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- その一瞬の心の彩--1 - 西村雅興 [2016年1月11日(月)]
その一瞬の心の彩--2 最終纏め - 西村雅興 [2016年1月12日(火)]



その一瞬の心の彩--1
西村雅興
2016年1月11日(月)
剣道秘伝の最終纏め

前置き
今日は朝からジムにいて25分の軽いサーキットトレーニング。
その後45分のアクアサイズ(水中エクササイズ)をした。
アクアサイズをしている途中、頭の中が騒がしい。
その瞬間の攻め、意識、無意識、月影、・・・等を基本から丁寧に纏めて書け!
うるさいと言っても頭の中が太鼓を叩いて攻めるのだ!
剣道愛好家にお前の知っている事で親切をしろ!
そこで、これを吐き出さないと頭が静まらない。
親切すぎる説明は余り良くないかな!と思ったりして、最後の部分は書いていなかた、先生方の発見の楽しみを奪ってはいけないと思ったからだ。
しかし、頭の中はそう判断せず、出し惜しみはするな!と騒ぐのだ。
それで、不本意ながら書く事にする。
寝てても頭の中で騒がれたら落ち着かないから。

【本題】
剣道は竹刀を持って打ち合う事です。
表面上はそうですが、そこに至る全人格的な意識の発露なのです。
相手に対しては
ある意味相手の【錯覚誘う】(打てないのにのに打てると思わせる)(自分は勝ったと思わせる)、苦しいから打って負けて楽になりたい【自殺へ導く】。
【マジック】をしてみせる(目では見えてても意識では掴めない。
相手の無意識レベルを手の平に乗せて転がす【深層心理療法】
自分に対しては
最高の自己啓発の作業(自分を見つめて道を見つけて幸せになる)、
ダイナミック・メディテーション【動的瞑想】、【動的禅】
ここに意識を置かない剣道はチャンバラでしかありません。

【月影】
先ずはこれをHPで読まれて【目から鱗が落ちた!】と多くの人から連絡を頂ました。

これは昔から剣道の道歌では有名なものがあります。
 【うつるとも月は思わずうつすとも、水も思わぬ猿沢の池】
無念にして対者の想をうつしとるところの「水月移写」
剣法書には【月、無心にして水に移り、水、無心にして月を写す】

これの名人芸は【岩立先生の少しの腹攻めによる、前足の指が隠れる程度の密やかな攻めで相手を起こす】です。
佐藤博信先生に岩立先生の責め口を教えると、良い事を聞いたこれを遣うと特練の勘の良い連中は飛び込んで来る。
特に八段を狙える連中は敏感に反応すると言われました。
あれほどの名人でも【月影】の意識無しに剣道をされていたと言う事です。

ある人が、あれは良い【月影】、最初はみんな乗ってくる、しかし、暫くすると罠に嵌まらなくなってしまた!と言った。

ある人はこれをやると【月影】相手が反射的に面に飛び込んで来て面が打てない。

【月影】の右足をツッと出すと、相手は反射的に打って来る。
それでは面を打てない道理だ。
その時は面に来るのが分っているから小手に斬るか胴に捌くべきです。
自分が面で取りたいの欲が問題です。

【本来は】
遠間から、この右足はスーッと緩やかに相手がほとんど気がつかない程度に進めます。
これが大変上手な剣士が島野さんです。
やや左腰高にし、これからスーット緩やかに滑り込んで斬り間に入ってきます。
稽古をされた方は島野さんの初動が分らないので面食らったかと思います。

師匠・原田先生はさらに、かなりの遠間からこれをされます。
そして、相手が先生の右胸に吸い込まれる様に打って出んとする鼻に面を打たれます。
岩立先生が八段になった時の指導教官が原田先生で私の目標ですと西村に言われました。
原田先生には右胸に何か吸い寄せられるものが有ると言われていました。
磯ちゃんがあの右胸が欲しいと言っていました。
これはしっかりと左足に腰を乗せ、右拳が低い位置、かなり胴に肘を絞ったからゆっくり出て来ると、体の前進は何となく感じるが、右手から攻めが無いから(拳が納まったままで前に出て来ない)から、左腰の攻めに比べ右が弱い。
それで、ブラックホールの様に感じて、我慢が出来ずに吸い込まれてしまうのだ。
これが原田先生の攻め口です。
相手の左拳が動く(意識の変化)ところを打たれます。
どんなに我慢をしても、最後は西村が打って出て取られました。
これを先生に話すすと【一瞬の我慢比べだな!】と言われました。
それから10年以上立って、この我慢比べに勝つ方法をあみ出しました。
先生に見事な面が入り、」先生が【参った1】といわれました。
ここに行き着くまでに約35年間かかりました。
この技は原田先生に懸かるわけですから、天下無敵の技です。
この内容は後述致します。

月影は柳生宗巌が若いときに、上泉伊勢守信綱に知らない間に間を盗まれた時の入り身の妙、それに反応した宗巌の心境を、柳生流の極意とした。

西村の文面だけで足を出す事と解釈し、それなりの効果を上げた様ですが・・それでは無理です。
先ずは左足を右足の踵か、湧泉くらいに近づけ、軽く体を沈め、左足に七分体重をのせ、右足を上げても全く体が動かないくらい左足に腰を乗せます。
右足はほとんどフリーに動ける様にして、静かに右足を滑り出します。
このとき腹を緩め重心の滑落を使い、重心が前足の指を超えんとするとき、その重心の移動に合わせて右足を滑らすのです。
この準備が無い月影は相手がすっ飛んで来る合図を送ったに過ぎません。
相手に反射の動きを起こさせては面は打てません。
面に来るのが分っているのですから、小手か胴に捌きます。
コツは自分がいつ前足を滑り出したか意識が無い事です。
自分に意識があると射手に悟られます。
攻める意識では相手は硬くして守りに入ります。
「打ちませんか!」とそーっと入って行くのです。
最後に息を【スッと吸うと】さらに弛み、相手はここぞ!とばかりに打とうとします。
この瞬間、【飛んで火にいる夏の虫】です。

相手がこちらの動きに最初は全く反応せず、次第に何かおかしいなと気づき始め、打たなくてはいけないと無意識が思い予備動作を起こし始めの鼻に面を打つのです。
思い始めは無意識レベル、打とうと左拳が動くまで約0,2秒あります。
この動く切っ掛作りに【息吸いの術で】起こします。
0,2秒は剣道では全く遅すぎる時間です。
この無意識レベルの間に自分は十分に体を進め、拳に有意識が行った瞬間、相手は後戻りできません、この瞬間に自分の手は石火の機で面を打つのです。
このとき腕で打つのではありません、一瞬に息を吐き胸を潰し(肋骨つぶし)後ろに引いていた肩甲骨が開き肩が前下内方に閉じ、肘が内方に絞られこの力が竹刀に伝わるのです。
その一瞬、左拳の親指は相手の咽を突きに行き、右手の拳の親指は相手の目を突きに行きます。
最後の瞬間左脇を締め左拳を鳩尾に引きますと、巾着絞りの手の内になります。
さて日野晃先生のビデオから知ったのですが、肩甲骨が前に行って手が伸びたとき、そして脇が締まって中筋が利いているとき、
力は肩からのものではなくて、背筋に回って背中の筋肉と一体化され体の重みが全部が竹刀にかかります。
回転運動で竹刀を動かした時はただ叩いただけになります。
竹刀に体の重みを乗せる、いわゆる腰の入った打に、体重の動きのある質量(ベクトル)をさらに乗せた打になります。
思いきり突いても倒れ無い人も、ここまで体を乗せた突きにはひっくり返ります。
それは拳が相手に触れているところから突いても、体の重みの質量がすべてかかりますから、相手はすっ飛びます。
これは柔術、空手 合気道の動画を見たとき分ります。

月影はスッと足を出して、捌く方法、ゆっくり密やかに体を進め足を出し面を取る方法の二つがあります。
いわゆる相手の反射を引き出して取る方法。
相手の無意識を混乱させて取る方法。
前者は比較的簡単で多くの先生は既にされていると思います。
しかし、お勧めは後者ですが、相当体幹、腰の備え、打つ前に死ぬ覚悟・・等の準備が必要です。
さらには体幹を使った竹刀操作と胸の絞りと肩甲骨、肩の動き・・等の要素を一瞬に連動させる能力が要求されます。
相手の意識の変化を捉えるには形で見ては(予備動作)は遅れを取る事が多い。
最後は己が相手の陰(意識)そのものになり切れば相手の気は鏡にそのまま映る。

会社経営も社長は見えないものを映し会社の舵取りをする。
失敗は破産であり一家離散の憂き目に遭う。
社長にとって実社会は誠に【真剣勝負】の世界なのだ。
勤め人はこの自覚が少なく、寝とぼけた人生、人生の意味さえ、愛の意味さえ十分に考えないでただ無為に時間を過ごしている人が多い。
さて、貴方の剣道はこのような剣道の稽古をしていないだろうか?


参考に【真剣】からの抜粋を書きます。意味深い境地です。

『船上での稽古で、これは陰流兵法の中で「懸かりと待ち」といわれる先手後手の取り合いの妙を最もわかりやすく体現した稽古であった。
先手後手が見たままの動作ではなく、虚実を作り出す。
懸かりの中に待ちを織り交ぜ、待っている様に見せかけながら相手を誘い出して懸かりを取った。
船の揺らしを懸かりとすることもあれば、細竹の切っ先で相手を微妙に幻惑して懸かりとする事も出来る。
s化し、懸かりに見える動作が、実はある攻撃の形を相手から引き出す待ちであったりする。
それは移香齋は「懸中待」と表現した。
その逆の「待中懸」もしかりで、待ちに見せかけながらあらゆる方法を使い、相手に動作を仕掛けさせるものである。
己は動作を盗み、後の先を取る。
その場合、相手の先はすでに何の意味もなさない無用の動きと化した。
 すべての動作が懸かりと待ちの応酬となり、最後に見えている動作にとらわれず、
相手の意識を読むことに繋がっていった。
その境地に向かうに従い、互いは無用な動きをしなくなり、波ひとつ立たぬ湖面の如く相対した。
しかし、意識を読もうとする行為でさえ、まだ奥義の初歩だった。
最終的には意識を読むのではなく、気を映すのである。
己は相手の気を映す鏡となり、気の映りに随して自在に動く。
それは己が相手の陰そのものになりきることを意味していた。
しかも、やがて陰が相手本体より半拍子早く動き始める。
そして、相手が持たぬ、ただ一重の手を繰り出す。
それが、陰流の極意だった。
・・・・・
・・・・・
来日は見えへん。
しかし、人はどこかで来るべき日をちゃんと看取る。
問題は見えないものを見た己を信じられるかどうかや。
人は疑り深い生き物や。
大概の者が心を揺らしてしまう。
そうして、己の感じた事を信じられへんようになる。
信じたものだけが遥か先の己と向き合い事が出来る。
人はそれを宿命(さだめ)とも、信念とも言うんやけどな。
鷹狩りをしながら老師は兵法だけでなく、生き様に通ずるような話を聞かせてくれた』

『真剣』は読まれましたか?
剣豪小説の世界は西村の剣道そのものです。
そう感じさせて頂ける境地に誘ってくださったのは、原田先生でした。

今日はこの位で、次には捨てて出る場合の二つの事を書きます。
範士が打ってこいとそこはかとなく誘った時に捨てて出る場合。
自分の意志で先をとって捨てて出る場合。
この二つは全く対処方法はちがいます。
乞うご期待!

【追加】
奥川金十郎 剣道・居合道八段範師 先生追悼集より

「無念無想という事は、真理を追究する事だと思います。新陰流上泉伊勢守が柳生石船斉に稽古の極意を説いた。

うつるとも月は思わずうつすとも
水も思わぬ猿沢の池

私はこの意味を安易に考えていました。
それが70歳になってようやくわかりました。
「以来、わたしは剣道をやるのに意識を用いません。
体だけで剣道をやります。
体だけで剣道をやって知能的な指令を一切排除する、これが剣道の真実です。
勝ってどこを打ったかわからない。
負けてどこを打たれたのかわからない。
これが剣の大成の絶対条件だろうと思っています。
わかりにくいと思いますが、これがどうして真理の追究につながるのか。
邪念を打ち払い狭い主観にとらわれない境地を自分でつくっていくということは極めてむずかしいことです。
何物にもとらわれない眼でものを見る境地ですねえ」

『それ、剣法正伝真の極意は別に法なし、
敵の好む処に随ひて勝ちを得るにあり。
敵の好む所とは何ぞや。・・・・
我が体を総て敵に任せ、敵の好む処に随ひ・・・』
剣道をやるのに意識を用いない、という話を聞いてふと思い起こした山岡鉄舟の言葉であった。



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