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- 雨宮先生ご逝去 - 西村雅興 [2006年7月3日(月)]
Re:雨宮先生ご逝去 - 小泉 [2006年7月4日(火)]
雨ちゃんを尊敬して、西村の恥を明かす。 - 西村雅興 [2006年7月10日(月)]
雨宮先生を偲んで! - 西村雅興 [2006年7月6日(木)]



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雨宮先生ご逝去
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2006年7月3日(月)
ヨーロッパから帰ってくると次のメールが入っていました。

雨宮弘先輩が、6月30日、永眠されました。
故人のご冥福をお祈りし、謹んでお知らせ申し上げます。
http://www2.wind.ne.jp/tamaya/ame1.htm(生前の剣道日記ホームページ)

人柄の良い真っすぐな剣道をされる西村の大好きな先生でした。
ご冥福をお祈りします。
先生の人柄は西村の[ログ検索]で、雨宮、雨ちゃん で検索していただくと彼の剣道に対する真摯な態度人柄が偲べます。


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Re:雨宮先生ご逝去
小泉
2006年7月4日(火)
小泉と申します。いつも勉強させて頂いております。
雨宮先生の日記が1月から更新されておらず、どうされたのだろうと思っていましたが…

雨宮先生とは直接お会いしたことも無く、HP上でしか存じ上げませんが、平成15年3月12日の記事に鳥肌の立つほど感動し、少年指導にあたられる方が皆この様な先生だったらどんなに良いだろうと思った記憶があります。
とても残念です。
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雨ちゃんを尊敬して、西村の恥を明かす。
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2006年7月10日(月)
三十数年前の話になる。

当時、私立歯科大の学生ありながら、貧乏学生で盛岡から仙台までの試合に行く旅費が無くて、何度も時計が質屋に入った事か。
そんな状況では私学の医大の主将などを引き受けるなどの気は全く無かった。
我が岩手医科大学【医学部・歯学部】は慣例として代々医学部が主将をしていた。

六年遅れて大学へ入った西村は自分の学年が主将になる順番の時になったとき、年は28歳、実力は一番だった。
同学年に医学部には人柄の良い剣道も強いI君がいた。
当然彼がなるものと思っていたが、あるとき前々年度の主将に呼ばれた。
私の前の学年では当然主将になるべき人物が、歯学部ゆえにならなかった。
「西村君、主将にならないか。」
その意味が解った。
彼は歴代の主将で最高の剣歴を持ち、医学部歯学部両学部とも団体個人の完全優勝を成し遂げた、人間的にも最高の人物(西村より年下だったが尊敬をしていた)だった。
剣道を愛するが故に医学部・歯学部の壁を越えて、なるべき人が主将になるべきと表明したのだ。
当時、これから数年間の主将候補は歯学部にいたからだ。
今、慣習を破っておかないと分裂の危機が来るとの配慮だった。
それで、西村は両学部の主将を引き受けた。

あるとき、義兄にその話をした。
義兄から「お前は大学に入ってまで剣道をしているのか。」と云われる立場であった。
医師の義兄より注意を受けた。
「お前も医者の端くれになるだろう。
お前の体力が他の人にあると思うな。
けが人、病人を出すと一生後悔する事になる。
真に心せよ。」

当時、西村からすれば医学部・歯学部の剣道の稽古は一部の選手を除いては、お遊びの様な剣道だった。
それで、もっぱら市の稽古会で剣道を楽しんでいた。
主将になって思いっきりやると、今の部員のレベルではヤバイと思った。
悩んだ末、一学年下のなかなか人物が出来たM君に新入生の指導を任せた。
それで、選手層に的を絞って稽古をした。
次の主将を決めるとき、全稽古回数の出席回数の一番多い人から選ぼうと思った。
その為、40度熱を出しても、一人の出席者のいない日にも道場へ出た。
一年間は西村は無欠席だった。
気がついたことは、強さに比例をして出席率良かったことだ。
結果はなるべきM君がなった。

今、年をとって考えてみると、部員全員に申し訳ない事をしたとの思いで一杯だ。
剣道の意味をはきちがえていた。
竹刀で頭を素早く打つ競技としか考えていなかった。
更には、西村の場合はコンプレックスの反動、はけ口にしていた。
知らなかったとは言え、気がつかなかったとは言え、剣道部主将の本来の意味は全く別の所に有ったのだ。

雨ちゃんの人柄に出会う度に、ホームページを見る度に、自分の剣道の有り様を正してくれたものだ。
そこで、小泉さん、西村の尊敬する剣道家の雨ちゃんの日記の一部を載せる事にする。

『雨ちゃんの剣道日記 平成15年3月12日


妙義剣道教室は雨宮が中学校を卒業したあと、そうだ第一回の剣道大会で当時富岡高校の一年剣道部だったが、優勝した。
当然、あの当時雨宮よりも強い人はいなかった。そして30数年がたった。
今は当時血気盛んな指導者も70代、ひざが痛い、腰が痛い、難病を克服したなど3名の高齢の指導者の先生がいる。
夕食後、うたた寝をしている私に、「妙義の剣道教室に教えにいったら?」という家内のすすめで重い腰を上げた。
高齢の先生2名、42歳のJR高崎支社の監督、JRの社員19歳が指導していた。

19歳が小学生面付け組を指導していた。基本打ちの合間の話が長い。
41歳の七段が初心者、面なし組を指導していた。
70歳代の先生方は1時間、子供の後ろでてもちぶたさにうろうろしていた。

我が妙義剣道教室は子供の指導だけではなく、三世代が楽しく剣道ができることが重要なんだ。42歳の七段を呼んで注意した。
剣道の強い子を育てるのではない。
子供は礼儀を学ぶこと、中間の指導者は子供に興味をもってもらうこと、高齢の先生方は教える喜び。
人口5000人の小さな町だが、高校で続けるこが多い。富岡東高校、富岡実業高校、高崎工業高校、高崎経済大学付属高校、前橋育英高校、
高崎女子高校。4月からは高崎高校で剣道をやるものができる。これらはみな、高齢の渡辺先生、東間先生が子供たちを集めるために努力してくれた賜物だと思っている。

雨宮は東京の全剣連合同稽古会、大学の稽古、電脳剣士での稽古会で東京で数ヶ所稽古が出来る。
先輩方は妙義剣道教室でしか、稽古をしていない。
こういった人たちに生きがいを与えていくことが雨宮の剣道の道だと思った。

妙義剣道教室を作った先生が子供を集める。雨宮が子供を大きな声で褒める。JR監督の渡辺君が試合の指導をする。
剣道を続ける子が増えると思う。』

・・・・皆さんのご感想はいかがですか。
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雨宮先生を偲んで!
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2006年7月6日(木)
雨宮先生はもう少しで七段でした。
六段の壁、七段の壁。
六段は強くで通してきて、稽古量を積めば受かります。
基本的には運動的な要素の積み上げが効果を奏します。
七段の壁は剣道を良く知る事です!
ここまでは、何時も西村が書いてきました。
もう一つ大きな壁があります。
行き方の何を選択するか?です。

誰もが漠然と思っていませんか?
六段の先生と七段の先生は剣道ではないところでどこかが違う!
七段昇段に苦労をされている先生の多くは、剣道の稽古も熱心で人柄が良く誰からも好かれ、話をしても楽しいタイプの人に多いです。
七段の先生を眺めると、どちらかと云うと友達にはなりたくないタイプの人が多いです。
人柄の良い先生の沢山おられますが、余り話し込むと角が立ってしまうことがあります。
西村も引かないが、相手も引かない・・・少し角が立つときがあります。
西村もイヤな性格の七段のタイプかもしれません。

西村の生き方の中にお酌をするという生き方はありません。
西村にとって頭が上がらない存在は、高校大学と援助をしてくれた義兄だけです。
何時死んでも悔いはないという生き方をしてきた気持ちがあります。
過去に三度死を決意いたことがあるからです。
歯科医として、本気に治療を望む人しか治療はしません。
・・・・これは西村の性格の尖った一部です。
・・・・もちろん、丸い、円い所も豊かな愛の部分も沢山あります。
若手教師八段と竹刀競技では遅れを取っても、竹刀を刀の意識で戦うと遅れは取りません。・・・死生観の違いが出てくるからです。

これは西村を例にとって書いてみたのですが・・・・・
総じて、七段の先生には『何かしら意地の強さ。』があります。
さらに上を行く七段には『何かした抜け切った。』た所があります。
六段から七段への壁は『化ける!』心の大きな変化が必要な様です。
西村にとって、剣道の技術的な事は昇段には余り苦労はしませんでした。
問題は人生の苦悩をチャンスとして得た、開き直り、何かしらの悟り、心の成長・・・・・・が昇段に直接結びついています。
この壁を越えるには精神的に七転八倒してきました。
『あなは変われる・・・参照』
八段の先生は、八段になるしか心が癒されない程の重荷があったのかもしれません。
その意味で人生を八段にぶつけたのでしょう。 
七段の昇段には、人生そのものが七段にふさわしい生き様になってきたとき、七段に慣れるような気がします。
もちろん、七段に昇段するが、人生の一部を捨てるという代償を支払っている人も見かけます。


雨宮さんは最期まで、素直な優しい誰からも愛される人柄を変えることはなかった。
男の意地を求めず、純粋に剣道を学んだ!
これが本物の剣道を学ぶ姿だと、彼の死をもって改めて教えられたような気がする。

雨宮先生、原田源次先生、西村の関係から先生の人柄を偲んで、抜粋を致しました。
更には、先生のホームページをお尋ね下さい。
ホームページが残っている間にぜひとも・・・

毎週火曜日は書道教室に通っている。
今までは富岡市の武道場で稽古をしていたが、文武両道。
稽古を一回休んでも書道をとるようにして2年たつ。
上達しているのかわからない。ボクから年賀状や手紙、ファックスをもらっている人から
字が変わったという話は聞いていない。進歩していないかもしれない。
それでも先生は、「アメミヤさん、とてもうまくなりましたよ」とほめてくれる。
先輩方も決して悪いところを指摘しない。だから長続きするのか。

 剣道は、足が悪い、打ちが弱い、相手の打ちに反応しない。先を取られている。
たくさん悪いところを指摘される。聞かないのに言ってくる。
ボクは書道の先生のようにいいところをほめるような人になろう。


攻めとは何か?相手を動かす、相手の動きは何をみて察知するか?
こういったことを、西村先生の書き込みから勉強させていただいています。


西村先生にそういわれるとうれしいです。
1、体力維持のために軽い運動として剣道をする。
2、仲間と打ったり打たれたり、ゲーム感覚で剣道をする。
3、道として、古人が求めたものを求める稽古する。


丸太一本橋の教え、
へそを相手の胴にぶつける、
そして、鼻は腹よりださない、
竹刀操作の妙など
一回の稽古は数分の間でしたが、先生のエッセンスを教えていただきました。

雨宮さん
ヘソより前に鼻を前に出さないときは、竹刀が面に斬り込んできた。
今度はこれに、竹刀の交差の位置は変えないで、体の出分だけ手元をぐっと引き力をため込んで先を取って面を打ってみよう。
十分勝てる相手を選んでやって欲しい。
相手は何も出来ない内に、あなたに面を打たれるでしょう。
『間を盗み手元を腹に引き寄せ溜めを作る。』を頭に置きましょう。

雨宮さんの剣道は形・動きは教科書や見本ぐらい良いです。
後は肚、打って見ろ!の気分だけです。

西村は範士八段と稽古をしても、気位で負けなければ相手はただの年より。
そう思って攻め合います。
自分の位を落して、打って出ると手玉に取られます。

七段の審査の合格者には良い悪いは別にして、男の意地を感じさせるものがあります。
教わると思う気持も大切ですが、
「西村先生!今日はいつもの様には行きませんよ。
一本頂きます。」
の様な意地を見せれば、攻めも打ちも迫力が出ます。
雨ちゃんはそこが少し変われば、七段何て軽く受かると思いますよ。
要は『男の意地』を少し出すだけです。

雨宮さんと稽古
面を打つときの前進に竹刀と肩が前に出ながら打ってきたのが気になった。
胸も竹刀も最後の最後に動かす様に注意をした。
その後の数本は良かった。
後の打ちが出きれば七段だ。

原田源次先生に同じことをいわれました。
「攻めて打ってきていない。
手が先に動いていしまう。足を使うように。」

先生がないことに、西村に言った。
「雨宮な!攻める所を決めて攻めは入る様に伝えてくれ。」
そう言えば彼の足からの攻めは良いのだが、焦点がぼけているから、相手がハッとしないのだ。
車中で原田源次先生の談
雨宮が良くなってきた。
突然、先生が言った。
「雨宮の稽古が良かったなあ!
俺の近くで国士舘の人と稽古をしていた。
なかなかよくやっていた。」

帰りの車の中で、中島先生が西村先生にマッサージをしてもらったと話していた。
西村先生が「雨宮さんの剣道は素直すぎる。七段をとるのだったらもう少し駆け引きを」
誰かがみていてくれるんだな。東京の稽古会は。
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