勝負雑感-2
勝負、その先にあるものは?
大学卒業の年に埼玉県に勤務をした。 国士舘大学の選抜隊が埼玉で合宿をしていた時のことだ。 埼玉栄高校か埼玉皆野高校かは定かではないが、高校生が国士舘大学の選手と試合をした。 当時の国士舘大学は部員500人を超える剣道部で日本一の陣容であった。 その大将はその後有名剣士となる。 さて試合結果は高校生の圧勝だった! 西村は「え!」と思ったが事実なのだ。 もちろん稽古では雲泥の差があるだろう。 しかし、恥も外聞も怖も無ければ、恥を知る剣士が負けるのだ。 これが試合の勝負なのだ。 お互いを高め合い成長を目指すのならば、実力伯仲の範囲で真剣に行うものだ。
日本の剣士が世界大会で苦戦をするのは、宗主国としての誇りをもって臨まなければならないところにある。
昔、警察剣道大会のビデオを買ってワクワクして観た事がある。 半ばで観るのを止めてごみ箱に捨ててしまった。 フェンシングと三所守りに徹した試合内容だったからだ。 日本の伝統剣道とは両極の内容だったからだ。 勝つ事が仕事の人達であるから仕方がない。 教育大系の剣士は清々しい剣道をするが、おそらく小手を拾われ優勝は難しい。
全日本選手権で地方の県の警察官選手が佐藤博信先生に勝ってしまって驚いていた。弟子が先生に勝ってしまった様なものだ。
明治村八段戦も一番年若い人達で優勝を争っている。 この年齢で2才も違えば身体的差が大きい。 稽古ではお願いしている立場で試合には勝つ・・・剣道の不思議!
全日本選手権の記念大会で中倉清先生が日本を代表する選手と稽古を披露した。 中倉先生には全く歯が立たないのだ。 ビデオで中倉先生と当時大阪府警の首席師範との稽古を観た。 圧倒的に中倉先生の優位な稽古だった。 このことを佐藤博信先生に聞いた事がある。 現役の大阪府警の主席師範が何故手も足もでないのですか? それは力が相当差があるからなあ! 今の西村には十分理解が出来るが、当時そのことが疑問であった。 西村の剣道の理解レベルがその程度であったと言う事だ、
京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。 申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。 稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。 先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、 少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。
古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。 賀来先生が言った。 「西村がビデオで撮っている。 あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」
西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。 しかし、稽古ではこの通りなのだ。
勝負、試合のその先には剣道の深遠なる世界の扉が待っている。 剣道を真剣に取り組めば、誰にでもその扉は開いてくれる。 これを求める心、先達となる師匠がいないと、その扉は遥彼方に存在する。 しかし、武運に恵まれれば直ぐにでもその扉に手が届く。 これは剣道が強いか弱いか身体能力がどうかという問題ではない。 剣道に真剣に取り組む心がけだけの問題なのだ。
原田先生曰く。 「剣道は本来良いものだ。 それを扱う人にかかっている。」 六段・七段になると試合の結果を問う事なく、その時の自分の心の彩を十分に見つめることに意義を見出したものだ。 それは自分の人生を検証する作業に等しい。
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