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- 形而上(けいじじょう)、形而下(けいじか) - 西村雅興 [2015年12月8日(火)]
小川忠太郎と原田先生  他 - 西村雅興 [2015年12月11日(金)]



形而上(けいじじょう)、形而下(けいじか)
西村雅興
2015年12月8日(火)
チョッと考えてみましょう。
形而上(けいじじょう)、形而下(けいじか)
 どこかで聞いた様な聞かない様な記憶のどこかにあるかもしれない。そういえば哲学の授業で聞いた様な気がするかもしれない。そこでネットからその説明文を書き出したのでお読み下さい。
形而上とは物理量として観測あるいは計測不可能な領域であり、形而下とは観測あるいは計測可能な物理量を有する(私たちの五感では捉えられないが機器を用いてその存在を確認できるような間主観的な存在も含めた)存在の総体としての世界のことです。

ざっくりと説明しますと、
形而上学というのは目に見えないけども存在するものについて証明を行っていく学問です。
それをなぜ形而上と翻訳したかに関して、

形而:で英語でphysicalです。意味は物理、自然になります。
もとはギリシャ語だったと思います。

したがって、物理より、より上部に存在するものを学問するという意味です。

形而下というものは目に見えるものを学問するということになります。
物理学を始めすべて学問と言われているものが形而下の学問に分類されます。
形而下と形而上
右手にソロバン、左手に論語


 たとえば、ここに茶碗が一つあるとしましょう。

 これを見たときの態度で真っ二つに分かれます。

 「これは素晴らしい。どうすればここまでの色が出せるんだ? なんと味わいのある形ではないか・・・」

 これは形而上的な発想です。

 では、形而下とは?

 「これは売れる! なんといっても渋めの色がいいじゃないか。よし、百個取り寄せよう。一個千円だとして、十万円のコストか。ならば、一個一万円で売れば、差し引きは・・・」と考えるのが形而下的発想なんですね。

 商売人は形而下的な発想ができなければ話になりません。芸術家は形而上的な発想がなければ、これもダメです。

 「では、経営者はどうでしょうか?」

 経営者は形而下、形而上、いずれの発想も同時にできなければ一流にはなれないんです。右手にソロバン、左手に論語というわけです。


どうです、少し意味が判りましたか。
剣道が何故『道』が付き、剣術は何故『術』なのか。
剣術は身体と剣を自在に操り相手を殺す技です。
そこの有るのは生と死の現実だけです。
剣道は生と死に直面した状況で自分の真我と対面し、いままで気がつかなかった自分、新たなる自分の生き方『道』を求めるものです。
そして、それがより良き人生に導いてくれるものです。
武道は生と死に直面する事によって、深い心理的側面を浮き上がらせ、相手によて自分が変わる現実から、自分の心の探求に寄与する修行です。
言うなれば「対峙した相手を自分の心の鏡とし、自分の心の探究をする自己啓発の
優れた手段と言えます。」

剣道は形而下、形而上が入り組んだ優秀な修行法です。
形而下
物理的に見える、観測出来る、測る事が出来る竹刀を使った打ち合いの部分。
形而上
精神、感性、見えない意識に心よって支えられている自分の部分。
この二つが微妙に絡んだものが剣道です。
自分の剣道はその割合はどの程度か検証してみましょう。

人は見えるものを追っかける傾向が強いです。
これでは剣術的剣道になります。
剣道的剣道を目指すならば、形而上の部分も研究することをお勧め致します。

剣道の動き、形而下の出来事は形而上の意識の海の上に浮かぶ小舟の様なものです。
意識が動けば波が立ち小舟は揺れます。
ここで厄介なのは意識が二つあるある事です。
脳が判断をする有意識、脳が判断をしない無意識とが有ります。

『心技体』
身体が動かなければ動的勝負は成り立ちません。
しかし、体の優秀さも技の前には歯が立ちません。
体を動かすのも、技を使うのも『心』によって成り立ちます。
上位に立つのは心です。
千代富士の全盛の頃、全く勝てない時が有りました。
肉親の死が彼の心を打ち砕き、茫然自失の状態になっていたからです。
体も技も万全であっても、心が無いとただの抜け殻です。木偶の坊です。
  
原田先生に西村が面を2本打入りました。
私的には心は小躍りしていました・・・ヤッタ!!と。
先生を車で新宿へ送る途中に聞きました。
奥様が昨日、緊急で病院へ入院された。
今朝、上京する前に病室に見舞いに行って、それから武道館へ来られた。
今日の先生は心は奥様の病室に有り、対峙していた先生は心の無い木偶の坊状態だったのです。
先程のヤッタ!の心は沈み込みました。
ここで一言。
先生の心が無い時、先生の攻めがないから、自由に打てたのです。
西村の本能はそれを知っていたのです。
頭はそのことを知らなくても、西村の感性はそれを捉えていたことになります。
剣道の技術、体では圧倒的な先生でも、対峙した心の差は西村に優位な剣道になっていたのです。

範士八段、古城先生との稽古。
あれ、先生が見える!ほぼ五分の稽古が出来た。
実は、先生が東西対抗戦に選ばれ、自分から打つ稽古もしなければいけないなあ!との思いに心が揺れていたのです。
九段候補の大先生も打ち気が前に出ると西村に捕まるのです。
その試合が終わった後、先生は自分を取り戻されました。
西村は全く歯が立ちませんでした。
元警視庁の師範の先生も心が落ち着かれていないと、西村に捕まり打たれます。
【剣道が強くなりたければ、しっかり稼ぎ、お
金持ち、家族を幸せにし、充実した仕事の喜びの状態の心を維持して行く事です。】
明日の支払いを心配していては剣道等やっておれません。

さて、話は飛びましたが元に戻ります。

その心も自分が認識している「有意識」があり、これも深い所で「無意識」にあやつられています。
そのさらに奥には原始的本能の世界があり、この世界が命を支えています。

打たれたくないと思う心は、相手が打って来ると防御をいたします。
するとどこかの防御が崩れます。
相手が小手に来た・・と思うと、小手を防御します。
すると面の防御が崩れ、相手に面を打たれます。
ここで心をこう持てばどうでしょうか。
竹刀を傘と思い、傘の開具合が自分を放射的に身を護っている・・・と思っている。
相手が小手を打って来たとき、小手は既に護られていると揺るぎない心が有れば、相手の打って来た小手を避けようとはいたしません。
心に余裕があります。
これを『不動心』と言います。
しかし、心底、無意識レベルでそう思っていないと、相手に反応してしまいます。

松風館の稽古で、岡先生は私に言いました。
「俺は竹刀の先左右10センチを維持しておけば、絶対に打たれない自信が有る!』
先生が本当にそう思っているのなら、打って行って岡先生を打つ事は出来ません。
先生の竹刀の先が幅20センチを超える動きに誘導しなければ打てません。
勝負は先生の竹刀の先を20センチ超える動きに誘導するかが肝心です。

武道館の稽古で、私と神奈川県警の警察官個優勝、その後八段になった人の二人が前に呼ばれ『そこまで打てるなら、相手を動かす算段をしなさい。』と指導を受けたことがある。



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