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- 木鶏! - 西村雅興 [2010年12月22日(水)]
謹賀新年 - くりちゃん [2011年1月1日(土)]
Re:謹賀新年 - 西村雅興 [2011年1月4日(火)]



木鶏!
西村雅興
2010年12月22日(水)
木鶏


先日、二階級制覇を成し遂げたボクサーの言葉が響いた。
「ボクシングは打つ事ではなく打たれなで勝機を手に入れるスポーツなんです。
相手を罠にはめた時に勝てるのです。」
さすがに凄いと思った!
しかし、西村的には当然の事だと思っている。
剣道も全く同じなのです。
ただ違うのはプロボクシングはルール内での武術である。
剣道は剣術という武術から勝敗を超えた内面の成長によって、自分道を求めるレベルに昇華する方向がある。
この時、剣道になるのだ。

現実には目先の勝敗、打合いに目がとられたり、昇段審査合格へと目が行ってしまっている。
・・・かって、西村もそうだった時期が過去の大半であった。

さて、このボクサーの言葉を良く考えてみよう。

剣道は覚醒催眠誘導が本質的なところである。
ある意味ダイナミックメディテーション(動的瞑想)である。

催眠は催眠を懸ける人と懸けられる人がいる。
一度催眠に懸けられると精神的には相手を超える優位な立場に立てないという現実がある。
要するに、催眠を懸けるという事は相手より精神的に優位な立場を維持しなくては出来ないのだ。
勝負は礼をする所作の段階で半ばが終わり、蹲踞から立った時点で終わっている。
催眠を懸ける方と懸けられる側の立場が決定して、初めて催眠が成り立つからだ。
西村が七段を受けたとき、蹲踞から立った姿を見て、審査員が一同に「お!良いじゃ無いか!」と言ったと、原田先生から聞いた。
立ち会いの出来は100点満点で150点と褒められた。
そう言う相手も心は同じだろう。
この心のレベルが真に同じならば『相抜け』になり、双方刀を動かす事がない。
これを実際の稽古であった例が、山梨の望月先生との稽古だった。
お互い、30分間一本も打ち合えなかった稽古だった。
彼のヒーラー的感性と西村の感性が拮抗し、相抜けだった。
だからお互いに認め合ってさらなる竹刀を合わせる必要が無い。
何としても、西村の催眠誘導に乗って来ない人がいる。
島亮君だ!彼は西村の催眠誘導に引き込まれない。
ただ、彼の人柄の良さが無理に攻め入り西村に小手を取られて終わる。
自分から、負けてあげて膜を引く、人間的に彼の方が上かもしれない。
その彼が、相手が違うといわゆる剣道稽古をして、格上と立場上認めた相手には、自分の位を下げた稽古をしているのが不思議だ。
相手を立てる稽古をしている、これも人柄がなせるわざなのか?
この二人は西村的には心を崩せない、そしてこの二人は師弟関係というから面白い。

術理的にはさんざん書いたから『心』について書く。
剣道をこの方面から意識して稽古をすれば、違う世界へと登って行ける。
一種の変性意識の状態へ誘導する事だ。

打つとき!

相手がこちらの強い攻めに負け、手を変え品を変えて攻め続ける。
相手は疲れ心が砕け早く負けたいと打たれに出て来る・・・・・相手の心の葛藤が尽きた時だ。
 ハイ!あなたは私は負けたので打たれて終わりにしましょうとの誘導である。
この時自分への自己催眠は俺が絶対強いとの誘導だ。
一般的に剣道はこの部分を強調している。

打つとき!(打ってしまっている勝ち)

相手との合気になって空間的な意識波動エネルギーの押し合いを十分にし、
一瞬こちら側の気を緩めると、相手の無意識が勝ったと錯覚をして打って出てしまう。
こちらの罠にハマった訳だから、自分の身体が勝手に最適に反射して勝ってしまう。
この時の自己催眠誘導は、相手が出て来たときどこを打つかを決めていない自分へ誘導する事だ。
打つも打たれるも無くただ捨てて、我が身を相手に任して、自分の智を信じてやる方向へ導く事だ。

打つとき(何も思わず勝ってしまう)

攻めるも無し、勝負も無し、ただ木鳥(もくけい)となって自然宇宙と一体化して相手の前に只立っているだけの状態。
相手がそれを隙だらけとおも錯覚すると打って来る。
相手が打って来ると、相手が我が身に危険を及ぼそうとした時、命を守る智が勝手に反応して、結果的に勝っていたと言う状況だ。

原田先生が京都でいくら攻めても全く反応が無く、結局一本も打ち出せなかった。
後で聞くと、相手は病み上がりで、竹刀を持って立っているのが精一杯で相手の事は眼中になかったのだ。
道理で攻めに反応が無い訳だ・・・と苦笑い!

京都で、賀来先生にお願いした時この状態に入り切った。
植芝先生の宇宙の天地と自分が一体化したイメージに入り切った。
ある一瞬、先生が打った小手を払って面を打っている自分に気が付いた。
後で、お前は隙だらけだった!と言われた。
あの賀来先生も罠にハマったのだ。

ここで大切な事は、相手を意識する事さえ忘れれば最高の境地である。
『未だ木鶏に至らず!』
木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

西村は時折、この変性状態に入る事がある。
竹刀で立ち向かっては到底刃が立たない、日本で有名な最強の80歳を超える範士八段との稽古の時だ。
手に竹刀は持っているが、只持っているだけで、相手の心と自分の心と対話をしているだけでしかない。
この様なとき『智』が最高に発揮され、深く眠った真俄(本当の自分)に出会う喜びの瞬間がある。

椎名先生との稽古で面に誘て、一瞬遅れて胴へ返せなかった思いがあった。
次回は。体を左に捌いて胴を取ろうと決めていた。
そのとき、先生は面を打つと胸を出した、どうぞ!と面を差し出した。
次の瞬間小手を切っていた。
椎名先生参った!と言われ、今日は良い稽古をしたと喜ばれていた。
身体が勝手に反射的に小手に斬ったのだ!
椎名先生の突っ込みの早さでは体を左に捌く余裕が無いと、身体が勝手に最適に判断した様だ。
もう少し心が胴に意識が強ければ、おそらく面を返せても胴は打てなかっただろう!
剣道は読みと反射である。



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