私が積水化学高等工学院時代、卒業一ヶ月前に退学をたときのいきさつ。 それを快く迎え入れてくれた人達に送ったメールです。 人生は一寸先は闇?天国?地獄? それは当人の前向きな生き方に懸かっている。 本当に人生は判らない、上を向き前を向き希望を持っておれば夢はかなうかなあ!
学院生活に入って人生が変わった。 皆様にチャンスをいただいた。
西村は中学時代、極く普通の成績でした。 どちらかというと、ナイフをいつもポケットに持ち歩く不良でした。 理科だけは興味があり、いつも学年で一番でした。 三年の時の担当の先生が理科の先生だった。 先生が言った「これは西村君の実力ではないんだろう。」 西村はこの言葉に嬉しくて舞い上がり、勉強をした。 3ヶ月間で模擬テストで、学年三番になった。 近くの県立高校へ行って剣道をするつもりでそこの稽古にも参加していた。 9番目の末子としては、大学を出るまで親の命と学費がもつか心配だった。 そんなとき、実力テストのつもりで積水化学高等工学院を受験をした。 その時、大阪の兄にスケートへ連れて行ってもらい非常に楽しかった。 二次試験はスケートがしたくて受験をしたのが本音でした。 好きな学科の試験と体力が幸いして合格をしてしまった。
入学をしてみると、皆様のアルバムをみると小学・中学生徒会長をしている人ばかりでした。 自分から見れば生徒会長などとは雲の上の存在の人でした。 机を並べ勉強をしてみると、横の雲の上の存在の人との成績の比較が、自分の勉強次第で変わるのに気がついたのです。 『俺は勉強が出来なかったのではなく、しなかったんだ!」と気がついたのです。 『これに気がついたからには人生やり直し・・』・・・二年生になったとき、高校受験の勉強をした。 剣道部の人にはそれとなく知らせておいた。 さて、親に相談するもお金も無いし、一番幸せな道を歩んでいるからといわれて泣きくれた。 「俺の人生ここまでか!」と諦め、寮に帰って悲観にくれていた。 同室の人とトランプをしていたとき、お兄さんから電話と言われた。 電話口に出ると、義兄が「お前!医者になる気はないか?」と聞かれ、「エンジニアになりたんです。」と答えた。 義兄(医師)が言った「ともかく勉強をする気があれば、今すぐに出てこい。今なら京都発八時の急行があるからそれに乗れ。明日の朝横浜で会おう。」でした。 西村は「ハイ!行きます。」・・・これで運命は決まった。 母が病気だと嘘言い、寮を出たのです。 翌朝、義兄が横浜のホームで待っていてくれた。 次には私立の高校を受験をした。 悲しいかな、二流高校で首席でも医学部は難しく4年も浪人し、生き地獄を味わった。 医者への夢破れ、歯科医になっが・・・これが天職になろうとは夢にも思わなかった。 卒業して二年目に無一文で、7000万円の借金(リース)開業・・・・命を担保の団体生命保険に入って。 そこからは借金を支払い給与を払う為の阿修羅のような人生を歩んできた。 四年後には従業員125人(バイト含め)、人に給料を払う為だけに仕事をした。 幸い「咬合治療の研究」は自分の命を救う為のテーマーがあった。 「あなたの歯科医院は質的に日本一の経営内容だ。」と聞いたとき、縮小を決意した。 あるとき「心の修業」をし、葛藤を越えて医院は暫時縮小してきた。 今は、西村がいないと生きていけない多くの患者様の為に、細々と元気で長生きを目指して生きている。 今思えば、寮の隣の席の同僚のアルバムを見せてもらった事が、いまの人生への分岐点だった。 大浦哲也君の様な天才的に優秀な頭を持っていなくても、俺でも何とかなると思ったのだ。 その意味で、学院の皆様に出合った事が大きなチャンスだったと感謝をいたしております。 40年間の不調法をお許し下さい。 ここまで書いて40年間の心の奥のつっかえがやっととれました。 快く迎ええて下さった植村様、貴重な情報を下さった都倉さま、日高様に心より感謝を申し上げます。 西村雅興
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