、一本勝負です。
 短刀、二刀、棍棒、薙刀、槍、またそれぞれの得物で異種得物試合も行います。
 短刀と小太刀の試合では、案外短刀が勝ちます、ただし短刀の基本を習熟していた場合です。しかし、短刀の処し方を知っていれば小太刀が勝ちます。振りかぶり振り下ろす動きは、まっすぐ来る突きの動きに負けます。打ちに行くと間違いなくその間に間合いに入られます。さらに相手がハサミ、ナイフを持つとその色合い(銀色)に身がすくみ、動きが鈍くなります。
 ともかく、こちらは打たれないで、相手の足、手の指を 打つ。飛ぼうが、跳ねようが、転びながら打とうが、自由です。
 剣道家は皆、足を切られます。空手家に面を打つと身体を思いきり下げて逃げますから、面の位置に相手の頭がない。剣道をやったものには、何とも具合が悪い競技です。
 長刀と槍が闘うと、ほとんど槍が勝ちます。武士の表芸は槍とはよく言ったものです。
 小太刀ではいいようにあしらえる女の人でも、彼女が槍を持つと私の毛穴が開き、殺気だってきます、武器が違う、ルールが違うということは、全く違う競技と考えた方がよいと思います。私も剣道を忘れ、こだわりを捨てた分だけ強くなったような気がします。
 私はダンスでも、一カ月で東北地区の新人戦で優勝したことがありますが、そのときも剣道の足さばきを捨てたときに優勝できたのです。
チョットやらないかと女の子に誘われて!
 さて、私はコテンパンにやられ、頭にきて猛練習しました。その結果、本部支部のBチーム大将で、全勝で二年連続優勝しました。チームには勝つことだけ考え、なりふり構うなと指示しました。それが本来の護身道だからと。
 私自身は、剣道をベースにした足、手の動きがあり、さらに剣道を忘れて、いにしえの剣術家はかくあらんと思いながら闘いました。気では相手を殺し、しかも相手に触られれば切られるという感覚で闘いました。ともかく、五官が冴え渡る危機感での闘いでした。面白くて一時夢中になり、世界大会の決勝戦の審判も務めました。
 上段の相手には小太刀で下から、腹、胸、小手、転びながら足を切る、特に長刀で足を薙ぎに行けば必ず勝てます。上から振り下ろす前に転びながら打てば頭まで刀が来ません。
 この方法で相手が来ることがわかっていれば上段は取らないと思いますが。とった時点で下半身の放棄です。もし、昔なら卑怯と言いながら足を切られて殺されている。命を賭けた勝負はそのようなものでしょう。
 今は小太刀と縁が遠くなっていますが、機会があれば試合を見に行って下さい。そこには闘いの原点があると思います。
 そこには、剣道の本音と建前、二面性、二極性のようなものはありません。技よりも感性、身を守る意識の方が優先します、それだけ身体中の感覚が呼び覚まされ、練習後は何とも言えない爽やかさが駈け巡ります。術的要素が非常に高い競技です。



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