回想録-2
西村の掲示板の内容を理解していただくには,西村の剣道の人生を知ってもらった方がより理解し易いと思って書きます。 さらに深く知りたいと思えば「もっと劇的にもっとラクに、あなたは変われる。こんなに人生は楽しくなる。」KKロングセラーズ 著者 西村雅興 絶版ですがAmazonで調べれば中古で変えます。 安いのは1円、新品同様だとプレミアムがついて5000〜10,000円で買えます。 この本で多くの人が救われました。 赤井英和君も秀吉の撮影の合間は赤鉛筆を持って読んでいたと聞きました。 西村の魂の叫び声が聞こえます。良かった手に入れて読んで下さい。
西村は小学六年時代、中学一年の時は機械体操をしていました。 空中転回、地上転回,日に何十回と飛んでいました。 二年生になった時剣道部が出来たので剣道部に入りました。 部活の先生はバレー部の掛け持ちで県大会で良い成績をおさめる先生でした。 結局,先生なしでチャンバラをやっていただけでした。 網干警察署で剣道をやっているというので出かけました。 中学二年生で,無免許で当時流行った三輪の円ハンドルの自動車を運転して行っていました。 警察署の前に車を留めて、防具を担いで道場へ行っていました。 今思えばおおらかな時代でした。体が大きかったのでまさか中学生の無免許とは誰も思わなかったのでしょう。 そこでも,剣道を教わった覚えは無いのです。 見様見まねで、ただやって楽しんでいただけでした。 あるとき中学高校区別無しの試合で優勝しました。 その時の高校生がうちの高校に来いよと、声をかけてくれたのを覚えています。 結局,一番大切な時期に全く教わらず我流でやっていたのです。 当時は家庭の事情をもあり、気がすさんでいたので制服の右にジャックナイフ、左に自転車のチエンを入れて学校へ行っていたのです。 当時の部下が各の高校に進学し番長になっていました。 少年院、やくざの道にすすむ生徒の多い学校でした。 あのまま地元にたら義理で喧嘩をして傷害罪でお犯していたかもしれないと思うとゾーとします。 三年生の担任の先生はたまたま理科の先生でした。 自分の教科は100点取る西村が200人中40番くらいの成績であることに疑問を持ちました。 先生が言った 「西村君!この成績は貴方の実力では無いでしょう!」 西村はエー¡と思った。先生はそんなに思ってくれているのだ!舞い上がりました 翌日から勉強に嵌まりました。 お尻が痛くなるほど勉強をしたら、実力テストで学年で三位になってしまった。 中学三年の三学期はオール5になってしまっていた。 一番と二番は京大に進学しています。 付け焼き刃では超すことは出来ないようです。 しかし,先生の一言で人生が変わるものです。 九人の末っ子ですから,親も年をとっている,大学までは行かせてもらえないと不安がありました。 積水化学の養成校の募集があったので応募をすると、12人応募して受かったのは西村一人でした。 後で知ったのですが倍率は100倍くらいだったそうです。 誰もが小学時代、中学時代生徒会長していた人ばかりです。 経済的理由でこの道を選択したのでしょう。 毎朝六時起床、体操後数キロ走り、掃除をし学校へ行き部活をする毎日でした。 争って腹筋百回、腕立て百回とやっていたものです。 私が主将で一年生には毎日半年間15キロ走らせ、それから竹刀を持たせ基本運動、打ち込み稽古をさせました。 面を着けての練習は半年後の事でした。 当時、胴を着け天王山を走って登ったり。町の中を走っていました。 その時サントリーの瓶詰め課の課長の橋詰め先生が自発的に指導に来てくざさいました。 そこで、初めて剣道の指導を受けたのです。 いろんな大会に出させていただき、ほとんど優勝して来ました。 京都の大学生,一般の人にも負けることはほとんどなかった。 ただ!あるときだけは団体戦で完敗を期しました。 橋詰め先生が「相手はプロだから仕方が無いよ!」と言われました。 ともかく、何で負けたか全く判らなかったのです。 後で分かったのですが、京都府警の特練のAチームの大将だったのです。 今思えば当然のことです。 京都社会人の団体戦で、総合計15段までとの試合がありました。 我が校のA,Bチームは順調に勝ち上がり、準決勝は同門対決でした。 Bチームは面を着けて三ヶ月の後輩です。 たった三ヶ月面を着けて稽古をしただけで、準決勝進出を果たしたのです。 剣道とはこんなもんです! 朝に数キロ、半年間15キロ、基本打ちの練習だけで、面を着けての打ち合いは三ヶ月でここまでになれるのです。 大人の馴れ合い稽古と年齢は鍛え上げた高校生のスピードの前には全く歯が立たないということです。 決勝戦で困りました!いくら入っても,打っても審判が旗を挙げないのです。 決勝戦の大将戦では速い軽いは一本にしないのです。 これには参りました!急に一本の判断価値を変えられたのです。 高校生に優勝させる分けにはいかなかったのでしょう。
さて、西村はそのうち剣道はしたいなあと思い、当時5,7リッター大型アメ車で京都に行き、昼は京都大会を観戦し、夜は毎日、雄琴で髭をそっていました。 当時は毎月百万円位遊ぶお金があったときでしたから。 あるとき、原田先生の立ち会いを観て、参加資格が六段と言うことを知り、急に六段がほしくなりました。
あるとき,ふと思い出しました。 橋詰め先生は参加しているかなあ?と思ってプログラムを見ました。 先生の名前を見つけ、観戦し、その後挨拶に行きました。 17歳の時に離れ、40歳になっての再会でした。 京都での六段審査、七段審査にも見に来てくれました。 剣道を始めて指導をしてくれた先生です。
積水の卒業前の二月に出奔をし、義理の兄に世話になり普通科の高校を一年生からやり直しました。
あるとき、義兄の知り合いが相模原の剣道大会があると教えてくれ参加しました。 負けたと思い帰ったら後から三位の賞状が届きました。 あるとき、ある先生から模範試合をやれと言われてやりました。 何の苦も無く簡単に片付けました。 後で聞くと、その年に神奈川県インターハイ個人出場選手でした。 西村に声をかけたのは警視庁の剣道の先生で、相手の師匠だったようです。 それから数十年後、七段を志していたので武道館へ審査風景を見に行きました。 大柄な男で見事な立ち会いを観て、あいつは絶対受かるよと思いました。 暫くすると、横から「西村さん久しぶりです!」と声をかけてくれた人がいた。 昔、模範試合の立ち会いの相手だったのです。 よっぽど悔しかったのでしょう!全く会わなかったのに西村の顔を覚えていた。 座っていたところが相模原市剣道連盟の人達の観戦場所だったのです。
新たに高校の一年生になっても、そこには剣道部が無かったのです。 そこで剣道部を作ろうと思い募集をしました,寄せ集めの剣道部です。 試合前に数回稽古をするだけでした。 それでも東京都でベスト8になりました。 その時、巣鴨の大将に負けた記憶があります。 社会人で試合をしてきた西村には高校生に負けるなんて頭の片隅にもなかった。 あれ!失敗したかなぁ!くらいの感覚でした。 積水で鍛え上げた体は体育の授業で砲丸投げをすると、世田谷区の記録を遙かに超えたのです。 その時の体育の先生が言ったのです。 「明治でアメラグをやるなら合格点の半分で入れてやる。」 西村は答えました「先生!明治なら入れてもらわなくても入れます。」 その後約七年後、盛岡のカワイダンスホールで出会うのです。 岩手国体の東京都代表を連れて来られていたのです。 「おう!西村奇遇だな!」と声をかけられました。 そのスポーツでは東京で有名な立場の先生だったのでしょう。 当時、国士舘高校は硬派で通っていました。 あの制服を観ると,一緒に歩いて同級生が別の道へ隠れるのです。 剣道も別格で強かったようです。 毎年、世田谷区で団体戦で日本学園の我が選手は2−0で副将まで完敗です。 しかし、大将戦は2-0で西村の勝ちです。 翌年、又同じく大将戦は2-0で西村が勝ちます。{稽古はほとんどしていません}翌々年、何と前半を頑張り大将戦まで持ってきたのです。 その時の相手の大将が強かったようです。 西村は三年間ほとんど稽古をしていなかったせいもあるようです} 時間終了間際、西村は相手とすれ違っていました。 分けがわかないのですが,西村に旗が挙がっていたのです。 後で聞いたところ、「見事な抜き胴が入った!」と聞きました。 全く覚えていないのです。 「負けに不思議の負け無し、勝ちに不思議の勝ちあり。」の言葉通りです。 年齢的には大学2年の年齢ですから褒めた話ではありません。 この不思議体験こそ「無心になった時,智が対応する真我のなせる技」だと 後々気がつくのです。 国士舘の大将は国士舘大学に進学し、大学生になって後輩の応援に来ているのです。 あれ!西村さんまだやっている!と思う訳です。 そのうちの一人が私のところにやって来て、「先輩!いつ高校を卒業するのですか?」と聞いてきた。 それからずーっと年月がたち、甥っ子が日本学園に入学した。 部活の紹介で「我が日本学園高校はあの国士舘に勝ったことがある!」と叫んだようです。 「兄さんの高校時代の話でしょう!」 積水で鍛え上げた体のお陰の名残でやっていたのでしょう。 長々と自慢話を書きましたが、一番のポイントは【全く覚えていない胴を打った】事です。 これが面なら【真面】です。 その時は気がつかなかったのですが,【真我】に出会った最初です。 それから、四年間の死ぬより辛い浪人生活が始まるとは夢にも思いませんでした。
縁有って、岩手医大の歯学部に入って剣道部に入りました。 それでも、来年の医学部試験に備えて毎日5時間くらい勉強をしていました。あるとき、義兄が歯医者で行くようにとの勧めで医師への思いは消えました。
それからの挫折感は大きく、人間性が豹変したように変わったようです。 無念さの思いを竹刀で相手にぶつけていたようです。 相手こそいい迷惑です! 入学時は六年生と同じ年齢です。 先輩が私の事を【虎男】とあだ名をつけました。 私の仲人になった友人が私の事を「吠えてる犬の鎖を外したら飛びかかる犬のようだ」と言っていました。
あるとき盛岡一高の剣道部が練習に来ました。 学部の上の方になるとほとんど練習に来なかった。 彼らに対峙出来るのは西村一人でした。 一高の卒業生に(今は大きな眼科病院の院長になっている)「俺を一高の練習に連れて行け!」と言って乗り込みました。 先日の敵討ちに、一人で乗り込んだのです。 突くわ、投げ飛ばすわ、選手全員コテンパンに叩きのめしました。 「女の剣道であるまいし!今日打たれたくらいに強くて!」と言ってかえりました。まるでヤクザの襲撃のようです。 医大から【鬼が来た】と言っていたそうです。 しかし,良いこともあった。 彼らは打ちのめされて、自分たちの打ちの軽さを思い知らされ、強い打ちへの稽古をしました。 何と県下一番の進学校がインターハイの代表になったのです。 勝敗は紙一重、旗が挙がるか紙一重、強い打ちを心がければ、この様な事も起こりうるのです。 原田先生が赴任した高校は三年後、県下三位に登ってくるのも頷けます。
大晦日、格闘技で最終戦、相手もキックでは第一人者。 しかし、持っている感性が全然違う! 相手の無意識が打とうと思った瞬間すでにパンチを入れている。 妻は格闘技を観る人では無い。 しかし、この試合を観て興奮していた。 「あの子は凄い!今度試合があったら観よう!」 妻の凄い感性を刺激したようだ。 私の妻の感性は西村の十倍鋭いのだ。 賀来先生との稽古で未発の発で何本も小手を取られ、ショックで夜うなされて寝汗をかいて気管支炎になって寝込んだことがある。 原田先生も同じだ!小さなビデオの画面を観て、何をするか知っていた。 佐藤先生も朝のテレビ番組で「はい次は面を打ちます、次は小手です」と 100%前もって当ていた。
西村は強そうな事を書いている、医学生なんかどれ程のものかと思っていた。 しかし、全く歯が立たない無い先輩が二人いた。 一人は主将の斉藤なさん。 学生選手権で個人八位になったと聞く。 合宿では竹刀を抱いて寝ると聞いたことがある。 もう一人は越前さんと云う人だ。 一年間一本も取られないのだ。 団体戦では引き分けになることがある。 しかし,個人戦では最後まで勝つのだ。 彼がいつも言う「俺は面を打ったのだが、どう言うわけか、小手が入っている。」 お母さんはスキーのオリンピック選手、お父さんは剣道家。 彼は小学時代日本一になっている。 秋田高校が国体、インターハイを制したとき、勝てない相手が大館の高校に一人いると言わしめた男だ。 この二人との稽古は西村の頭を悩ました。 斉藤、越前、西村の三人が市の団体戦に出ると県警の特練の選手に勝って優勝してしまう。 越前さんには最後まで勝てなかった。 しかし、工夫をして罠にかけると一本は取れるようになった。
一年生の時、合宿をサボってダンスの試合に出た。 それがバレて,選手を外されたことがある。 その後は稽古に励んだ。 翌年、岩手日報に「台風の目,医大の西村」と書かれたことがある。 決勝戦は県警の先方で試合巧者だった。 相手の小手がドッチボールの様に大きく見えた! 思わず小手を打っていた,それで優勝した。 普段,西村は小手を打たない。 皆様から台風の目が優勝したと散々言われた。 積水にいたとき、ある怪我で左小指が効かなくなった。 これが無ければ警察官になって剣道で飯を食おうかと思ったことがある。 この二人を観たとき、上には上があると知り歯医者の世界に入って良かったと思った。 後輩に五月女と言うのが入部した。 初めての越前さんとの稽古で互角に対峙するのを観てびっくりした。 本人の凄い才能もあろうが、脇の締まった鋭い打ちは教わった先生のお陰だと思った。 あの剣道は尊敬に値すると思った。 暫く剣道から遠ざかっていたが、リバイバル組だが再開すると直ぐに七段になった。 あるとき原田先生に聞いた。 「先生の様な良い見本があるのに、何故岩手の先生の剣風を見習わないのですか?」原田先生は答えた。 「明石はやった!」と一言いった。 (明石先生は全日本選手権で二回三位に入賞している。) 岩手でこれは格が違うと思った人が二人いた。 お二人は八段になっている。 岩手国体用の選手に選抜されて、岩手の大学へ就職させられた先生方だ。 国体県は数年前からめぼしい選手を引っ張っているということだ。 このお二人と西村では明らかに違いがあるのだ。
西村の教えに先をを取る意味がある。 お札をジーと見つめさせ落とすと100%掴めないといっていた。 今まで誰にしてもそうだった。 今回ハワイから歯の検診に三枝先生の息子さんが来院した。 彼はピアノの修業にボストンの大学へ行き、目下ハワイで音楽で、ピアノで飯を食っている。 彼にこれをやると、100%掴んでしまうのだ! 西村はびっくりした!こんな事があるのか! 彼は見た瞬間、脳の指令を介さずに掴むのだ! 三枝先生は超能力気功整体師で服の上からでも気の流れが見える。 多くの有名人を施術している。 福島の放射線を東京で感じるので,北海道へ家を移した。 合気道では塩田剛三先生の弟子で、御互道の一派を開いた。 地震の予測が当たるので有名な人だ。 次男も占い的思考が鋭く先生と云われていて、彼の感性も高くこの子に剣道を教えたいと私に思わせた。 この三男はさらに上を行くのだ!
持田先生の地元で聞いたことがある。 「彼は、ミカン取りでは誰にも負けなかった!」と伝説がある。
剣道で勝ち負け、勝負にこだわっても意味が無い。 遺伝子レベルで勝負がついているからだ。 親を恨むしか無い。 [それを言っちゃお終いよ!]と虎さんが言いそうだが、それが現実だ。
親は自分の出来なかった事を子供に期待するが、自分たち夫婦のをよくよく観察すればそれは子供に可哀想なものだとわかりそうだが。 DNAの組み合わせの番外を期待するしか無い!
ここで言いたいことは、剣道の理合いを十分に教わり、体の自然な合理的な 動きになるように科学的に検証していけば、あるレベルにまでは行けると言うことだ。 それは良き師を見つけ、信じて素直に精進する事だ! 教えてあげたいと思っても、その人のプライドが邪魔をして素直になれない。
青木君が私に言った。 「西村先生が八段になれば稽古をしたい人は沢山いるでしょうね!」 一時、その気になったが,そのために失う事のおきさに気がつきやめた。
人は「承認欲求」を満たすために頑張る。 頑張りすぎて自分を見失う。 時に,この逆を行って、拗ねて自分を捨てる人がいる。
この回想録-2は十分をわきまえる事を書いている。 自分を過大評価すること無く、過小評価すること無く、本来の自分の姿で生きていきたいと書いている。 簡単な事だ【心から自分を愛すれば良いだけだ!】 良く意味がわからない人は次の本を読んでほしい。 愛と怖れ―愛は怖れをサバ折りにする。 ジェラルド・G. ジャンポルスキー、 袰岩 ナオミ | 1990/6/1
剣道で勝たなくても、昇段しなくてもそのために努力し、なにかをに気がつき人生が豊かになった人が勝者なのだ!
次に続く
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