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- 『勝負』 雑感! - 西村雅興 [2008年8月17日(日)]
『勝負』 雑感2! - 西村雅興 [2008年8月21日(木)]



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『勝負』 雑感!
西村雅興
2008年8月17日(日)
勝負について

西村は大学に入るまでの、高校時代試合をして負けるなんて考えもしなかった。
打たれるなんて考えもしなかった。
今思えば何を考えて試合をしていたのか全く記憶にない。
気がつけばいつも勝っていた。
なんの怖も無く、無意識に打って勝っていたようだ。
そのほとんどが面だった。
ともかく負けた、何で?と思ったことが一度あった。
積水化学高等工学院の2年生の時、京都武徳殿での試合で京都府警Aチームとの試合で5人とも完敗した。
師範からは、「京都一のそれもプロに負けたのだから。」と慰められた。
その時、何で負けたか判らなかったのだ。
それまでは大学生と試合をしても負けずに進んできたから。
今となっては、あの時は試合そのものが成り立たない程強い相手だとは判る。
しかし、当時は何の知識もなく試合に出ていた。
ともかく試合に出れば賞状は貰えるものと思っていた。
負けたと思わないが、失敗をすると優勝でないだけだった。
振り返れば積水の時代は全寮制で毎朝数キロ坂道を走り、朝に腹筋100回、腕立て50回、夜に腹筋100回、腕立て50回来れは寮の同室での競争の様な習慣だった。
新入生には6ヶ月間15キロ走らせ、2年生は3ヶ月間15キロ走った。
試験中は稽古がないから素振りを1000本を振った。
一年生は半年間面を付けずひたすら走る事、素振り基本稽古に終始した、
そうすると、京都社会人の部門で面を付けて一ヶ月間の一年生が決勝戦へ勝ち上がってきて、Aチーム、Bチーム先輩後輩で優勝戦を武徳殿した。
面を付けて一ヶ月の素人同然のチームが決勝戦まで駆け上がってくるのだ。
剣道の地稽古では全くの初心者だが、当て合のスポーツ剣道ではここまでこれるのだ。
さらに相手は社会人の剣道家、剣道は出来上がっていても、全くレベルの違う身体能力の前には全く手も足も出ないのだ。
先ほど書いた様に、全く打たれる怖を持っていない打ちだから始末が悪い。
剣道の四五段が面を付けて一ヶ月の高校一年生に見事に負けてしまう。
これがスポーツ剣道の世界なのだ。
さらに身体能力の上を行く西村は賞状を集めるのが趣味だった。
高三の年に神奈川の医者の義兄に世話になり、東京の普通科の高校へ一年生から入学し医師を目指した。
兄の知り合いが、先生の弟さんが剣道をしているなら試合に出たら、と言われ相模原の市民大会に参加をした。
負けたので帰ったら、個人戦の三位の賞状が後から届いた。
この時負けた相手は今八段になっている。
翌年、模範試合をしなさいと言われ試合をした。
簡単に勝ってしまったが、その年の神奈川県インターハイ個人代表だったと後から聞いた。
竹刀をろくに握っていなかった頃の話だ。
この時の相手はその後、武道館での七段昇段審査で出会う。
西村が40才を過ぎ、剣道を再開し六段をとって間もなくのこと、七段を受ける前に審査の雰囲気を見る為に武道館に行った。
上から見ていると大柄な素晴らしい剣道をしている人がいた。
あいつは凄いよ!絶対受かる。
あれはプロだよ!と周りの人に言った。
しばらくすると「西村さん!久し振り。」と言われた。
そこには目の前で審査を受けてた人がいた。
何と!25年以上前の模範試合の相手だった。
負けた方は記憶にしっかりと西村の顔が残っていたのだ。
負けて、西村の顔を25年以上覚えている思いが彼の剣道を強くしたのだろう。
そう言えば、先日の盛岡で話しかけてきた人がいた、居合は早く七段になり剣道も七段になっている人だ。
ふーっと三十数年前の試合場の雰囲気が甦った
市民大会で決勝戦で西村に負けた人だ。
負けた人はその時の相手をよく覚えているものだ。
市民大会は大学の試験中なので学生は参加しなかった。
当時主将をしていたので、学長で教授の小原先生を喜ばそうと思って優勝をもらいにいったぐらいの気楽さでしかなかった。
再入学した日本学園高校では剣道部がなかったので、即席に剣道部を作り部員を募集し寄せ集めで東京都の大会へでた。
稽古を初めて1ヶ月の部が、8位になった。
西村が大将で負けた・・・高校生に試合で負けたのがしゃくだった。
相手は早稲田実業だった・・・そうと知っておればその気になったかも知れないが、
ともかく高校生に負けたのはショックだった(自分も高校生のくせに)。
だから・・・負けた意識は今でも鮮明にある。
稽古は試合前に10回程度しかしなかったが、大将で出て負けたのは三年間でこの一回だけだった。
当時の国士舘高校の大将は西村に三年間負け続けた。
医師になる為に普通科の高校へ行かせてもらっていたので、剣道は義兄に遠慮しながらやっていたので、稽古は試合ように少しするだけだった。
道場もなくコンクリートの上で稽古をしたものだ。
今、思えば積水の稽古量が貯金だった様だ。
当時の身体能力は砲丸投げで世田谷区の記録以上に投げれたし、体育の先生から明治大学でアメラグをやるなら、合格点の半分で入れてやると言われた。
西村は明治なら入れてもらわなくても、受ければ受かりますと言った。
当時二流高校ながら成績は一番だった。
結論・・・試合は稽古も重要だが感性と稽古で培った身体能力によることが大と言いたい。
そこから四年の浪人生活を送り、岩手医科大学の歯学部に入学をした。
医師を目指し四年も浪人し歯学部に入った挫折感は西村を鬼にしていた。
それでも翌年の医学部試験に備え毎日八時間受験勉強をしていた。
この頃の西村の剣道はそのあだ名が『虎夫』だった。
試合でほとんど負ける事はなかった。
二年の頃には県大会で優勝をした。
この時に準優勝が国体へ行った。
しかし、同じ部に勝てない二人がいた。
斉藤と越前だった。
その時、初めて自分より強い剣道をする人を意識した。
一人は学生選手権8位の斉藤、中学時代日本1位になった越前だった。
ブランクが有ったといえ、自分より強い人がいるものだと思った。

さて、これから本題だ。
今回の全日本歯科学生の大会で岩手医科大学が男子団体優勝、女子準優勝だった。
西村が2年生の時、医学部、歯学部の両大会が岩手医大主催だった。
医学部、団体優勝、個人、斉藤優勝、歯学部、団体優勝、個人、越前優勝
まさに完全優勝だった。
この時、西村は団体戦で次鋒にすえられた。
西村は1本も取らさずに2本勝ちをしてこい・・・との厳命だった。
そして、普段は打つ事がない『出小手』を12本取って1本も取らさずに勝った。
打たれないで勝つには打って出ないことなのだ。
小手を打って勝つなんてことは西村の剣道ではない。
普段打った事もない出小手なのだ。
しかし、ただひたすら出小手を狙った。
チーム優勝のためだ!
そして責務は果たした!
その裏にはこんな話が有る。
当時、歴代で最高の主将を斉藤さんがしていた。
合宿では竹刀を抱いて寝ている!という程、剣道馬鹿なのだ。
試合に備えその稽古は凄まじく、当時師範だった先生の情熱、主将の情熱、主幹校である意識がそれを可能にしていた。
試合の一週間前、「父キトク」の電話が入った。
試合前の合宿が始まった時だった
西村は父の死に目に会うより、この試合のポイントゲッターの責任を強く感じていた。
西村がいなくなると優勝は絶対不可能なのだ。
帰らないと言うと・・・義兄から主将に電話が入った。
「あなた方も医師を志す人ならば、親の死に目に立ち合うことと、剣道の試合に出る事とどちらが大切か考えなさい。」との内容だった。
主将命令で姫路の実家に帰った。
父の傍らで座っているが、頭の中は週末から始まる試合のことばかりだった。
母にお父さんは未だ大丈夫そうだから、試合にだけでて、直ぐ帰ってくると許しを受け盛岡へ帰った。
試合の前日のことだ。
結局は合宿は初日の半日だけだった。
西村が何故、そこまで試合にこだわったか・・・その時の剣道部の一致団結した気合がそうさせたのだ。
(今『ひかりの剣』医学部学生の優勝を争う物語が売れている。)
勝つと云う事は勝つ為の意識の集中、勝たねばならない理由・・・これが重要なのだ。
西村は個人戦では面を打ち、小手を拾われ早々に敗退した。
勝つことよりしたい剣道を優先すると負けが出る。
越前はこの年、一年間を通じて一本も取られていない。
だから個人戦優勝、しかし団体戦では引き分けに持ち込まれてしまう。

力があるから勝てるにではない、試合はいずれ実力が伯仲している
何がが何でも、どんな手段を講じても、がむしゃらに勝つ事のみに集中する必要性があるひとが勝つのだ。
今回のオリンピックの柔道を試合がそうなのだ。
勝つ事の必要性・気力が消えた時、スポーツ的勝負はその前に終わっている。

西村は40歳になった時、『人と勝負はしない』と心に決めた。
お互いが高めあうことの手段が剣道で、第三者に判定を任せるようなことには参加しないのだ。
勝負に拘りその中で成長を願う人もそれはそれで良い。
西村はこの方法を選択しないだけなのだ。
お互いが高めあい、勝ち勝ちゲームをするのが西村の人生なのだ。
この辺りは、ホームページの剣道の所を見て欲しい。
アメリカ人のダニエルがそこの心を書いている。

岡本先生・・・あなたが勝って優勝しとき、相手の方が数段腕は上だった。
       あなたの責任感の強さの人柄が勝負を勝たせた。

福島先生との話
県の国体予選で彼は勝負より、自分の剣道を優先した。
県警の選手は勝負を優先した。
彼は剣道を通じて成長をする方を選び、相手は勝つ事が仕事である事を優先した。
腕の問題では無く勝負は既についていた。
彼は勝つ事と剣道との選択で、剣道を選択した。
勝つ事とが嬉しい時代もあるが、それはある過程の一時期のことなのだ。

原田先生は京都の立ち会いで「いつ捨てるか」のみ意識をしていたと述べられている。

相手との関係性で自分を見つめる修業の手段が剣道なのだ。
本来、歯科医は剣道で修業をするより、本業の歯科医療を通じて修業成長するのが本筋だ。
それ故、西村は診療室そのものが道場なのだ。
西村の修業の場であり、患者様が自分の歯を通して命を見つめる場なのだ。
そこをさらに越えれば、診療室はお宮様なのだ。
最近妻が言った。
従業員がパパのことをこう言っていたよ。
『院長先生は神様なんだ!
患者様は信者様なのだ!
そうでないと300万円を超える治療費をポンと振り込める訳がない。」
そうなのだ、西村の診療室に来て、歯を通して命の大切さを知れば、命とお金を秤にかけて結論は簡単に出る。
お金のお持ちの方は人生を真剣に生きてきた人が多い。
この人達は人を直感的に推察する能力に高い。
西村はその人達の信頼を得る何かがあるのだ。
その信頼を患者様が感じた時、お金を銀行に振り込まれる。
しかし、金があっても命よりお金を大切にして倒れる人が多い。
そのような時、来世で良い人生を歩まれんとことを祈っている。
もし、お金が出せない時は、命に危機に貧してそれを支えるお金のエネルギーを蓄えなかった人生を悟ることになる。
それに気がつかれた人は数年後に貯金をして来院される。
自分が治そうと思っても、お金があっても、主人に反対された時、自分の人生の選択が正しかったに疑問を持つ。
このような方は御主人が亡くなったら来院される。
患者様は西村に出会うことから人生が変わる。
お宮様には丸い鏡がある。
自分の顔を映し、自分の心を知るチャンスを与えるためだ。
西村はこの鏡の役割を果たしているに過ぎない。
もしここ鏡が曇れば(西村は患者を通して邪心をもって儲けに走れば)患者様の心は自分を観る事がない。
それ故、西村はどんな患者様にも虚心坦懐にて素直な気持で、真摯に対応する。
鏡をいつも磨いている。
お金を貰ってあげる事も患者様が本気になる手助けの一つなのだ。
人間はお金の稼ぎ方、蓄え方、使い方に如実に人生の考え方が出るからだ。
今の保険制度は命とお金を真剣に考える機会を捨てさせている。
ほとんどの医師はお金を頂いてあげる親切がない。
患者様が本気になるチャンスを奪っている。

西村の場合、剣道では自分の心に問題が起きると、それを知る前に剣道に出る。
西村の場合、剣道はお宮の鏡の役割を果たしてきた。
レスをつける


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『勝負』 雑感2!
西村雅興
2008年8月21日(木)
勝負雑感-2

勝負、その先にあるものは?

大学卒業の年に埼玉県に勤務をした。
国士舘大学の選抜隊が埼玉で合宿をしていた時のことだ。
埼玉栄高校か埼玉皆野高校かは定かではないが、高校生が国士舘大学の選手と試合をした。
当時の国士舘大学は部員500人を超える剣道部で日本一の陣容であった。
その大将はその後有名剣士となる。
さて試合結果は高校生の圧勝だった!
西村は「え!」と思ったが事実なのだ。
もちろん稽古では雲泥の差があるだろう。
しかし、恥も外聞も怖も無ければ、恥を知る剣士が負けるのだ。
これが試合の勝負なのだ。
お互いを高め合い成長を目指すのならば、実力伯仲の範囲で真剣に行うものだ。

日本の剣士が世界大会で苦戦をするのは、宗主国としての誇りをもって臨まなければならないところにある。

昔、警察剣道大会のビデオを買ってワクワクして観た事がある。
半ばで観るのを止めてごみ箱に捨ててしまった。
フェンシングと三所守りに徹した試合内容だったからだ。
日本の伝統剣道とは両極の内容だったからだ。
勝つ事が仕事の人達であるから仕方がない。
教育大系の剣士は清々しい剣道をするが、おそらく小手を拾われ優勝は難しい。

全日本選手権で地方の県の警察官選手が佐藤博信先生に勝ってしまって驚いていた。弟子が先生に勝ってしまった様なものだ。

明治村八段戦も一番年若い人達で優勝を争っている。
この年齢で2才も違えば身体的差が大きい。
稽古ではお願いしている立場で試合には勝つ・・・剣道の不思議!

全日本選手権の記念大会で中倉清先生が日本を代表する選手と稽古を披露した。
中倉先生には全く歯が立たないのだ。
ビデオで中倉先生と当時大阪府警の首席師範との稽古を観た。
圧倒的に中倉先生の優位な稽古だった。
このことを佐藤博信先生に聞いた事がある。
現役の大阪府警の主席師範が何故手も足もでないのですか?
それは力が相当差があるからなあ!
今の西村には十分理解が出来るが、当時そのことが疑問であった。
西村の剣道の理解レベルがその程度であったと言う事だ、

京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。
申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。
稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。
先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、
少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。

古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。
賀来先生が言った。
「西村がビデオで撮っている。
あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」

西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。
しかし、稽古ではこの通りなのだ。

勝負、試合のその先には剣道の深遠なる世界の扉が待っている。
剣道を真剣に取り組めば、誰にでもその扉は開いてくれる。
これを求める心、先達となる師匠がいないと、その扉は遥彼方に存在する。
しかし、武運に恵まれれば直ぐにでもその扉に手が届く。
これは剣道が強いか弱いか身体能力がどうかという問題ではない。
剣道に真剣に取り組む心がけだけの問題なのだ。

原田先生曰く。
「剣道は本来良いものだ。
それを扱う人にかかっている。」
六段・七段になると試合の結果を問う事なく、その時の自分の心の彩を十分に見つめることに意義を見出したものだ。
それは自分の人生を検証する作業に等しい。
レスをつける



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