『睡中抓痒処(すいちゅうそうようしょ)』 眠っている時でも手は勝手に痒いところを掻いたり抓ること。 意識が無くても身体は勝手に必要な事をしている。
ズーッと昔の話であるが、試合はそっちのけで賀来先生の話を半日聞いた事がある。 その話の中で「足が痒いのに頭を掻くやつは居ないわなあ!」との話を聞いた事がある。 「意識が無くても身体は勝手に必要な事をするもんだよ。」と説明をいただいた。 『睡中抓痒処』は伊藤一刀斉の伝えた言葉である。
『手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!』原田先生の言葉だ。
要は手の動きは自分の意識を超えた、内なる何らかの力が適切に対処している(これを反射と取るか、智と取るか、無想の動きとるか、神妙とるか、原始的防御機構、本能と取るかは自由である。頭の意識が作用していない一瞬の適切なる絶妙なる判断をして手を動かしている(体を動かしている)事を認識出来れば、剣道からの人間の探求も終わりに近づき、剣道もこれを知る事から、新たな人生への道を開く事が出来る。
さて、一刀斉がまだ弥五郎と名乗っていた時の事だ。 『天下一の剣』伊藤一刀斉(著 小島英記)の小説の一節を書き抜く。 本を買って是非お読みください。
『愛欲の地獄にこの数ヶ月はあったのだ。 いつか二人は、ドロドロした眠りのなかにいた。 そのとき、彼は顔に痒みを感じて、手で掻いた。 秋の迷い蚊に刺されたのである。 その瞬間、弥五郎は飛び起きた。 「これだ!」 「何なの!」 祐美が呆気にとられて見ていた。 天啓というべきだろう。 体が痒ければ、睡眠中の無意識の内にも、おのずと手は患部を掻いている。 そのように自然に剣も遣えばいい。』
この天啓が降りたあと、師の鐘捲(かねまき)自斉と対峙したとき。 自斉は呆れかえった。 「フーム、突然、お前には狐でもついたか?」そう呟いた。 「いえ、そうではありません。 ただ、先生が打とうとされると、それが私の心に映ります。 ただ、それに応じるだけです。 人間は頭が痒いと自然に手が頭に行くものです。 それと同じ事です。 この妙とは心の妙であって、先生から教えられるものではありません。」 弥五郎はすらすらと答えた。 彼は後に『睡中抓痒処』と伝えている。 無意識の行為は、激しい修行の果てに、ふいに現れたのである。 自斉の驚愕と感動こそ大きかった。 「でかしたぞ、弥五郎。 それは当流(中条流)に云う無相剣、すなわち形なくして万剣に通じる心、わしとて未だかってつかめぬ境地じゃ。 確かにお前は、わしを追い抜いた。」 』
どうです!面白いでしょう! 最近の西村の書いている事が剣豪小説の一節に上手に書かれています。 ・・・・読んでみましょう。 尚、この小説で書かれている伊藤一刀斉の剣道の成長段階は西村には全て理解と解説が出来ます。 その方法論も実践も出来ます(完璧ではないがおおよそは)。
そうでなくては以下の文章は書けない。 『日本の最上位にある八十歳を超える名範師九段、八段と稽古をするとはっきり判る事がある。 『思った時点で、思いを捕まえられている。 そこで、西村の得意技・・・思わない!である。』 これは『悟り(さとりという獣の話がある)』に尽きるにだ。 思ってない事は読みようがない世界に入って行く。 後は『智に任せる』なのだ。 これならば最高位の先生に互角以上に対応が出来る。』
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