陸上競技の短距離で、ピストルの音を聞いて0,2秒以内にスタートをするとフライングと判定される事になっていた。 しかし、最近明らかに0,2秒以下でフライング無しでスタートを切る選手が出現してきたから問題になっている。 何故0,2秒か? 耳が音を聞き、それが脳に伝わり走れと指令を筋肉に行くのに、生理的に最低0,2秒かかると云う判断だからである。
これが人間の浅はかさである。 人間は意外に人間そのものを知らないのである。 西村は原田源次先生が剣道で知り得た、体験した妙玄の世界を追体験する為に稽古をお願いしている。 判れば判るほど先生のビデオにその世界は表現されている。
無想剣・神妙剣 ・・・頭の意識を抜いた内なる神、内なる無意識の世界に武術の真髄があるからだ。 これは、内田樹(つたる)先生の本から引用した過去記事を参照・ 心が動かないことを『不動心』と云う。 原田源次先生が西村にお前なら判るだろうと言って『不動智』なる厚手布に染め抜いたものを頂いた。 その数年前に先生から話を聞いた。 「不動心ではダメだ、不動智でなければならない。 心を丹田に納めるだけではなく、肚の底でころころ自由に転がして置く必要がある。 その赤い心の球が智として(叡知)働くから、いかなる時にも素早く対応ができる。」 この対応が人間の叡知の反射なのだ。
さて、耳をピストルの音に傾けたら、耳は音に意識を止め、耳が聞いた音を脳が判断をし、足の筋肉に行動を伝えると最速は0,2秒はかかる。 我々が目に何かが飛んで来た瞬間、『とっさに・瞬時に』手で払う。 この咄嗟(とっさ)の行為には脳は関与していない。 目が物を捕えているが、脳に関与させずに手が動いた。
スタートのピストルの音に意識を止めずに、今正にスタートを切る瞬間に重心を前に懸け、頭を指で軽く触れられても前に転ぶ状態にしておく。 倒れそうな状態をかろうじて維持しているのが精一杯の状態だ。 ピストルの音は倒れを正す反射運動の刺激にほかならない。 音が鳴ると無意識がコケそうな体を起す反射へと誘う。 いわゆる条件反射なのだ。 脳を介在させないスタートとなる。 そうすれば、反射なのだから0,2秒も必要がない。 要は音に条件反射する体を作りあげれば言い訳だ。
原田源次先生が言った。 スタートのコツを教えるには、ヒョイット腰を押してやれば良い。 岩崎先生 同じように面を打つ時にチョント腰を押し、打ち出しの要領を教えている。 (倒れそうになれば、姿勢制御の為に足腰は勝手に動く)
原田源次先生「手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!」 原田源次先生の手は条件反射の世界にあり、体の捌きも条件反射だからあの抜き胴が出来る。 原田源次先生「剣道は読みと反射だ!」と言われている。 武道はこの反射の世界で相手に対応するのだ。 しかし、この反射を妨げる物は脳が決めた強い指令系統なのだ。 その為この反射を最大限に生かすには、心を無にする必要がある。
小川先生 息を吐き続け踵に落とす、さらに踵から膝に戻すんだよ! このころには、息ができないから失神寸前で自分も相手の存在を忘れている。 ここへ相手が打ってくる(危害を加えようとする)、体の防御機構が勝手に働く。
打ってやろうとすると、脳が指令を発し無意識レベルで予備動作を起す。 そして、無意識の決定後しばらくして有意識が面を打つことを決断する。 ここにタイムラグがあることを皆様は御存知ない。 無意識の決定は体を通して相手にサインを出してしまった事になる。 高段者になると、相手のサインを読む能力が高い。 無意識レベルで打とうと思った時、既に相手は知っているから簡単に取られる。 だから、打ちに行くと云う事は斬られに行くことなのだ。 『古来より、剣道は先に打ち出した方が負けと決まっている。』黒田鉄山談 ではどうすれば良いか?
高校時代 大将戦だった。 時間いっぱいだった、気がつけば自分に旗が上がって勝っていた。 どうなったのか全く判らない。 後で聞くと、見事な抜き胴だったと聞く。 自分には全く覚えがなかった。
原田源次先生 ・見事に先生に面入った。 しかし、打とうと云う意識は全くなかった。 気がついたら面を打っていた。 ・先生と合気になり、ただひたすら息を吐き続けた。 意識が無くなりそうになった時、気がつけば先生に面が入っていた。 (原田源次先生に意識をもって面を打てたことは一度もない。)
賀来先生 ひたすら意識を宇宙と一体感になるだけに集中した。 ただ、ボーッと立っている状態だった。 気がつけば、先生得意の小手を摺り上げ面入っていた。 後で、賀来先生が言った 「お前は隙だらけだ!」 先生の前にただ立っていたら、先生が小手に危害を加えに来た。 先生が隙だと思ったのは西村が無になっていたからだ。 そこへ先生の勝手の都合で小手を打ちにきた。 それを無意識(叡知・内なる神)が防いだだけなのだ。 後は形として身に付いた動きが摺り上げ面を打っていた。
ある区の先生 気がつくと相手の横を通り抜けていた。 相手は微動だにせず、西村に面を打たれていた。 その光景を右斜め上数メートルから眺めている自分を感じた。 過去に二回ほどこのような状態になったことがある。
【朝岡先生の所でも載っていた】 {光西寺のHPから転載} [西村は漫画入りのこの手の本で呼んだ、今その本が見当たらないので転載する]
きこりとさとり 昔何処かで聞いたことのある”きこり”と”さとり”の話です。自分の好きな話の一つです。
一人のきこりが斧で木を伐ろうと、山深く入ったら、さとりという珍しい動物が姿をあらわした。きこりがこれを生け捕りにしようと思うと、さとりは直ちにその心を読み取り、
「俺を生け捕りにしょうというのかネ」という。
きこりがびっくりすると、
「俺に心を読まれて、びっくりするとはお粗末な話だ」という。
ますます驚いたきこりは、
「ええ、小癪な奴。斧で一撃のもとに殺してやろう」と考えた。
するとさとりは、
「こんどは俺を殺そうというのかな。いやー、おっかない」と、からかうようにいう。
「こりゃーかなわん。こんな不気味な動物を相手にしておったんでは、めしの食いあげだ。こんなものにかかわらないで、本来の仕事を続けよう」
と、きこりは考えた。
するとさとりは、
「俺をあきらめたのか。かわいそうに!」
といった。
きこりはこの不気味な動物を諦めるために、再び元気をだして木を伐ることに没頭し、力いっぱい斧を木の根元に打ちおろした。額からは汗が流れ、きこりは全く無心になった。
すると1/10000か1/10000000の確率かはわからないが、偶然の偶然の、全くの偶然にも、斧の刃が柄から
抜けて、”さとり”に直撃!!!”さとり”は意識不明の重体。
お陰で、”きこり”はめでたく”さとり”を生け捕りにすることができた。
きこりの心を読み取り、きこりをからかったさとりも、無心の心までは読み取ることができなかった。 この内容に近いのが【真剣】での野猿を相手に駆け引きをする練習風景です。 新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、 陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。
移香斎は指南の最後にこう言った。 「陰流の極めは、己を斬ることや。 難題やなあ。 斬れるか? 斬れまい。 暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」
これを悟り信綱は、後年『新陰流』を起す。 後年、信綱が柳生但馬守宗厳に『無刀』を課題を与え、柳生を去った。 『生きて真剣の先に見る無刀の境地』である。
高段者になると打ち気は相手に必ず読まれる!いわゆる「さとり」の名人になっていくからだ。【さとられない為には、打ちに行かず打たれに行く。】ここで、足を出す前に、死ぬ覚悟が必要なのだ! 打つ前に死ぬ。しかし、ほとんどの人がこれが出来ない。死を覚悟して人生の何かに挑んだ事があれば簡単なのだが。それほどの人生を経験していないと難しいのかも知れない。こうなると【心法】「生き方」になってしまう。 では、次のレベル【読み勝ち】の世界。西村が何故範士に歯が立つのか。剣道のプロは体に染み込んだ鋭い条件反射を持っている。これを西村の意図で逆手にとるのだ。範士が面を見せたら、思わず面を打とうと体を出す(体をだしてあげる)。先生は「来たか!嵌まったか!」と小手に来る。そこを軽く摺り上げて、ゆっくり面を取る。「面に来たか!」と竹刀で受けに入る・・・西村は挙げ小手を頂く。それが大きく挙げれば・・・そのまま咽に突きを頂く。これはスピードも反射も何も要りません。【読み勝ち】だけです。 西村と稽古をすると本気でやってくれないと怒り、稽古をしたがらない人が多い。剣道について考えている事が全く違うからです。 西村に打たれたときは、階段を踏み外し様な感じで打たれると皆様言う。 武術の真髄はここにあるのだ。
今の西村の目下の研究課題は【当あて】なのだ。 これは魔術の世界に入るようなものだ。
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