以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。 賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。
犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。 自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。 一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。 剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。 成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。 自分に自信が無いとこの決断は難しい。 やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。 体は意識の変化を微妙に体現化している。 それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。 打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。 打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。 無意識が打つと決めれば ・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。 反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。
さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。 それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。 賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。 井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。 (賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)
猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。 ネズミを捕まえる時も同じだ。 穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。
この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。 犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。 そこには及び腰的な構えがある。 猫は全く無防備だ! ただ捕まえることのみに意識がある。 それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが) 心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。 相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。 これには意識が関与しない。 相手にとっては色が全く見えない。
ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。 「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。 どちらの動きが速く強いかという問題である。 蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。 『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。 その為に『心と体の準備』が必要になる。 ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。 新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。 心の準備も身体の準備もいらない。 あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。
蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。 そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。
『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。
何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。 虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。 この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。 一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」 一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。 ということである。
賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。
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