剣道回想録 後,7日で74歳になります。 そのうち、最年長の八段合格者に名前を挙げたいと思っています。 何か目標がないと精進しないのが人間です。 そこまで健康でいたいと思っているのです。 今は寝る前に「明日命があって目覚めたら又会いましょう!」言って床につきます。 翌日、目が開くと今日も生かされている!と感謝をして一日を迎えます。 そんな日々の毎日です。 最近は頭の中は難しい患者様の治療方法を考えるので、頭が一杯です。 全国から助けてほしいと来られるからです。 年の瀬も近づき仕事量を減らしていました。
時間的に少し余裕が出来たので、先日久しぶりに書き込みをしたら、早速に青木君から書き込みがありました。 その時、フーッと頭によぎった事から、今回今まで西村が範士の先生方とのの関わりを書いてみたいと思います。 誰しもが知る大先生方との話です。
先ず思い立ったのは、青木君が京都で野正範士と朝稽古をした後、「良い剣道をすると褒められました!」と西村に報告した事です。 その後、西村が野正範士に「弟子の青木が先生に大変褒められましたと感激していました、有り難うございました。」と礼を言った。 野正範士が言った「そうか!お前の弟子か、そう言うことか!成る程な!」
野正範士がある道場で稽古の礼の後「先日、立派な剣道をする西村と言うのと稽古をした。東西対抗に推薦したいと思った。誰に教わったのだろうな!」 その時、千代田で良く稽古をする先生が「原田範士のお弟子さんです。」といった。 すると先生は言った。「源ちゃんの弟子か{原田源次}成る程な!」
弟子は師匠に似るものだ! 原田先生がある道場で稽古をしたとき。 「お前は三橋の弟子か?良いところも悪いところもそっくりだ!と言われたと聞く。 三橋秀三(東京体育専門学校教授) 原田源次先生の東京体育専門学校の教授・三橋秀三先生の攻め方。 原田先生も全く同じ攻め方です。 参考文献:林邦夫著『剣道で学び得たもの』からの抜粋。
『懐の深い構えから、大きく深く流れる大河のような気位で攻められると、それだけで圧倒された。 竹刀で中心を取り、剣先で鍔元から下を攻め、相手の下がったところを『面』に飛び、上がったときは、間髪を入れず『小手』に打ちこまれた。 先生の剣先が下がったところを透かさず面に打ち込むと、『面返し胴』と『面抜き胴』の二つの『後の先』の技が冴えていた。』
原田先生が言っている。 『先を取っているか?先を取って適切に反射をしているか?』これが剣道です。 『剣道は読みと反射です』と言っておられる。 どうやら、原田先生の師匠、東京体育専門学校の教授、三橋秀三範師の教えのようです。 原田先生は言った。三橋先生の教えは理に叶った道理的な教えだった。
上の文章は今,名人と呼ばれる林邦夫範士の文章です。 私の指導した面の打ち方はこのとおりです。 アダルトサイトの書き込みを削除していた。 三橋先生の項目に久しぶりに出会った。 原田先生の師匠だ。 西村は孫弟子にあたる。
三橋先生は長身、原田先生もしかり、西村もそうだ。 この剣風、攻め口を伝えるには杉山さんが最適だ。 彼はこの剣風を身につけつつ有る。
杉山さん数回目、小林さんは最高齢の77歳で七段になった。 京都大会での小西先生に打った面もこの通りです。 椎名先生が原田先生に抜き胴を打たれたもこの胴です。 椎名先生が西村のところまで来て言った「あの抜き胴を見たか!あの瞬間俺の体は参った!と表現していただろう!あんな稽古をする先生と稽古をしたい。」 「俺も胴は得意だ!しかし、あの抜き胴は出来ない!」
さて原田流、三橋流の戻る。 杉山さん七段合格御目出度うございます。 西村雅興 2013年11月28日(木) 杉山さん!七段合格御目出度うございます。 ! 西村の指導に従えば昇段は出来る! それを実証した人だ。 ただし、素直な心、謙虚な気持ちの人である事が条件ですが、彼はそれを持ち合わせている。 彼の年齢は68歳 、この歳での七段合格はその人の人柄のなせる技です。 年齢は西村より一歳上です。 身長は西村よりやや高い、180センチ位。 このような体型の人には原田流の剣道を指導するに最適だ。 西村が原田先生から教わったことをそのまま伝えれば良いのだ。 指導の要点は西村がいつも書いている通りだ。 1-膕を伸ばしながら膝に余裕を持たせて体を少し沈める。 これにより床を押すのりしろが出来る。 2ー左手の位置を定める。 両手をダラリと落とし、そこで竹刀を持つ。 すると、竹刀の先の方向は相手の左肩の方向を向いている。 そこで、左小指を軽く締め、中筋(中指)を固定してやる。 そうすると、左拳はヘソの前に移動する。 右手を軽く握ると剣先は相手の喉の方向に向く。 わかりやすくすると、竹刀の先から赤いレーザーが出ていて、その先が喉に向 くように意識をするとと自然に出来る。 この構えは一般的な構えより左手の位置がやや低い。 左手の位置を上げ、前に出すと相手の攻撃に対応しやすい。 しかし、これは防御には素早く反応出来るが、竹刀が身から離れ体幹の力を伝 えにく い。相手に素早く反応出来るが、自分の心に素早く竹刀が反応してしまい、相手に心を読まれてしまう。
構えは打ちたい気持ちの攻撃に体制、右足に体重が乗り、右肩が前に出て、頭がやや前に出ている。 剣道の修行はこの気持ちを変えるの事なのだ。 頭を後方に引き、右肩を引き、重心を後方にに引き四分六分でやや左足に重心を移し、やや体を沈め体制を整える。 心が変わらなければこの構えには行きつかない。 要は相手を叩き潰すべき対象としないで、竹刀を持って対峙してその空間を共有して気のやり取り、意識波動の押し合いにより相手を知り、自分を知る自己啓発の過程であることを自覚すべきだ。 相手はお互いの長所と欠点を知る同志なのだ。 構えを見ればその人の人柄が透けて見えるものなのだ。 これを感じるようになるには相応の構えにならないと相手が見えない。 実際は次が難しい!
3-相手と十分に合気になり、お互いが手に取る様に心に映るようになる。 そうすると打って出れなくなる。 名人どうしが対峙すれば先に心が動いた方が負けとなる。 これが長引けば『相抜け』となり、両者打ち合うことなく刀を納めることになる。 剣道ではこの辺りの微妙さを竹刀を通して心の優劣をはかることになる。 打って出れば負けと分かっている、さすれば相手に打ってもらいます。 打って出ずに相手を打つ。 それは相手が打たれに出るように仕向ける。 一足一刀の間合いから自ら身を捨て、切り間に身を進める(捧げる)。 『捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』の世界になる。 【打つ前に死ぬ!】の真骨頂なのだ。 相手は来た!と思わず打って出る。 そこを軽く打ち取る! いうが易し行なうは難し! 原田先生が試合の後のインタビューで【いつ捨てるかが今回の課題でした。】と話されていた。 剣道は『捨てる覚悟、さらにいつ捨てるか』の心の修行なのです。 しかし、これもバーチャルリアリティのー世界です。 人生の大きな決断は生か死に近い。 (実際は命まで持って行かれることはないが、持ってる全てを失う事がある。) この覚悟を決めるには潜在意識の下にある『智』に問うしかない。 剣道も極めればこれに出逢う。
さて杉山さんには右足から静かに体を進め、あいての心が動いた瞬間心の命ずるままに面に打ち切る。 西村は彼が快心の面打ちをするための打ち込み台に徹することでした。 彼の剣道にこの心とタイミングを刷り込む事が西村の役目でした。 彼が更に、松風館の基本稽古に行きクタクタ、ヘロヘロになるまで稽古をした。 試験前に稽古をした時、もう受かるよ!と、西村が言い、その通りになった。
昇段について。 彼が常に上向きに稽古をし、指導を受け、更に基本稽古に汗を流せば受かる。 歯が立たない相手はとっくに七段になている。 落ちこぼれ組、リバイバル組での優劣を見られるのだ。 しかし、多くの人は漫然と稽古を楽しみ足踏みをしながら、年齢を重ねて動きが鈍くなって癖が強くなり、むしろ弱くなって行く。 彼のように昇段を目指し向上心を持って臨めば、相対的に差が開き、審査員の目を引く剣道になる。 要は昇段への思いを適切に行動をすれば結果は自ずと出て来る。
昇段を真摯に望む人は西村の指導稽古を受けたがる。 西村は立派な面打ちを誘導して行く。 相手は立派な面打ちを目指し打ち込む。 西村の指導を受けながら、ひたすら打ち込む。 その過程で自然に身体がそれを身につけて行く。 西村の気に臆せず打ち込んで行く。 実際の審査では西村のような気の圧が強い相手ではない。 結果は目に見えている。
小林さんも背の高い先生でした。 何よりも素直に教わって下さいました。 二人とも剣道の試合に強いタイプではありません。 器用なタイプではありません。 三橋修三→原田源次→西村雅興→杉山先生、小林先生 との流れになる。
原田先生が言った。 「最初教わった先生は強い先生では無かった。 しかし、打たせ方が上手かった!」
西村がカナダへ遠征行った時、ある先生に言われた。 「西村君は打たせ方が上手いね!」
原田先生は決して打たせてくれなかった。 西村には40年掛かって原田先生に面が打てた。 西村には永遠の課題を頂きながらの修業、研究でした。 当面の昇段を狙う人には,丁寧に教え、それを上手に打たれてあげて、体に教えてあげる。それが効果的でした。
ここまでは青木君から野正範士の言葉から始まり、野正範士の言葉が原田先生の剣道になり、さかのぼれば三つは私撰し絵に行き着く。
この教えも柳生新陰流の流れで、新陰流を開いた剣聖上泉伊勢守信綱〜新陰流の創始者で剣豪の上泉信綱に行き着き
『陰流』は相手の陰(相手の見えない心・無意識の動き)を観て相手を斬る。 相手の陰を斬る。 新陰流の創始者、上泉伊勢守信綱の若き日に、陰流の流祖、愛洲移香斎久忠が別れ際に言った。 『陰流の極めは、己の陰を斬ることや。 難題やなあ。 斬れるか? 斬れまい。 しばらく儂(わし)が若の陰を映し取るから、己が陰を斬る方法を考えなはれ』
この愛洲移香斎へと源流はさかのぼる。
源流の大河の一滴を捜す旅というのがある。 最初は岩間の隙間から少しづつ流れ出る細い水の流れにしか過ぎないが、海に注ぐ頃は大河になっている。 剣道を学ぶ上でルーツを知る事は大切な事であると思う。 柳生新陰流の原点はどこか?陰流はどうして出来たかを知れば、剣道の奥深い世界に到達する手引きになる。
過去に愛洲移香齋からの陰流→新陰流 →柳生新陰流については多くを書いて来た。 しかし、愛洲移香齋の情報が少なかった。 たまたま手元にあり、まだ読んでいない本をふっと見たとき、これが書いてあった。
『本邦に於いて、剣法の一大系統を開創したのは、鎌倉地福寺の僧慈音であった。 俗名相馬四郎で十才のとき鞍馬寺に於て剣法を授かり十六才の時、鎌倉に至り 地福寺の僧より、秘奥を知る。 日向の国の鵜戸岩屋にある安楽寺において大権現んに祈願した。 そして、念流をひらいた。 愛洲移香齋はこの慈音に剣を学んで後、十数年後に陰流をひらいた。 慈音の高弟には、愛洲移香齋と並んで、中条兵庫助がいた。 兵庫助は小太刀の妙諦を教えられ、やがて中条流をひらいた。 この流れが富田勢源で小太刀の流派になった。 このように剣法の系統をたどれば僧慈音から後代、天下の二大流儀に別れる。 愛洲移香齋が鵜戸岩屋に籠って二十一日参籠した。 満願の夜明け天井からの大蜘蛛が眼前に降りて来た。 白刃の閃光をあびせたが、翻弄された。 いつの間にか泥の様な眠りに落ちた。 夢裡に、白髪の老翁が出現して、「いかに、移香齋!」と笑いかけた。 「剣の秘奥は、敵を撃たんとする心からは生まれぬ。 撃たんとする心を捨てたとき、はじめて、撃つ事ができる。 申さば、おのが心の陰に在るものが、剣の秘奥を生む。」と告げて消えた。 目覚めた愛洲移香齋は、豁然として悟ところがあり、おのが流儀を、陰流と名付けた。 【西村コメント】 京都のお多福の女将さんの居間で、西村は原田先生から【不動智】と書かれた、藍染めの小さな布を頂いた。 「お前ならばこの【智】の意味が理解出来るようになるだろう」と言われた。 この時から【智】の意味を理解し、体現出来るように必死で剣道をした。 精神世界、スピリチャルの世界で、精神修行をして既に気がついていた【真我】と同じである事に気がついた。 普段は表に出て来ない本当の自分、垢に汚れていないピカピカの心、自分を護る本能、・・・これを知る為に座禅をし、瞑想をし、荒行をし、自己啓発のセミナーを受け、ヨガをし、武道をして追い求める。 本当に良い修行は自分の仕事を天職と信じきり、命がけでその本質を追い求めれば、自然に悟れて、自分にも、家族にも、社会にも豊かで貢献出来る。 西村は歯科医の仕事を天職と思い、生まれ変わっても、また歯科医になりたい思っている。 西村にとって歯科医療は歯科医道であり、歯科医院は医療道場である。 昔の剣道家が命を懸けて求めたものは、西村の歯科医療道と同じであった。
さて、【撃たんとする心を捨てたとき、はじめて、撃つ事ができる】は棒身によって捨てて出て、後は【智】にまかすと同じです。 【打とうと思わないで、思わず打っていた】 黒田鉄山先生も悩まれたところです。 原田先生の【打つ前に死ぬ!】
山川の 瀬々に流るる 栃殻も、身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ 写すとも 月も思はず、写るとも 水は思わねど、月ぞ宿れる(直心影流) 剣道は現代流のスマホでは在りません。 旧型のトランシーバです。 片側通行の通信手段、ボタンを切って相手にしゃべらせれば相手の言葉は聞こえます。自分がボタンを押して話しているとき、相手の話は聞き取れません。回りの騒音がひどい時は内容が良く聞き取れません。静かなところに場を移すと良く聞こえます。もし凄く静かで聞く事に集中すれば、話し相手の回りの雰囲気の音まで聞こえます。相手の声のトーンまで聞き分ければ、話の内容の真意までも聞き取れます。
さて、西村の書いている事は終始同じです。 皆様に理解して頂く為に色んな切り口から紹介しています。
さて、原田先生との初めての稽古! 明日は盛岡で四段の審査がある前の稽古会。 名前だけは知っている原田先生を見た! その日は自分は稽古をするつもりでは無かったから,見学の予定で防具の用意はしていなかった。 これは千載一遇のチャンスと思い,後輩の剣道着を脱がし、防具を借りて急遽先生に稽古を願った! 最初は先生の大きさは西村とおなじ背丈に感じた。 少したつと先生はだんだん大きくなり、山門の仁王様の様に大きくなった。 必死で掛かっていったが,しばらくすると目の前がスーッと暗くなって倒れそうになった,その瞬間これまでと言われ蹲踞をして終わった。
アパートに帰り布団に入ったのは夕方六時。 目が開いたのは翌日の十二時だった。 十八時間寝ていたのだ! あれ!今日は昇段審査だ、武道館へ行かなくてはと思うが体が全く動かない! それから一時間してやっと這い上がって布団から出た。 自転車の防具を積んで審査会場に行ったのは昼の一時半だった。 寝過ごして遅れたことを謝り、おなじ審査の段位審査の番号の最後に加えてもらった。 原田先生が来て、「昨日はちょっとやりすぎたかなあ!」と言われた。
私の強いのは皆様知っているので、ある人が側に来て,少し手加減をしてやってくれと頼まれた。 相手を立てるくらいに手加減をした。 その後、原田先生の前に呼び出されて「お前は、自分より弱い男を同じ段にさせるつもりか!」と大声で怒鳴られた。 試験は受かったのだが叱られた内容には落ち込んだ。 アパートに帰り布団に入って思ったことは、あの短い稽古で精も根も尽き果てる倒れるぐらいの内容だった。 十八時間寝てしまう位の稽古の内容だったことに気がついた。 原田先生が赴任した高校は何処も数年で県下で三位まで上ってくる。 一と二位は先生が作り上げ弟子がそれを守っている高校なのだ。 高校は何処かは関係ない、先生の指導力でどの高校もそこまで行ってしまうのだ。 剣道も結局は先生次第なのだと思った。 ダンスも一ヶ月間でずぶの素人が毎日八時間、腰が抜けるほどプロにしごかれた。 パートナーは東北選手権の優勝者だった。 最後の方は彼女がしごかれていた。 剣道でもこれほどやったことは一度も無い。 しかし、優勝をしたのだ! 夫婦で五年間やった人が六位、東北学生チャンピオンが十二位だった。 この夫婦は西村が全く踊れない時を知っていた。 しかし、優勝をさらわれた。 この夫婦は私の先生に指導を変え、後に東北チャンピオンになり、今はダンスのプロトなりスタジオを持っている。 習い事は師匠につきる¡¡¡¡¡¡のだ。 剣道ではこれを武運という。 高校生活は積水化学で二年、入り直して三年、浪人生活四年、二十四歳で大学入学 三十歳で歯科大を卒業し勤め先に引っ越すお金も無いときにダンスの先生から (息子さんの家庭教師をしていた)十五万円の選別を頂きやっとアパートを借り引っ越しが出来た。 阿修羅のごとく生きて、卒業五年後にはパートを含め120人の三歯科医院を経営していた。この十年間は勤務医時代の一年間だけ剣道をしたが,九年間は竹刀を持つことは一切無かった。 この勤務医時代にエピソードがある。 武道館の年越し稽古に参加した。 ある小柄な剣道家に誰が行っても全く叶わない。 小澤 丘 剣道範士九段. 三代会長だった。
西村が全力で掛かっても打ったとこにはいない。 柳の風と捌かれた! 終わった後、「貴方の仕事は何か?」と聞かれた。 「歯医者です。」答えると「歯医者にしては腕が良い!」と褒められた。 当時の剣道連盟の会長だったと思う。 当時二年連続女性優勝者と稽古をした。 やはり中々の者だった。 竹刀を全く動かさずにま直ぐ突っ込んでくる。 もし、少しでも手元を上げれば小手を打たれる。 これは試合をすればやばいなぁ!と思った。 女の日本一も西村には勝てなかった。 卒業時四段だった。 埼玉で稽古をしてどんな六段にも負けなかった。 しかし、七段の人には打てなかった。これが不思議だった。 県立武道館での稽古で六段の人が下から掛かってくるのを平気で捌いていた。 南浦和の道場で佐藤顕と一度だけ稽古をしたことがあった。 その年、埼玉で五段の審査を受けた。 国体選手だったと思う。 審査の後、佐藤顕先生と廊下ですれ違ったとき、「西村君今日は良かった!」と褒められた。(埼玉県剣道連盟会長) たった一回しか稽古をしていないのに覚えてくれていたのには驚いた ある大柄な人と稽古をした。 全く歯が立たなかった・・・現役 警視庁のプロかと思った。 埼玉でも原田先生に教わったと言うと皆様うなずいてくれた。
きりが無いので,今日はこれまで!
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