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- 賀来先生の打ち!その秘密。 - 西村雅興 [2008年2月20日(水)]
Re:賀来先生の打ち!その秘密。 - 岡田 [2008年2月20日(水)]
その一言は『天の声』に聞こえる! - 西村雅興 [2008年2月20日(水)]



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賀来先生の打ち!その秘密。
西村雅興
2008年2月20日(水)
以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。
賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。

犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。
自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。
一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。
剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。
成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。
自分に自信が無いとこの決断は難しい。
やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。
体は意識の変化を微妙に体現化している。
それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。
打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。
打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。
無意識が打つと決めれば
・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。
反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。

さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。
それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。
賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。
井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。
(賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)

猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。
ネズミを捕まえる時も同じだ。
穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。

この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。
犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。
そこには及び腰的な構えがある。
猫は全く無防備だ!
ただ捕まえることのみに意識がある。
それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが)
心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。
相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。
これには意識が関与しない。
相手にとっては色が全く見えない。

ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。
「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。
どちらの動きが速く強いかという問題である。
蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。
『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。
その為に『心と体の準備』が必要になる。
ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。
新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。
心の準備も身体の準備もいらない。
あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。

蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。
そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。

『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。

何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。
虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。
この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。
一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」
一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。
ということである。

賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。
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Re:賀来先生の打ち!その秘密。
岡田
2008年2月20日(水)
 西村先生、ご無沙汰です。
いつもありがとうございます。

 早速ですが、賀来先生、この前(2月2日)京都の稽古会の後、いつもの駅まで送る車の中でいみじくも言っておられました。
「みんな考えて打っているわい・・」「どこをどう打とうとかなぁ・・・」
さすがですね西村先生、おっしゃるとおりですね。
 賀来先生との稽古は決して面白くはありません。しかし、わかった八段連中は必ず懸かっています。
ああいう範士が最近少なくなったようですね。その点、京都稽古会は求める者にはチャンスがあります。
ありがとうございました。
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その一言は『天の声』に聞こえる!
西村雅興
2008年2月20日(水)
『京都の稽古会の後、いつもの駅まで送る車の中』・・・岡田
『武道館から新宿まで送っていく車の中』・・・・・・・西村

岡田さんの剣道の精神的レベルの向上がひしひしと感じられます!
得難い時間を得ていますね。

この車中で聞く話は、『解る人には値千金』ですね!
剣道が強くなるには相手を打とうとか、勝ちたいとかの意識を無くする修業です。
これが出来れば自然に強くなるのです。
竹刀を持つ稽古ではこれが難しい。
竹刀を持たない剣道修業・自分の意識改革こそが秘訣です。
ここを抜けた人のみが知る世界観があります。
この意識改革ができれば『人生の達人(自分を生ききる)』になれます。
生きたいように自分の人生を生き抜く!
この世界観の一端を聞くと、近づいた人には天の声に聞こえます。
先生が『ぼそ!っと漏らす、感嘆符!がついた、短い一言』
ここに天に至る階段の糸口があります。

今回の西村の書き込んだ内容をぴったり表現した言葉でした。
『「みんな考えて打っているわい・・」「どこをどう打とうとかなぁ・・・」』・・・・ここに凝縮しています!

さて、西村が比較的剣道が強いのは、特に大先生と言われる人達に強い。
それは『今死んでも、人生に悔いはない!』との思いがあるからです。
この一点において、対峙する範士であろうとも、引けを取らないものが有ります。
相手が誰であろうとも『くらい・位』を落とさない・・これが西村です。
位を落とさなければ、大先生と言えどもただの老人です。
竹刀を動かす前に十分に剣道をすればよいだけです。
後は、自分の内なる神・仏・無意識の声に耳を傾け、その指示通りに身体を任せるだけです。
相手と対峙しながら、その実は内観の(自分の真実の声)メジテーション(瞑想)をしているにほかならないのです。
相手はこの瞑想の世界を高めてくれる有難い存在にほかならないのです。

お願いするのは師匠の原田源次先生のみです。
先生の有難い指導のためには『対峙』することなく、自分の良い所の限界を引き出していただいている心に応える稽古をしています。

これからの書き込みを期待してください。

改めてダニエル(柔術家・上級ロルファー・精神世界指導者)の書いた文章を載せます。
たいしたものです。
この文章を書いたのはアメリカ人です。

『彼は既にマスターレベルの武道家であり、次への昇段試験を計画中だった。武道家もこのレベルになると、技術やテクニックは決定的な要素となることはない。彼は言った。
「敵よりも優れた技術を持ち、相手を負かすことが勝利に結びつくのではない。乗り越えなくてはならない問題は、相手を敵とみることだ。敵がいるかぎり敗者がでる。精神的なレベルでは皆、兄弟だ。一人が負ければ、もう片方も負けなのだ」
ロルフィングをしながら会話は続いた。
「葛藤が消える意識状態があるはずだ。敵が消え、自分の一部である友人だけが残る意識状態が存在する。このビジョンを持てれば、葛藤は消える。敗者はいない。勝者だけが残る」
彼は試験に受かった。簡単に、しかも歓びをもって。試合は始まる前に終わっていた。試合はなかった。敵を完全に自分に受け入れてしまったのだ…
僕たち一人一人が現状の中で嫉妬と怖れと怒りと不足欠乏からなる競争心を彼のように超えようとするならば、人類に未来はあるかも知れない』
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