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- 剣道の究極的な目的(私見) - 西村雅興 [2009年4月26日(日)]



剣道の究極的な目的(私見)
西村雅興
2009年4月26日(日)
剣道の究極の目的は?

先日、中山博道先生の剣道口述集を読んだ。
そういえばずいぶん昔に読んだ記憶が少しある。
その時、何も感激する内容がなかった様な気がする。
今回も読んでみて、途中で読むのを止めようかと思った。
先生もここは理解をしていたのだと思った。
ただ一つ『思わざる術が真の術である』だった。

先生は結局は現代剣術(命のやり取りのない)の職人としての最高の指導者であった様な気がする。
彼の内容からは西村の心、魂に響く物がないからだ。
ある仙台の高名な先生の本を読んだ時、その内容が技術的なことに終始していたのにはがっかりした、
同じく最後まで読む気がしなかった。
その意味で、『腰と丹田で行う剣道』、森田文十郎先生の内容は、剣道の奥にある不可思議な内容、人間の生理的機能にまで研究されているのは感心だ。
この先生にしても、歩行の原理と竹刀操作に気がついたのは専門家でありながら60過ぎのことだった。
西村の交合と姿勢の研究の中では、アマチュアである西村が45歳くらいで気がついていた。
それぞれの先生は剣道家として強いことが最命題であることを背負っていたせいだろう。
勝負の世界で頂点を極められた佐藤博信先生は「技は力を凌駕する、技術の追求が勝負力を養う。」」と言われている。
さらに、「剣道を続けていると、技術の問題から心の問題にシフトしていきます」と言われています。
この先生方は剣道が第一のそれを仕事とされている剣道専門家です。

さて、師匠の原田先生は教育者です。
剣道、運動、保険体育を通じの教育者です。
先生の『死ぬところは三つある、打つ前に死ぬ、死ぬ気で打つ、打った後見事に死んでみせる。』の教えです。
京都大会での場合もそうですが、雑誌新聞等の質問に「『如何に捨てれるか!』が課題でした。」と言われている。
西村の脳裏に深く響いているのは『如何に捨てるか。打つ前に死ぬ。』でした。
同じ内容の言葉を発見したのは、柳生流の極意『捧身』(身を捧げて相手の反応・活人に合わせてそれに従って(無意識・反射・叡智)剣を動かす。

西村はこの一点に焦点を絞り、剣道と人生を生きて来た。
この理解が早かったtのは、剣道よりも人生そのもので日常的に既に実践しているからでした。
それは人生の瀬戸際に立ってから、十年間の心の修行で行き着いていたからでした。
これ以前は全日本剣道大会に興味を持ち、先に書いた先生方の剣術的剣道に強い興味を持っていました。

そして、剣道において最良の師匠・原田先生に出会ったことが最高の武運であったことです。
剣道で自分の潜在意識機・超意識と出会えるまで、剣道を昇華する道を開いていただいたことです。

範師十段の『禅的剣道指導』をされた先生が原田先生の心の師匠と聞いています。

湯野先生は「打たない修行をしなさい。」と言われた聞きます。
相手に動く自分の心を見なさいと言うことです。

『相抜け』は達人が相対すると、結局どちらも打ち出さなく終わることです。
自分が打ち出せば相手がそれを取ることが無意識レベルで十分に認識すればお互い打ち出すことが出来ないのです。

相手を通して自分を見つめる深さ、自分の深い無意識レベルから超意識の世界へと水をくみ出し入っていく作業と、そこから得られた気づきが人生をより良くすることが、剣道の究極の目的ではないだろうか。

剣道よりも仕事の中で、職場を道場と思い実践する方がより良い様な気がする。
しかし、一人自己啓発の手段としては他の武道、スポーツよりもより効率的な気もする。

より強くなる為に一心不乱に稽古をする。
昇段を目指して一生懸命稽古をする。
しかし、その先に目指す物に意識をとめておくことが大切だ。

剣道七段で道場まで作っていた人が、あるセミナーで集団の力で自己が爆発した。
ほぼ人生をかけ、剣道で求めていたことが『ここのあった』と気がついた時、剣道を止められた。

五月は京都で昇段審査が行われる。
昇段も大切ですが、立ち会いでの自分を後で瞑想をして、十分に心を検証することが大切だと思う。



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