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- シャル・ウイ・ダンス? - 西村雅興 [2005年4月25日(月)]



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シャル・ウイ・ダンス?
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2005年4月25日(月)
Shall we Dance?


長い前置き・・・・
昨日、妻と『シャル・ウイ・ダンス?』を見た。
日本の映画の時は自分のダンスのことを思い出し、楽しく観賞したものだた。
しかし、昨日の映画を見て一段と深い感情が湧いてきた。
先ず、主役リチャード・ギアが6ヶ月間、毎日8時間、のべ1500時間にも及ぶダンスを特訓した。
世界最高のダンサーである、ジェニファー・ロペスも改めて必死で特訓をした。
そして、素晴らしいダンスを披露した。
競技会の前日、二人が踊ったタンゴのシーンを見たとき、西村は涙を流していた。
短期間で人の心をうつ、これだけのダンスが出きるのだ!

そこから、走馬灯の様に過去の色んな感情が湧いてきたのだ。
映画を見ながら涙が溢れ止まらないのだ。

西村は一ヶ月でダンスのノービスで優勝した。
夫婦で5年間習い続けた人が6位なのだ、東北学生チャンピオンが12位だた。
西村も最後の10日間は一日8〜10時間の猛特訓を受けた。
その間に体重は8キロ痩せた。
途中に胃ケイレンを起し病院に急行した。
当日、《何も考えずに》思いっきり楽しくダンスを踊った。
そしたら、ブッチギリの優勝だった。

翌年は岩手県の剣道選手権
新聞に西村のことが台風の目、優勝候補と載っていた。
へ!・・・と思い、そう言ってもらえるならば!・・・
《何も考えずに》思いっきり試合をした。
優勝だった!
二位の人は秋に国体の代表になった。(西村は前期試験の真っ最中)

十年ぶりに剣道を始め、実質1ヶ月しかしない稽古で六段審査に落ちた。
その時原田源次先生から筆で書かれた封書を頂いた。
それで、自分の姿をビデオで撮って見て愕然とした。
我の強い打ち気満々の自分を見て、脂汗がでた。
自分の醜さがそこに映しだされていた。
それがきっかけで、約一年間心の修業に入った。
人生を全く入れ替え、医院も一つにし、二年目の正月から稽古を始めた。
そして、5月に六段に受かった。
受験前日、原田源次先生からお蕎麦を頂きながら聞いた話
『審査員はな、
いい攻めしているな、
いつ捨てるかな、
と見ている。
あ!打ってしまった、入った。・・・強いけど、若いね!
あ!胴に逃げた。・・・捨てれないね!
もう少し修業をと言って判断をする。
いい攻めをし、相手の心が動いた瞬間に捨てる。
これで○がもらえる。』
翌日の審査
攻めている、今打てば必ず入る。
しかし、相手は動かない。
《ただ我慢!我慢》と念じていた。
身体が前につんのめり、今にも倒れそうだ!
あ!動いた・・・と思ったら面を打っていた。
そして、見事に入り合格をした。
誰もが会場の一番の出来と誉めてくれた。

七段にしばらく間が有るので、(抜刀術(真剣斬り)と)小太刀護身道(スポーツ・チャンバラ)をした。
最初の日には若い女の子にコテンパンにやられた。
剣道に似ているが非なるもの。
剣道家のプライドにかけて、夢中に稽古をした。
毎回、東京から横浜までの稽古に通うのだ。
本部道場のBチームの大将で出て全国優勝をした。
翌年も優勝した。
《何も考えなかった》が、ただ身体が動いていた。
そして、優勝だ。

七段の受験は国税不服審判所と3年間闘い続けていた。
或るとき広島のある島で、死ぬまでの呼吸をする体験で、自分の魂の世界へ旅立ち、すっかり気分が変わりこの闘いを終わりにした。
3年ぶり、二月から稽古を始め五月の審査で合格した。
試験の時《何も考えずに》ただ相手に真剣に対峙していた。
原田源次先生に誉められた。
「お前は試験を受けに来たのではなかった、剣道をしに来ていた。
それが良かった!
100点満点で150点だ!」と誉められた。

思い起せば、高校時代剣道の試合で《何かを考えて》試合をしたことは一つも無かった。それなのに出れば優勝だった。
今まで奇跡の様な成果があったとき、何も考えていなかったのだ。
その逆で、六段に落ちた時も、七段に落ちたときも、八段に落ちた時も相手に対峙しながら、心は何かを考えていた。

原田源次先生が岩崎先生に言った言葉
『「あのなぁ、合格の第一条件は
 必死でやることだ。変に余裕をつけてもだめ。
 必死さが審査員に伝わらないと。
 しかも、1次で2人、2次で2人、計4人と必死で立ち会う。
 これが最低条件だな。」』
西村はこの最低条件を行なっていない自分を深く恥じた。
なまじ剣道を研究をし、ほとんどの相手を使える様になっていた。
それが、変な余裕をつけたのだ。
相手に対峙しながら、どう打ち取ろうか考えていた。
これでは、中枢指令系統の動きで、冴えのある技が出るわけがない。

島野さんが試験の映像のDVDをくれた。
傲慢溢れる受験ぶり、動きのドテドテしたブタの様な動きを見た。
昔、六段を落ちたとき見た、ガマの油の状態だった。
松風館道場へ行って、鍛えるしかない・・と思い実行にうつした。
ここでは何も考えずに、ひたすら先を懸け面を打っている。
やっと意志と身体が一致し始めた。

人間(西村)は何て愚かな奴だ、同じ失敗を繰り返している。
情けないやら、悔しいやら自分に嫌気がさすほど、涙が止まらない。

ここから、映画のシーンに戻る。
奥さんが旦那様に「私もダンスを教えて、一緒に踊りたい。」と言った。
ここから新たな感情が湧いてきた。
自分は多くの人とダンスを踊ってきた・・・
しかし、一番踊りたい人は・・妻の智子なのだと心が叫んだ。
そのとき涙を流しながら暗い映画館で妻に言った。
「俺が一番踊りたい相手は智子だよ。
でも、今まで受け入れてくれなかった。
それを思うと残念で涙が止まらないんだよ!
一緒にダンスを習って、時には一緒に踊ろうよ。」と言った。
帰りの車でも同じことを言った。
妻が言った
「考えとくわ!」・・・こんな返事をする妻は初めてだった。

寝るとき布団の中で瞑想
『人生何も複雑なことは無いのだ。
勝手に自分が複雑にしているだけなのだ!
お前はいろんな勉強をしてきて、分かっているじゃないか!
インドで幸せは自分の心に有ると気がつき、10年に及ぶ精神世界を卒業したんだろう。
八段に受けると思った途端に、剣道を複雑なものにしている。
複雑にするのは止めなさい。
いつもの自分に戻りなさい!
何も考えずに身をまかせなさい!
明日の師匠との稽古も、頭を空っぽにして稽古をしなさい。』

こんな感情が交錯した、翌日の全剣連合同稽古だった。


【本題】

原田源次先生との稽古
初太刀、先生の竹刀が胴に届く前に、西村の竹刀が先生の面に届いた。
最後、心の命ずるままに面を打ったら、先生の小手打ちがはずれ、西村の竹刀が先生の面をポックリ打った。
こんな感触で先生の面に竹刀で打てたのは初めてだった。
この時、何も考えずに頭は空っぽだった。

挨拶に行った時
「良い溜めをしていた。」
帰りの車、中原田源次先生が言った。
「最後の面は満点だった。」

シャル・ウイ・ダンス・・・忘れていた感情・自分を呼び戻してくれた。

そう言えば、インドから帰って来たとき、四国の先生が稽古の後に言った。
「君!もう八段に受かるよ!」・・十年前の話し(七段受かった翌年の事だ。この春の稽古で西村に遣われた人が47才で八段に受かっている。)
頭が空っぽで、透明感と幸せが一杯の時は能力の最高が発揮出きるのだ。

全剣連合同稽古の稽古前の時間
松本さんが稽古に来た。
今度七段を受けるそうだ。
しばらく、会わない間に腕を上げた。
面布団を叩こうとしている。
面を斬る意識を持てば当るから、斬るになる。
数本見本を見せ、彼にも打たせた。
打った自分の感触に納得したようだ。

神奈川の先生と稽古
相手が打とうとした瞬間、西村の竹刀が面を捉えている。
打つの『ウ』で面を取っている・・・ほぼ100%だ。
西村の体の準備、右足膝の攻めの途中、相手の咽があかした無意識が打つことを決めた正体が見えた瞬間に西村が面を打っていた。

もう一人の先生は一本しか稽古ができなかったが、同じだった。

雨ちゃんが言った
「こうふうに打つ面ですね。
早いですね。」
西村
「高速面打ちの最新なんだ。
膝の攻め、胸で打ち、手の内を効かす。
相手が打とうと思った瞬間には面を捉えている打ちだよ。
(和泉流の面打ちに似ている)」
今度、稽古をしたとき味わって下さい。

愉快の『愉』と言う字は
心偏が有る。
造りは丸木を削り取って丸木舟を作る状態をさす。
車偏が来れば『輸』で、運送を現す。
心偏が来れば、心にわだかまりが無い状態をさす。
これが愉快の『愉』の意味です。
この状態であれば、生命は輝きを増し免疫力を高める。
野口晴哉先生は『愉気』という操法をした。
わだかまりを取り、良い気を入れる意味だ。

般若心経の教えもそうなのだ。
『生老病死の不安も心が勝手に作り上げているだけなのだ』


原田源次先生が言った
「剣道は本来良いものだ。
それを、どうするかは本人が決める!
苦しいものにするか?
楽しいものにするか?
それは自由だ!」

『シャル・ウイ・ダンス?』は西村の59才に、素晴らしいプレゼントをしてくれた。
妻との関係、剣道までも変えてしまったのだ!!!!!!
有り難い事だ。
レスをつける



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