三十数年前の話になる。
当時、私立歯科大の学生ありながら、貧乏学生で盛岡から仙台までの試合に行く旅費が無くて、何度も時計が質屋に入った事か。 そんな状況では私学の医大の主将などを引き受けるなどの気は全く無かった。 我が岩手医科大学【医学部・歯学部】は慣例として代々医学部が主将をしていた。
六年遅れて大学へ入った西村は自分の学年が主将になる順番の時になったとき、年は28歳、実力は一番だった。 同学年に医学部には人柄の良い剣道も強いI君がいた。 当然彼がなるものと思っていたが、あるとき前々年度の主将に呼ばれた。 私の前の学年では当然主将になるべき人物が、歯学部ゆえにならなかった。 「西村君、主将にならないか。」 その意味が解った。 彼は歴代の主将で最高の剣歴を持ち、医学部歯学部両学部とも団体個人の完全優勝を成し遂げた、人間的にも最高の人物(西村より年下だったが尊敬をしていた)だった。 剣道を愛するが故に医学部・歯学部の壁を越えて、なるべき人が主将になるべきと表明したのだ。 当時、これから数年間の主将候補は歯学部にいたからだ。 今、慣習を破っておかないと分裂の危機が来るとの配慮だった。 それで、西村は両学部の主将を引き受けた。
あるとき、義兄にその話をした。 義兄から「お前は大学に入ってまで剣道をしているのか。」と云われる立場であった。 医師の義兄より注意を受けた。 「お前も医者の端くれになるだろう。 お前の体力が他の人にあると思うな。 けが人、病人を出すと一生後悔する事になる。 真に心せよ。」
当時、西村からすれば医学部・歯学部の剣道の稽古は一部の選手を除いては、お遊びの様な剣道だった。 それで、もっぱら市の稽古会で剣道を楽しんでいた。 主将になって思いっきりやると、今の部員のレベルではヤバイと思った。 悩んだ末、一学年下のなかなか人物が出来たM君に新入生の指導を任せた。 それで、選手層に的を絞って稽古をした。 次の主将を決めるとき、全稽古回数の出席回数の一番多い人から選ぼうと思った。 その為、40度熱を出しても、一人の出席者のいない日にも道場へ出た。 一年間は西村は無欠席だった。 気がついたことは、強さに比例をして出席率良かったことだ。 結果はなるべきM君がなった。
今、年をとって考えてみると、部員全員に申し訳ない事をしたとの思いで一杯だ。 剣道の意味をはきちがえていた。 竹刀で頭を素早く打つ競技としか考えていなかった。 更には、西村の場合はコンプレックスの反動、はけ口にしていた。 知らなかったとは言え、気がつかなかったとは言え、剣道部主将の本来の意味は全く別の所に有ったのだ。
雨ちゃんの人柄に出会う度に、ホームページを見る度に、自分の剣道の有り様を正してくれたものだ。 そこで、小泉さん、西村の尊敬する剣道家の雨ちゃんの日記の一部を載せる事にする。
『雨ちゃんの剣道日記 平成15年3月12日
妙義剣道教室は雨宮が中学校を卒業したあと、そうだ第一回の剣道大会で当時富岡高校の一年剣道部だったが、優勝した。 当然、あの当時雨宮よりも強い人はいなかった。そして30数年がたった。 今は当時血気盛んな指導者も70代、ひざが痛い、腰が痛い、難病を克服したなど3名の高齢の指導者の先生がいる。 夕食後、うたた寝をしている私に、「妙義の剣道教室に教えにいったら?」という家内のすすめで重い腰を上げた。 高齢の先生2名、42歳のJR高崎支社の監督、JRの社員19歳が指導していた。
19歳が小学生面付け組を指導していた。基本打ちの合間の話が長い。 41歳の七段が初心者、面なし組を指導していた。 70歳代の先生方は1時間、子供の後ろでてもちぶたさにうろうろしていた。
我が妙義剣道教室は子供の指導だけではなく、三世代が楽しく剣道ができることが重要なんだ。42歳の七段を呼んで注意した。 剣道の強い子を育てるのではない。 子供は礼儀を学ぶこと、中間の指導者は子供に興味をもってもらうこと、高齢の先生方は教える喜び。 人口5000人の小さな町だが、高校で続けるこが多い。富岡東高校、富岡実業高校、高崎工業高校、高崎経済大学付属高校、前橋育英高校、 高崎女子高校。4月からは高崎高校で剣道をやるものができる。これらはみな、高齢の渡辺先生、東間先生が子供たちを集めるために努力してくれた賜物だと思っている。
雨宮は東京の全剣連合同稽古会、大学の稽古、電脳剣士での稽古会で東京で数ヶ所稽古が出来る。 先輩方は妙義剣道教室でしか、稽古をしていない。 こういった人たちに生きがいを与えていくことが雨宮の剣道の道だと思った。
妙義剣道教室を作った先生が子供を集める。雨宮が子供を大きな声で褒める。JR監督の渡辺君が試合の指導をする。 剣道を続ける子が増えると思う。』
・・・・皆さんのご感想はいかがですか。
|
|