回想録-3
西村が大学2年生の時、医学部、歯学部の全国大会が盛岡であった。 団体、個人とも全て優勝し、完全制覇を成し遂げた。 その時、産婦人科を開業している村井先生が、天下の名人がこの地に一同に集まることは二度と無い。 そこで、有名な範士八段の先生方を招いて食事会をした。 (各校の剣道の師範をされていた先生方) その頃は未熟で先生方の偉大さは知らなかった。 大きく記憶にあることがある。 数々の試合で名声を得ていた、小柄ながら上段の大浦先生と話をした。 この料亭は中々良い、俺の家くらいあると言っていた。 剣道でも事業でも成功しているらしい。 西村が聞いた 「先生!剣道の強さは何で決まるのですか?」 大浦先生は腹をぽんと叩いた。 「肚できまる!」と言った。 当時の西村には全く理解出来ない事だった。 そのことが真に判るようになるには30年以上掛かった。
京都大会で大浦範士先生の立会を観た。 相手は剛剣で有名な先生です。 この先生が打って行くも大浦先生はピクリともしなかた。 この様子は剣道雑誌で高く評価をされていた。 西村が剣道の奥深さに気がつき始めた頃です。 歯学体の機会に先生の側に行って色んな話をした聞くようにした、
原田先生が盛岡市の高校に赴任された。 歯科学生の六年生は死ぬほど忙しい時期です。 朝早く起き勉強し、昼間は臨床実習、レポートを書き、家庭教師にも行き。そのめまぐるしい中で週一回の武徳殿での原田先生との稽古は欠かさなかった。 この一年間の稽古が西村の剣道の基礎が出来上がったとおもう。 春になり卒業して埼玉の南浦和の尾澤先生にところに勤務した、 尾沢先生は歯科医としての原田先生のような存在だった。
南浦和の駅近くの剣道場へ出かけた。 当時、段位は四段だが、五,六段の誰にも負けなかった。 原田先生との一年間の稽古でダントツの進歩をしていたのだ。 県の稽古会に行くと、六段が下から掛かってくるのを簡単に捌いていた。 相手が勝手に下からお願いしますと言うのだから、元立にたっていた。
五段の審査の時に会場で西村が四段知られてしまった。 前にも書いたが、佐藤顕範士に良かった!と言われる程に出来が良かった。 原田先生との一年間の稽古が今の基礎になっていて、外に出てみて如何に強くなっていたかが初めて実感した。
あるとき,国士舘の学生が埼玉の体育館で出稽古に来ていた。 そのとき楢崎正彦範士の稽古を観た! 鶴の様にスターンと立ち、一瞬に国士舘監督矢野先生の面をとらえていた。 一時あの面に憧れた! しかし、あるときある十段の会話で「あのレベルになったのに、自分から面を打ち込むのはどうかとおもう。」 成る程!剣道はレベルに応じてすべきがあるらしい剣道があるらしいと思った。
国士舘の選手と地元インターハイに出た高校生が試合をした。 圧倒的に高校生の勝利だった。 素早く竹刀の先を当てに行けば高校生に分があるのだ。 しかし、稽古をすると全く歯が立たないと思う。
エピソード 剣道日本の若手の記者が取材に来た。 善意本選手権にも出ている新進気鋭の若手剣士だ。 私が彼にあの人と稽古をしたらどうかと勧めた。 小柄な初老の老人で迫力なんか全くない。 しかし、彼は全く歯が立たなかった。 私は彼に耳元で「リューマチ持ちの先生ですよ!」彼は絶句した。 彼は八段になり武道館の合同稽古に来ていたときに、「あのときはお爺ちゃんに歯が立たなかったねえ!」と西村が言った。 彼は素直に「それが私の剣道の課題です!」とさわやかに言った。
勤務は一年で七千万円命担保で借りて、青山通りで開業した。 それから十年間は剣道どころではなかった。 ただいつか剣道をしたいと京都大会は見に行っていた。 竹刀を持つのは十年後だった。
仕事は順調で所得は妻に一千万私は六千万円位あった。 娘をスイス、息子をイギリスへ留学させるお金もあった。
京都大会の出場資格が六段以上と知り、毎年一年に一回京都で原田先生と稽古をしたいと思うようになった。 竹刀を持って三回目、誰かが後ろ脚をバット出限りだ殴ったと思った。 重度の肉離れだった! 何ヶ月かたって竹刀を持って稽古を始めた。 自分では気がつかなかったが、体重の全部を右足にかけてたようだ。
六段なんてメじゃないと高をくくっていた。 四段の時に六段に負けたことが無いからだ。 十年間の時間の剣道的空虚さ、さらに左足の肉離れ!
審査では小柄な人に面を打ちに行って、小手を打たれて不合格だった。 十年ぶり16回しか稽古をしないで試験を受けたのだから相当なめていたのだ。 その様子を隣の試験所の審判関から原田先生がこれを見ていた
前にも書きましたが、西村が10年ぶりに剣道を始め、3回目で肉離れ、一ヶ月間の松葉杖、そしてその後二ヶ月間の16回の稽古で六段を受けた時の話です。 10年ぶり20回も稽古をしないで六段を受ける図々しさ。 思い上がりもはなはだしい限りですが、卒業して3医院従業員100人を超える経営を図々しくやっていた頃です。
もし、肉離れをしないで一回で六段に受かってしまっておれば、あのままの人生を送り、西村は今ごろこの世にいなかったと思います。 しかし、西村の運命は次の手紙で救われました。
『冠略 一昨日、武道館で久し振りに拝見致しました。 審査が終了してさがしても見当たらず、 連絡もできないので帰りました。 今回は今少しのところで残念でしたが おそらく次回は充分と思います。 是非連絡したいので、牛袋君に住所を教えてもらいました。 気の付いたところを二、三御連絡致します。
一、気力、姿勢、態度、手の内とも全く非の打ち所なし、立派です。 一、右足に体重がかかりすぎていました。 左足のかかとをもっと下ろして両足に平均に重心がかかるようにすると良いと 思います。 そうすることで左手にぎりが『ツボ』に収まり相手のわざのおこりや、打突の 色のおこりに打ち込める筈です。 打とう打とうが先になり、肩に力が入り、重心が前足にかかると、相手に色が 見えて打突がおくれると思います。 一、攻めは今のままでよろしいと思いますので、 相手を打ち込もうと思う気をぐっとこらえて、相手の色(攻める鼻や、打突の おこり、相手の打突のつきたところなど)に 合わせた、一生懸命の打突、(小手でも面でも)(肩の力をぬいて) であれば最高です。 御精進を念じ上げます。 用件のみで 十一月二十九日 原田源次拝 西村殿
この手紙を読んで、早速ビデオを撮りました。 先生のご指摘通りでした。 ビデオに映る己が姿に顔が真っ赤になりました。 何と醜い心の剣道なのかと。 左足の肉離れで体重が前足に以前よりかかっていたのです。 相手をただひっぱたけば俺は強いの確認作業だった。 逆に言えば「弱虫、」「意気地無し」の証だったのです。 これは剣道以前の問題だ!生き方の問題なのだと気がつき、それ以後は一年間全く剣道をする事なく、ひたすら自己を見つける心の修業をし、二院を10月12月に閉鎖し、翌年正月から稽古を始めました。 すると五月には誰もが認める充分さで受かりました。 稽古回数は約50回でした。
今思えば、あの時剣道を始めた事、肉離れをした事、原田源次先生からのお手紙があったこと、心の修業のチャンスをいただいたこと・・・ 1日が20分にしか感じない阿修羅のごとく走ってきて、ビール一杯で朝方吐き気がするほどに体【肝臓】が参っていたのですから。(昔は二升飲んでも平気、ビールは水感覚でした) 原田源次先生の手紙で九死に一生を得たのです。 だから、師匠は命の恩人なのです。 西村が昇段審査を受ける人に指導をするのは、原田源次先生の恩を忘れず、昇段を目指す人に人に親切にすると心に決めたからです。
ある先生が「西村先生は何故そこまで原田先生に入れ込むの?」と聞いた。 にしむらは言った。 「命の恩人だからです!」 幸せに活きるために、 二つの診療室を止めるということは一億三千万円捨てると言うことです。
六段に受かるためにこれだけのお金を捨てられたのです。 後に書くかもしれませんが、国税不服審判所と三年間戦い,大きな気づきが有り 七千万円捨てました。 七段は爽やかな気分で、原田先生曰く「100点満点で160点の出来だった!」 合格しました。 お金の話をすると嫌う人はいますが、現実に六段七段をえるために二億のお金を捨てたのです。 この心の垢を落とすことで,今活きておられるのです。 命はお金で買えるのです、間に合う内ならば!
手紙の話が出たので追加します!
佐藤博信先生とお話し。
今日は先生が歯の点検で来院された。 3年ぶりなのだ。 便りの無いのは良い便りだった様だ。 思えば、西村が剣道雑誌で先生の写真を見て、気の毒にと先生の肩の症状が診て取れたのが始めだ。 その後、風の便りで肩の手術もされた聞き、その為明治村の選に漏れていたと聞く。 西村が原田源次先生から先に手紙を出していただき、その後に西村が先生の口腔内状況を手紙で送り、書いてあることが100%その通りとお云うことで来院された。 肩は正常に動くように治りその年の明治村の八段選で4回目の優勝をされた。 その後しばらくたって、イタリアへ団長で行くのだが左手が動かなくなった。 何をやってもダメで、再度来院されすぐに肩は治した。 それから叉しばらくたって、治療することがあった。 その時、九段位制が無くなったこと、今度は右ヒジが痛みが強くなったこと等で、 「俺はもう剣道をやめようかと思う。」と西村につぶやかれた。 西村が言った。 「剣道界は先生の様な実力者で、人柄の良い人が長く剣道をされる事が一番大切なことです。黙ってこの一本の歯を抜かせて下さい、そうするとヒジの痛みが楽になります。」 先生は「お任せします。」と言われた。 その後元気に剣道をされている。 癌の手術、心臓のバイパス手術を乗り越え健在である。 最近の剣道雑誌での活躍の様子を見て、西村は日本剣道界の陰の功労者と、自画自賛をしている。
帰り際に、佐藤先生が「原田源次先生から一通のハガキがきた、それが縁の始めだった!本当に良い縁に出あった、お陰で助かった!」と感慨ふかげに言われた。 西村「見知らぬ人からの手紙ではその気にならないでしょうから、原田源次先生にお願いして先に連絡をしていただきました。」 先生「本当に原田先生には感謝をしています。あれほどの先生こそ九段位になるべきだ。」と言われた。
佐藤先生が何故四回も明治村で優勝されたか! あるとき奥様とお話をしたことがある。 「あの人のあの防具は私が稼いだお金で買ってあげたのよ!」 と言われた。 はたっと判った! 佐藤先生の承認欲求は奥様から褒められることなのだ。 自分の一番近い,愛する人から褒められたいとのエネルギーが前人未踏の結果を作っただと思った。
カナダの朝岡先生の肩を治した話をした時。 「あそこの息子が1ヶ月間警視庁で稽古をした。 中学生だから大丈夫かと言ったら、高校生並の体をしているからお願いしますと云う事だった。 警察で寝泊まりさすわけにはいかないので、西山先生の道場で一ヶ月間寝起きをさせてもらった。 あの親子は正真正銘本物剣道家だ! あの兄貴の方は親父より強いし剣道も良い! 大したもんだ。」とベタ褒めでした。 さらに佐藤先生。 「それから、岩立先生の面に来る時の攻めなんだが、先生(西村)の分析が随分役に立ったよ!くっと腰を入れるところ、その瞬間は打ちに来ないで・・・・。」
西村が永松陟範士との稽古で良い面が入った時の話をした。 「永松範士の左拳を先に動かせれば打てると思っていました。 その為、足からの攻めはいりの途中に右膝を軽くグッと攻めに使うと、先生の左拳が5センチほど前に動きました。 その瞬間面を打っていました。 しっかりと面入りました。 その後、見事に打たれた、参ったとお褒めを頂きました。」 佐藤先生 「右膝の攻めを使うなんてプロ並だ!」と褒めて頂いた。 ・・・どうやらプロなら知る攻めの高等技術の様だと確信した。
日本の剣道最高位の佐藤博信先生が西村の剣道の講釈を聞く! 普通はあり得ない話だ。 主治医の特権か? でも、西村の分析力は高く評価して下さっている。
日本剣道界の為に、いつまでも元気でいてほしい先生だ!
佐藤博信先生の訃報に接し思いでを書く。 西村雅興 2014年1月6日(月) 佐藤博信先生の訃報に接し思いでを書く。
佐藤先生のお顔を剣道雑誌で見て、先生の顔の歪みからお口の歯の状態、腕や肩の痛みが観えた。 その後、西村の予測通りに腕を痛めている事を知った。 原田先生に西村が佐藤先生を治せると言って、その内容を先にハガキで送って頂いた。 そのハガキを見られた頃を見計らって、先生のお手紙を出した。 顔の歪み、歯の欠損状況、腕の症状等を書いて送った。 すると先生から電話があった。 「100%手紙に書いてある通りです。 今は主席師範になったばかりで時間が取れないので、一息ついたら治療に伺います。」 これが始まりでした。 西村は誰もが尊敬する剣道界の宝が歯が原因で腕を壊し、明治村にも出場出来ない状況を残念に思っての行動でした。 先生は暫くして来院され、西村が咬合治療をするとすっかり治られた。 そして、明治村に出場され4回目の優勝をされた。 準決勝辺りで原田先生と対戦され、佐藤先生が勝たれた。 西村の治療が原田先生に仇となってしまった。 これを縁に佐藤先生との付き合いが始まった。 その後何年も後の事だった。 先生が「腕が痛くて全く動かない。全剣連の代表でイタリア遠征の団長で出かけるが困っている、何をしても良くならないので困っている。と来院された。 診ると、左上第一小臼歯が縦にひびが入り、ここで噛むとことが出来ず顎の位置がズレてしまっている。 特別な方法で修理したら、その場で腕の痛みが消え、安心してイタリアへ行かれた。 また、それから何年もあとのことだった。 もう俺は剣道が出来ないわ!右肘が痛くて竹刀が振れないと言われた。 丁度その頃九段制が無くなり、先生の目標が消えた頃だった。 その前からーー原田先生みたいな人が九段になるべきだと言っておられた。 気落ちと腕の痛みで意気消沈されていた佐藤先生だった。 そこで、西村が言った「先生!騙されたと思って西村の言う通りに治療させてください、きっと治しますから。」 それは右上の第二大臼歯を抜歯し、顎を左に十二分に動く様にする治療だ。 この治療をすると右腕の肘の痛みは消え、剣道をする気になられた。 このような佐藤博信先生と西村との関係で色んな事が書かれている。 思い出すのはーーー「先生!今年は京都で受けるのかね!」 八段を受ける力があると佐藤先生から認めて頂いた言葉だった。 西村の返事は「私は本業が大切ですから、他に欲は出さない事にしているんです。」 と言った。 でも、力を認めて頂いた言葉は嬉しかった。
ここまで読まれた先生方は『ロゴ検索』で『佐藤』で検索して下さい。 先生と西村のやり取りが書かれています。
検索したら、後ろから(古いものから)読んで下さい。 きっと上達の秘訣、先生を偲ぶ話が多く出てきます。
読まれたら、感想をお書き下さい。 先生を送るハナムケの言葉にしたいと思います。
原田源次先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
最近は全日本剣道連盟全国稽古会の武道館へ現れぬ先生を待ちながら何度も足を運びました。 忠犬ハチ公の心境が良くわかる最近でした。 そんなとき、前回のハガキで、「俺は88才になったぞ! 少し体調を戻して剣道をする。」との連絡を頂いていました。 全剣連の合同稽古に再び来られる事を心待にしていました。 先日、京都で先生の近況を岩崎先生から聞き、毎日気を揉んでいました。 残念ながら先ほどのハガキが最後のお便りになってしまいました。 私にとって学生時代から教えを頂き、有る時は頂いた手紙で西村の人生が変わり、命の恩人に当たる人です。 多くの先生方も原田先生の教えにより正しい剣道の道を歩まれました。 偉大な先生のご冥福をあらためてお祈り申し上げます。
西村と原田先生との間の話を暫くの間、詳しく報告をし、先生をしのんでいただきらいと思います。
これはアメリカ人の柔術家、路流ファーの言葉です。 アイダ・ロルフ博士によって開発された“ロルフィング”。 いま話題のヒーリングをご存知の方も多いと思いますが、ダニエル・ミルズは、日本にいる三名の公認ロルファーの一人です。 私は彼との出会いによって、身体の奥に溜まったストレスを解放するボディーワークを学びました。ダニエルの著作「光の中へ」に、私のことが書かれていますのでその一部を紹介します。
『彼は既にマスターレベルの武道家であり、次への昇段試験を計画中だった。武道家もこのレベルになると、技術やテクニックは決定的な要素となることはない。彼は言った。 「敵よりも優れた技術を持ち、相手を負かすことが勝利に結びつくのではない。乗り越えなくてはならない問題は、相手を敵とみることだ。敵がいるかぎり敗者がでる。精神的なレベルでは皆、兄弟だ。一人が負ければ、もう片方も負けなのだ」 ロルフィングをしながら会話は続いた。 「葛藤が消える意識状態があるはずだ。敵が消え、自分の一部である友人だけが残る意識状態が存在する。このビジョンを持てれば、葛藤は消える。敗者はいない。勝者だけが残る」 彼は試験に受かった。簡単に、しかも歓びをもって。試合は始まる前に終わっていた。試合はなかった。敵を完全に自分に受け入れてしまったのだ… 僕たち一人一人が現状の中で嫉妬と怖れと怒りと不足欠乏からなる競争心を彼のように超えようとするならば、人類に未来はあるかも知れない』
私が七段になったときの話です。 ダニエルは言います。 「私はロルフィングをしながら愛を語り、その人を支えます。その人が愛を取り戻したとき、病気は治り初めています。西村先生も歯を治療しながら愛を語っています。その意味で、あなたは既にヒーラーなのです」
今日はここまで
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