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- オ−ルデンタルOB戦 - 岡本 徹 [2004年8月8日(日)]
今日の稽古 - 西村雅興 [2004年8月8日(日)]
Re:今日の稽古 - 岡本 徹 [2004年8月10日(火)]
Re[2]:今日の稽古 - 西村雅興 [2004年8月10日(火)]
感性が高すぎる!為です。 - 西村雅興 [2004年8月10日(火)]
オ−ルデンタルOB稽古会 - 福島孝幸 [2004年8月8日(日)]
Re:オ−ルデンタルOB稽古会 - 西村雅興 [2004年8月8日(日)]



感性が高すぎる!為です。
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2004年8月10日(火)
『全部見える。すべてわかっている』
賀来先生は何も考えていないのですね。
自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。
そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。

初太刀の小手は西村の心が納まるまえに、形だけの構のときに打たれました。
中ほどに、先生に小手面が入ったのですが、そのとき西村はどうして打ったか記憶があません。
西村の打つという全く意識がありません。
先生との攻め合い、緩めあいの中で身体が勝手に打っていたのです。
西村の頭の中に意識が上がって来ないとき、先生にも映りません。
読めないと言うことです。
そのときは西村の本能が打ったのです。
原田源次先生にも最近は誉められる面が入るときがあります。
この時は、いつも打った意識がないのに、身体が打っているのです。

一種の『無想剣』です。
このレベルの先生に打てたときは、いつも自分が消えてしまった時だけです。
この下のレベルだと、西村は取りに行きます。
そうすると、このレベルの打ちはでません。
どうしても意識をぬぐい去ることが出来ません。
しかし、意識波動で優位にたち、それなりに打つことが出来ます。
自分が無になりきれる先生との稽古は滅多にありません。
自分が消える瞬間を誘って下さる先生の存在は西村にとって宝ものの様な感じです。
それが、原田源次先生・賀来先生の存在です。

さて、村岡先生・岡本先生が西村に懸かると全く手も足も出ないのは感性が非常に高いからです。
打つ前に打てないことが、打てば取られることを身体も意識も既に知っているのです。
これは剣道の稽古の強さの問題ではありません。
感性が高いと言うことです。
他の強い人との稽古では、皆さん結構西村を打ちに来ます。
打ってみて、当るかどうかを試されています。
要は打ってみないとわからないレベルなのです。
二人は感性・意識波動のレベルで感じ取ってしまう高さを持っているのです。
このような感性の高さを持っている人は少ないです。
このような感性の高い先生は竹刀の動きが稽古ではなく、強い先生と対峙し、自分の位を下げない稽古が大切です。
この稽古こそがお二人の稽古の仕方です。
西村は高名な先生との稽古でも、滅多なことでは位を落しません。
この位を高めることこそが、剣道の真の目的だと思っているからです。
いかなる困難(高名な先生)が目の前に起きても、自己実現を成し遂げる(アイデンティティーを確保・維持する)ことです。
結局これが、自分の人生の方向性を作るバーチャルリアリティーの修業だと思っているのです。

西村が求めているものを、これらのお二人の先生は人生の成功者としてお持ちなのです。
それ故、機会・時間を使って話しを聞き、稽古をお願いし、自分もそうなりたいと願っているのです。
ここまで来ると、剣道はそのための一種の方便です。

西村との稽古で難しさを感じる時、それは大変な素養があると言うことです。
そう思って稽古をしましょう。

話しが変わりますが。
昔の真剣勝負ではこの感性が低いと、勝てないことを知らずに闘って死んでしまいます。
感性が高いと『参った!』と言って、逃げて命拾いをいたします。
命を懸けた真剣っ勝負では、多くの場合誰しもがこの感性が発揮されるのです。

西村が岩立先生と稽古をしたいと思って、稽古をしたのは5年後でした。
椎名先生とは未だ稽古をしていません。
もし、真剣勝負なら、勝負にもならないうちは稽古(勝負)をしないと言うことです。
相手を十二分に研究しつくし、本能がOKを出せば稽古をお願いします。

岡田さんとの稽古でも、西村が滅多に手元をあげて打ちに行かないのは、それだけ攻め合いに専念をし、打つ・当てる意識を捨てているからです。
本気で稽古をしているからです。
(ワザの試しあいと割り切った時は、丁々発止と打ちあえば良いと思います。)

千代田にMさんがいます。
彼はけっこう速い動きで面を打ちます。
他の先生とも良い先を行っています。
西村との稽古では全く打てません。
彼は西村が引きだして打たそうと云う意図を、彼の本能が感じ打たないのです。
身を守る感性が高いと言うことです。
西村が打ちあいに行くと彼は相打ちから、あわよくばと思い打って出るでしょう。
本能が『ヤバイ!』と引き止めるのです。
七段の先生方は竹刀を交える前に「ヤバイ!」を感じ、メンツを保つために避けられます。
六段ぐらいの感性の高い人もそうです。
闘わずして、勝負がついている世界です。

殴り合いの喧嘩をするとき、自分が勝てるとお互いの甘い判断の結果です。
犬だって、猫だって睨み合いの結果、手を出すことなく勝敗を決します。
感性の悪い人間は喧嘩をするのです。

尚、身体動作の研究・練習を目的とする場合は、以上の西村の考え方とは違い、試行錯誤から学んで行きます。



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