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- 63歳の西村の剣道観! - 西村雅興 [2009年5月7日(木)]



63歳の西村の剣道観!
西村雅興
2009年5月7日(木)
かなり悟った様なことを書来ますが、西村の『夢の中の日記』を垣間見たと思ってご容赦をお願い申し上げます。

剣法邪正弁
『それ剣法正伝真の極意は、別に法なし。
敵の好む処に随(したが)いて勝ちを得るにあり。
敵の好む処とは何ぞや。
両刃相対すれば必ず敵を討たんと思う念有らざる者なし。
故に我が身を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随い勝つを真正の勝ちと云う。
譬(たと)えば筐(はこ)の中にある品を出すに、先ず蓋(ふた)を去り、細かに中の品を知るが如し。
是れ即ち自然の勝ちにして別に法なき所以(ゆえん)なり。』

山岡鉄舟の無刀流の極意は自然の勝ちであって、別に法もなければ工夫もない。
・・・・小川忠太郎先生の説明は続く・・・・
西村の解釈は少し違うので西村流の説明をする。
相対して五分に気を合わせる。
触刃の間合い、そこからさらに一寸入って交わったところ。
出るも引くも出来ない生死の間。
ここで、身を守るも打つも何もない宇宙と一体感の境地に入る。
雑念は一切ない状態なのだ。
いわゆる不動心の状態だ。
しかし、このままでは体が動かない。
相手に対応することが出来ない。
次のレベルは不動智なのだ。
心は丹田の皿の上に赤い玉となって自在に揺れている状態。
この時心はさらに奥の智となって自由自在に本性を発揮する。
自分の知らない無意識の奥にある人間本来の神・仏・真我の部分と繋がる。
相手が我慢が出来ずに打ってくると、智が働き相手に随って対応する。
相手に智が働き神妙剣を発揮する。
基本は身を守る神・真我の防御機構が反射的に適切に判断をするのだ。
この反射の動きは長年の稽古で体全体を脳化しておく必要がある。

不動智神妙録は沢庵禅師が柳生但馬守に与えた剣禅一味の録である。
智が働けば神妙剣となる。
『勝ちに不思議の勝ちあり!』この状態を云う。

お互い相手の心が読めると(達人どうし)、先が読めて打つことが出来ず、心が出来ておれば我慢が出来る。
このような相手に出会えた感謝の心が起きて、お互いが刀を納めて分かれる。
いわゆる『相抜(あいぬけ)』の状態である。

かって、全剣連合同稽古会で八段の元立ち稽古が始まる前のこと。
山梨の望月先生と西村はお互い30分間一本も技を出さずに対峙したことがある。
稽古始めのた太鼓がなってお互いが竹刀を納めたのだ。

松崎浪四郎先生と逸見宗助先生の御前試合で30分間お互いの技が出せなかった。
30分後、逸見先生のヒョイット一念が出て得意の技を出そうとした。
その瞬間、松崎先生が小手をポンと打った。
この30分のことを持田先生が小川先生に言った。
「30分とは驚いた。」そして、「10分でもえらいなあ」とおしゃった。

見えてしまうと捨てれないのだ。

五分で対峙すると打てないことが分かる、それでお互い相手を誘うのだ。
しかし、自分の身を護りながら誘うから、相手はその手には乗らないと我慢が出来る。
いわゆる膠着状態になってしまう。
さて、技の例で言うと、相手が打ってくるのを見るから打たれる。
つまり執着である。
相手が打ってくるのを見ても、見なければ良い。
相手の打ちにとらわれなければ良いのである。
打ってくればスーッと入れば良い。
そうすると相手の刀を取って打つ様になる。
こちらが執着しないで、スーッと行きさえすれば良いのである。
小太刀の入り身の極意である。
是が小太刀ならば間合いの不利を体が知っているから素直にできる。
しかし長刀では是が出来ない。
身を捨てる覚悟が無意識レベルで出来ていないからだ。
それ故、間合いの妙を得るには竹刀を短めにして稽古をし、意識では小太刀をもって対峙している心境でやることだ。

椎名先生が千葉先生との稽古で、相手が面に来ると言った時、俺は頭を差し出せば良かったんだが・・・・それが出来なかった。
・・・と悔やんでおられた。

ここまでは打ってくる相手に対応する。
打とうと念を起こした瞬間に対応する話である。

しかし、次のレベルがある。
『打つ前に死ぬ』である。
松本敏雄先生が言った言葉がある。
『一歩前に出て問え!』である。
いわゆる『捧身』にて、相手に問えば良いのである。

『相対して五分に気を合わせる。
触刃の間合い、そこからさらに一寸入って交わったところ。
出るも引くも出来ない生死の間。
ここで、身を守るも打つも何もない宇宙と一体感の境地に入る。
雑念は一切ない状態なのだ。
いわゆる不動心の状態だ。
しかし、このままでは体が動かない。
相手に対応することが出来ない。
次のレベルは不動智なのだ。
心は丹田の皿の上に赤い玉となって自在に揺れている状態。
この時心はさらに奥の智となって自由自在に本性を発揮する。
自分の知らない無意識の奥にある人間本来の神・仏・真我の部分と繋がる。
相手が我慢が出来ずに打ってくると、智が働き相手に随って対応する。
相手に智が働き神妙剣を発揮する。
基本は身を守る神・真我の防御機構が反射的に適切に判断をするのだ。』

この状態の神妙剣を自らの意思で発揮する方法は一つある!
『打つ前に死ぬ!』『捧身!』にて、相手の刃の下に身を置き問うことである。
相手は何らかの対応を迫られるのだ。
しかし、是は恐いのだ!だからほとんど出来ない。
特に相手が上、腕が互角だったり、勝負の結果が大きく評価をされるときはなおさらだ。

そうすると神妙剣を得る極意は『心法』にあり。
『身を捨てて出て行く勇気=打つ前に死ぬ覚悟』に尽きるのだ。
是は剣道で手に入れるのは難しい。
人生をこの覚悟で生きておれば、竹刀相手に防具をつけている身であるから簡単なことなのだ。
現実には一番難しい所だ。

西村が高名な範師レベルと稽古をする時・・・
『先生よろしくお願いします。
竹刀の操作レベルでは先生はプロです。
しかし、西村の歩んで来た人生は80過ぎた先生の人生に負けてはいません。
打ち合う前に勝負をつけたいと思います。
竹刀を動かさなければ剣道でもない!
・・・先生が誘えば、身を出して乗ってあげる。 
   しかし、左手は相手の剣に随って動きが始まる。
・・・そこで膠着状態になった時『捧身』にて相手に問う。
   後は西村の内なる神に身を委ねて、神妙剣を得る。』

西村の心身が覚醒状態で心が静かな時、大先生が『うん〜』と唸る技が勝手に出ている。
高名な先生方もこの心境の西村には歯が立たないのだ。
剣道をしないで、心をもって対峙する。
あとはいつ死ぬかである。
後は体が勝手に竹刀を動かしている。

師匠は有り難い・・・・
『手は勝手に動くはなあ!・・・しかし、足はそうは行かない』
覚悟をする難しさを教えていた。
このようなことを教えてくれる師を持つことを『武運』と言うのだ!

京都大会では相手の起こりを狙う、誘いに乗るのを待つ、蛮勇にて面を打つ、体を深く入れ相手を驚かして小手を打つ・・・このレベルの立ち会いしかなかった。
それで興味が消失した。
全日本のフェンシング剣道に興味が無くなった時に似た心境なのだ。



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