西村の神奈川のK九段との稽古 かって、西村も稽古をお願いした事がある。 どんなに攻めて面を打っても摺り上げられ面を打たれる。 先生の本能・反射がそうさせるのだろう。 見事に打たれる 自分から打って出ては全く入らなかった。 しかし、先生が打ち気になるまで身を入れると、先生の面が飛んでくる。 この瞬間は引き出したのは西村、若い、速い西村に歩があった。 後で挨拶に行くと「いっぱい叩きやがって!」と嬉しそうに話された。 九段においても相手の打ち気が生じた時は入るのだ。 打つところは相手の潜在意識の変化の瞬間なのだ。 『スイッチング・・・意識・気の流れの変化』を捕まえるのだ。』 意識波動が強くなれば離れた相手にもこれを送ることが出来るようになる。 まして、中心線で向かい合っている相手にこれを伝えるのは案外容易なのだ。 位に負けず意識波動で間の攻め合いをし、ぎりぎりの一瞬、スッと自分を捨てて相手に問えば、面を打てと応えてくれる。 先に相手がこれを仕掛けた時、この誘いに乗ってあげればなお上をいくことになる。 こうなると、動きの速さは全く関係ない。 読み勝ち、不動智【智の部分が大切】の世界に入っていく。 剣道の大家に竹刀の動きでは全く歯がたたない。 しかし、竹刀が動く前は剣道でも無い。 自分の人生観を波動で相手に送り、その押し合い、攻め合いでしかない。 ぎりぎりのこの瞬間、自分を捨てる(打つ前に死ぬ!)とき、道が開ける。 自ら相手の刃の下に身を置きにいく事です。 これが難しい。 打ちたい、打たれたくない・・・の心では不可能な心境です。 心の修業・人生観の問題になってきます。
柳生流では『捧身』という。 自分の体で相手をつり出す事です。
ある剣豪小説の引文から。 「わが直新影流に松風という誘いの技がございます。 いくら打ち込もうとしても相手が動じない場合の誘いの技でございます。 千年を経た古松は嵐がきてもびくともしませぬ。 その古松の下に佇(たたず)めば微風にさえ、松風の音を立てているものです。 不動の松を動かすには己が微風になることです。」 「己が微風か。」 「わずかに動いて誘いを取る。 すると不動の相手もそれに釣り出される、相手が動けば恐怖心はうすれる。 それが武芸者です。そこを後の先で仕留める技が松風です。」
押しても引いてもびくともしない大家でも、微風になれば相手の心も騒ぐのです。 西村が剣道の大家との稽古内容を『大言壮語』の様に聞こえるかもしれませんが。 この一点が出来ればあなたもそれが可能かもしれないのです。 西村はこれを剣道で学んだのではないです。 人生と心の修業で学んできたのです。 そうすると、剣道の極意に同じ表現が多く見受けられるのです。 師匠も同じことを言っています。 あなたも大先生の心を動かしてみてはいかがでしょうか。
|
|