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- 抜き胴から 無刀の境地へ - 西村雅興 [2007年2月2日(金)]



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抜き胴から 無刀の境地へ
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2007年2月2日(金)
抜き胴を考える。

西村は中学高校時代は面以外打ったことがないぐらい、面が得意でした。
東京に出て、日本学園高校に再度入学をし、年に20回ぐらいの稽古量で楽しんでいました。
寄せ集めの部員で初年度初回に東京都でベスト8になったこともあります。
当時、世田谷区には剣道の名門国士舘高校がありました。
ここの大将が3年間西村に負けています。
さて、いつもは前四人が簡単に負けてしまいます。
3年生の時、どういうわけか大将戦になりました。
気がついたら自分の方に旗が上がっていました。
西村は何を打ったか全く覚えておりません。
あとで聞くと「見事な抜き胴だった!」と皆様が褒めてくれました。
試合で胴を打ったことはこれ以外に記憶にありません。
(日本学園が国士舘高校にかったのはこの1回だけです。)
抜き胴を意識したのはこの時が初めてでした。

さて、32歳で開業そのうち125人の従業員を抱え剣道から10年間全く縁が切れました。
原田先生と稽古をしたいと思い、剣道を始めました。
稽古を初めてまもないころ、稽古の後で原田源次先生に褒められました。
あの胴は良かった!
攻めて打った胴だから良かった!
実は、西村は胴を打った事を覚えていなかったのです。
これが二回目の抜き胴です。
そうか!攻めて打った胴は良い評価を得るのかとその時思いました。
2回とも自分の意識は胴を打った事を知りませんでした。
翌年の事です。
昭和60年の事です。
朝稽古でストン、ストンと抜き胴をいただいた日がありました。
その日の先生の立ち会いは、相手の先生に『範士』の審査がかかっていたらしいです。
原田源次先生の抜き胴が見事に決まったらしいです。
先生いわく
「西村に朝に打った胴が、相手に決まり、相手に行くはずの範士の称号が俺の方に回ってきた!」
原田源次先生は『抜き胴で範士になった!』のです。

原田源次先生と稽古をされた方は誰もが味わった『抜き胴』です。
あの椎名先生が「参った!」と感じた胴です。
西村は原田源次先生を長年追いかけ、研究をしてきました。
ほとんどが解明できたのですが、『あの抜き胴』だけは、全く理解が出来ませんでした。

昭和60年から考え続けた『原田源次先生流の抜き胴』です。
何年考え続けて来たことでしょう・・・・・・。
西村最後の課題でした。

あるときヒントがありました。
椎名先生が千葉先生が上段から面を攻めた時、「どうぞ!」と面を指し出さなければならないのに、その余裕が無く、小手に打って出てしまった話を聞きました。
ここで、西村は『はたっと気がつきました。そうだ!竹刀はいらないのだ!』
相手の攻めに竹刀で何とかしようと思わないで、進んで面を指し出せば、相手が面を打って来たとき、本能の反射がするべき事を見事にしてくれる!・・・ここに気がついたのです。
暫く温めていたのです。
しかし、これができるかどうかが難問です!

今日は強い六段・七段相手に抜き胴が6本ほど決まりました。
それが見事に決まったのです。
『極意はやはりこれだったのだ!』
『竹刀を捨て、己を捨てれば、抜き胴は決まる!』だったのです。
椎名先生は面返し胴は見事で得意です。
左右二つ胴も見事に打ちます。
彼いわく
「俺は返し胴は得意だ、しかし子供相手にでも抜き胴は難しくて出来ない。
あの原田先生の胴は体が『参った!』と言った。」と、わざわざ西村の所まで来て言いました。
西村いわく
「私も返し胴は得意です、どんな面にも返す自信はあります、特に左に開けば間違いなく返せます。
返し胴の得意の私も『原田源次先生流の抜き胴』は全く判りません、最後の課題なのです。」

次回話をしたのが千葉先生との稽古の時でした。
その中の『なにげない会話の一節』に重要なヒントが有ったとです。
『原田流の抜き胴の極意は、柳生流の無刀の極意と同じだったのです。』
(無刀の極意は西村の勝手な判断ですので他意は有りません)
ヒントです。
『相手の竹刀に竹刀で対応しょうとすると、面返し胴になる。
相手の刀の切り込みに、自分を捨て切り素直に切られに出れば、体が後は勝手に対処する。
要するに相手の白刃に身を呈すれば、体の神妙・無想・本能の反射が勝手に自分を守ってくれる。』

新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、
陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。

移香斎は指南の最後にこう言った。
「陰流の極めは、己を斬ることや。
難題やなあ。
斬れるか?
斬れまい。
暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」

これを悟り信綱は、後年『新陰流』を起す。
後年、信綱が柳生但馬守宗厳に『無刀』を課題を与え、柳生を去った。
『生きて真剣の先に見る無刀の境地』である。

宗厳はこの課題を見事に果たした。
信綱は柳生但馬守宗厳に新陰流の印可与えた。
信綱59歳、宗厳38歳、永禄9年のことだった。
その後、柳生但馬守宗厳はさらに改良を加え『柳生新陰流』を起した。
武術としては孫の柳生兵庫之助けに伝わり、尾張柳生となって引き継がれる。
兵法としては政治の世界で、将軍指南の役割から大目付となって江戸柳生に引き継がれる。

さて、西村に取っては、昨年の7月から起きた大事件で、約半年の期間を経てこの問題の『無刀の境地になった。』
大きな決断だった。
この、『己を斬る無刀の境地』無くしては出来ない決断だった。
この決断をしないとき、心の病となり、気力が萎え、西村は大変な病気になっていくとおもう。
(実際、妻は体調を壊している。心の怒りが体を痛めているのだ。
幸い西村がヒーリングをし、優秀なヒーラの力を借りて支えている。)
この境地を悟った時、剣道の無刀の抜き胴が出来た。
剣道が西村をこの境地に引き上げたのではない、真剣勝負の人生の課題を解決する上の決断の境地が、無刀の境地を教えてくれた。
何時もそうだが、剣道が人生を成長させてくれたのではない。
人生の成長と共に剣道が形、動きでそれを確認させてくれたのだ。
剣道は西村にとって『人生のリトマス試験紙』みたいなものなのだ。

結局は師匠の教え『打つ前に死ぬ!』ここに尽きるのだ!
『己を斬る!』『無刀』  表現が違うが皆同じだ。
竹刀では後がある。
人生には後がない。
西村の人生はタイトロープ一本に乗った、常に真剣勝負の連続だった。
今回が最後の試練かと思うが、この試練は『無刀の境地』を人生で悟らせてもらえた。
神・仏は何時も厳しい課題・試練を西村に与えた。
しかし、その都度確実に成長してきた。
それにつれて、剣道の深い境地へと誘われてきた。

有り難いやら!苦しいやら!試練はこの辺で勘弁してもらいたい!
偽らざる心境である。

抜き胴の話が、最後は人生の話になっていくいつもの西村でした。
この抜き胴は教えることが出来ない!
最後は魂レベルの問題になるからだ。
剣道最後の課題がやっと解決をした!
万歳!
そこまで、人生をやってきた人には直ぐに伝わると思うが。
レスをつける



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