『松風』
「わが直新影流に松風という誘いの技がございます。 いくら打ち込もうとしても相手が動じない場合の誘いの技でございます。 千年を経た古松は嵐が来てもびくともしませぬ。 一方、その古松の下に佇(たたず)めば微風にさえ、松風の音を立てているものです。 不動の松を動かすには己が微風になることです。」 「己が微風ですか」 「わずかに動いて誘いをとる。 すると不動の相手もそれに釣り出される、相手が動けば恐怖心は薄れる、それが武芸者です。 そこを後の先で仕留めるのが松風です。」
岩立先生の『松風館道場』の名前の言われを西村は聞いていません。 身を捨てて相手を誘い込む意味を感じるのは西村だけでしょうか。
しかし、この微風になるには『勇気』がいる。 立派な防具を着け、竹で叩きあうだけの競技で何を恐れているのだろう。 何故!『微風』に成れないのか。 人生は結果を恐れず勇敢に人生を生きてきた人は起業家に成れる。 決断には結果がついてくる。 そこには成功と破産が待ち受けている。 決断する勇気こそが極意なのだ。 この勇気は剣道では身に付かない。 人生の修羅場でこそ身に付く。 バーチャル・リアリティーの世界の剣道で身に付くほど甘くは無い。 真剣で無く、竹なのだから! この勇気の無さは、人生を命がけで生きていない自分を投影している。 西村は無一文から120人を超える従業員を使うまでに成った。 この過程の決断と勇気は勢いで出来た。 しかし、人生の意味を感じ『捨て去る事の難しさ』で、本当の勇気と決断を試された。 そして今に至。 剣道で打つ前に捨てる、死ぬ等は朝飯前の話である。 それが、どうしたわけかほとんどの剣道家が出来ない。 要は、命を賭けて勇気と決断をした人生をしてこなかったからなのだ。 上級者の剣道は『心・肚』の剣道と言われる所以である。
西村は高名は範士八段と稽古をするが、心においてほとんど遅れを取らない。 それは自分の送ってきた修羅場の方が、その先生より上を行っていると確信があるからである。 打ちあう前は剣道でもない、人間の総合力の波動の押し合いにしか過ぎない。 ここで、先に微風になる勇気こそが心の差である。 西村が差し出した頭を見て、面に打ってくる。 相手はそこを、ぎりぎりの一瞬に胴に返される。 時に間合いを間違い、椎名先生に面を打たれる様なこともある。 しかし、稽古ではそれを反省し間合いと風の具合を考え、右に抜ける胴より、左に体をかわす胴で斬れば良い。 剣道の稽古は人生に比べれば楽なものだ。 人生は一回一回が真剣勝負だ、命を取られる事は無いが、人生の落後者の汚名をきせられ、そのダメージは大きい。 真剣ならば死ぬか、カタワになる。 時に失地回復も可能だが、それも運がよければの話である。
剣道は・・あなたは『微風』に、なりえるか?を問われているのである。
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