一晩寝て、夢の中でさらに考察していた。 先ず 一点 それぞれの先生方は素晴らしい剣道でしたが、剣道は一瞬で勝負が決まる。剣道では体の動きの無駄・ロスを削ぎ落として行けば尚良くなる為の注意点をあえて書いたと理解をして頂きたい。 同格との稽古、懸かって行く稽古でよりも、十分勝てる相手との稽古で修正をしていって下さい。 心に余裕が無い時は難しいです。
二点 偉そうに判った様な事を書いている西村、その実どうなのか? 西村が先を取って面を出した場合はまずまず合格点。 しかし、先生方の打ってくるのを見て打つと、西村が先生方に注意をしたと同じ事をしている。 本当に驚くほど崩れているのが判り、言う事とやっている事が違う自分に赤面する。
三点 ここが大切な所だ。 同じ西村、同一人物が何故違う事をしてしまうのか? 自ら死に、自分を捨ててスーッと足から攻め入る時は、無意識が十分に覚悟をし、心身とも体制十分である。 後は相手の反応に自分を信じて、適切なら反射をする智の働きを待つばかりだ。 皆様が西村に見事に取られている打ちが出る。 しかし、西村が先生方の動きを見て打っているとき、見たくない自分を見てしまう。 自分が注意をして指導をしていると同じ動きになってしまっている。 相手を見て打つと,目が見て脳が判断をし、筋肉に指令を出し身体が動く。 0,2秒の遅れをとる動きになる。 これをカバーしようとして、手先の動きで竹刀を動かしてしまう。 この動きは西村に引き出されて打っている先生方の動きと全く同じなのだ。 竹刀は軽いが故に,手先の打ちで何とか凌ごうとしている,これも智が働いた作用なのだ。 このとき智は知っている「当てる,触るだけなら,軽い竹を動かすには手先の作用で十分だ!」と。 『腰を入れて足を出して体を入れて打っていては間に合わない事を!』 それなりに適切な対処をしている。 しかし、慌てて対処した動きは剣道的には感心しない打ちになってしまっている。 中学生レベルの竹刀当て競技と大差がない。 彼らはこのレベルで反射を遣って勝負をしている。 なんの事は無い!西村の剣道もこのレベルなのだ。 ・・・相手を見て慌てて反応すればの話だ。
四点 では何が剣道の打ちの違いを引き起こすのか? それは簡単なのだ! 相手と十分に合気になった瞬間(それまでの攻め合から自分の智に対して十分な情報を送っておく事)、自分を捨てて『打つ前に死ぬ』を実行するのみだ。 足を滑らせて間合いを切って体を入れる。 これが『打つ前に死ぬ,死ぬ気で打つ』なのだ。 これが出来た時は本来の『智』が働き、相手の動きに適切なる反射で対応してる。 ここで、「打つぞ・・」といって,この動作をすると、相手が硬直する場合、いわゆる相手に居着きを誘い(相手の心の目を閉ざした状態)で打つ。 この事は腕の違いがあれば皆様にも出来る事です。 要は,心に余裕を持てる相手にはしている事です。 元立ち必ず体を押し込んで来る・・。 これが心の余裕のなす技です。 しかし、相手が同格か上の場合は同じ事をしても、相手は居着かず,そう来るかと冷ややかな眼で眺めている。 このとき攻め入ったつもりが,攻守逆転してしまい、相手が自分の動きに反射的に『智』を働かせて打ち取られる。 これは,いわゆる相手の『不動心』に吸い込まれる形になってしまう。 格下には『攻め』は何となく判るが,先生・同格に対しては一体どうすれば良いのでしょう?の質問になって来る。 基本的にはしょうがないですね。 相手の方が腕前が上なのですから。 武道は腕が違えば子供と大人の様な差が出てしまうのはこの為です。 先生方が西村と稽古をすると『お手玉状態・ゲーム性が無い』この状態になるのはこの為です。 不動心の部分の優劣が違いを作っているのです。
五点 これを解決する方法は? 西村が日本を代表する大先生に何とかなるのは何故か?
ここで一つ話を! 東京武道館での審査を見ての帰り道、信号で数人の人が前で信号待ちをしていた。 そのとき指導的立場の先生が皆様に言っていた。 「お前ら、欲が深いよ。打たれたくないといいながら相手を打とうとしている。相手も同じ事を考えている。どちらも打てるわけが無いよ! お前ら魚を捕るとき針の先に餌を付けるだろう,撒き餌もするだろう。 剣道の時だけ欲深い考えで相手を打つなんてそりゃ無理だ。 相手に『ヒョイット餌を投げ掛けると、え!といって食いつきに来る。ここを仕留めれば良いだけなんだよ。」
六点 剣道も六段七段八段になると不動心も相当な修行を積んでいる。 この人の心を動かすのは大変な作業だ。 動かしたつもりで全部読まれているのが落ちだ。 動かしに懸かりながら自分から穴に落ちて自滅する事が多い。
七点 人間には特有の弱みがある! 昔から『押しても駄目なら,引いてみな!』がある。 合気になってどうしょうもない膠着状態になって、相手が少しでも色を見せればその瞬間相手を打ち取るとお互いが思っている状態。 心の硬い壁が押し合いをしている状態だ。 この壁が一瞬,のれんに変じると『おっととっと』という感じで前のめりになってしまう。 「打つぞ!」と行けば相手の壁をより硬くしてしまい,破れないか逆手に取られる。 このとき、『打ってみませんか?』かと軽く心で呟いて相手に体を捧げる。 これを柳生流では『捧身』(ぼうしん・身を捧げる)の術と言います。 究極の極意です! 相手に餌を与えると,思わず飛びついてしまう,それも潜在意識がシメタと思って飛びつく。 このシメタの潜在意識の変化が打つ前の予備動作として、竹刀が動く前に身体の変化に顕れる。 そこをすかさず,自分の智が反射的に打つ。 この身を手放す瞬間を『先』という。 『打つ前に死ぬ!』の瞬間だ。 原田先生が言っている。 『先を取っているか?先を取って適切に反射をしているか?』これが剣道です。 『剣道は読みと反射です』と言っておられる。 どうやら、原田先生の師匠、東京体育専門学校の教授、三橋秀三範師の教えのようです。 今,アマゾンで先生の『剣道』中古品、11,000で最後の一点を注文致しました。(元は3,800円の本です) ここを開いて読んでみましょう。 日本剣道形の真髄が載っています。 従来の西村の解釈が正しいと確信致しました。 さらに。原田先生の原点でもあります。 http://kendo-amispo.iicocoro.com/articles/mizutakendo/mitsuhashihanshi/1656.html ともかく内容が素晴らしい。
原田先生から教わった原点に触れた! 西村が今まで書いて来た内容が,何と先生への道だったのだ。
さて、頭が理解しても出来ないのが人間です。 最近,この辺りを指導して壁にぶつかります。 西村が容易に出来る事が何故皆様に出来ないのか? その結論はその人の生きて来た人生がどのレベルであったか?を問われているのです。 死を覚悟した瞬間、そこからの脱出・・・。 これを経験された方には容易でも・・・。 そうでない人には難しい・・・・。 教えられない世界です。
三橋先生は稽古で読みと反射を獲得するしか無いと書いてられます。 しかし、これが上手く行には『無心』と書かれています。 如何にして自分の『智』を引き出すか。 自分の『智』に命を任せられるか。 最近剣道で西村が悟った『如何に自分を信じきっているか。』につきます。 でも、人生と仕事ではとっくにこの境地に達していた。 人生も仕事も真剣勝負をして来たからです。 剣道はバーチャルリアリティー・命がかかっていないからこれに気づくのが遅かった。 しかし,これに気がついたのは原田先生を追っかけた結果です。
以下は上記のHPからの転載である事をおことわり致しておきます
※岐阜県学校剣道連盟が発行した『創立30周年記念誌』には「三橋先生講話」が集められている。その中の「剣道形の理合とつかい方・剣道形の意義」 (昭和57年11月) に、剣道形一本目のつかい方について以下のように記されている。 一本目は、「先々の先で勝つ意也」としてある。それはどういうふうにつかうかちゅうと、間合に入った時に、その前に形の根本的な役割は、打太刀が指導的立場であり、仕太刀が修得する、教わる立場である。ほだから、間合に接するや、すぐに打ったんでは、仕太刀が読む時間がないでしょう。ほだから、お互いに間合に進んだならば、打太刀は小手なんか攻める、攻める、本当は。攻めるんだけれど、それを、それはできないけれども、本当は攻めるんだ。はりやあ高野先生も言っている。だけれどもそれはできないから、進んで瞬時、瞬時、ほんのわずかな時間をグッと攻め込んでから、面を打つ。ほうすりや仕太刀は、その一瞬の間に相手が面を打ってくることを読むことができるでしょう。もっとも安全な勝ちは、読みの勝ちである。それは、「来いッ」といってそれでぶつかる瞬間、読んでいる。高野先生は、形の制定の主査委員の中心だ。形はだいたい高野先生と根岸備五郎の二人でつくったんだ。高野先生の説明を聞くと、ここでグッと攻めこまにゃいかん。小手いくぞ。ほいで最後には約束の面を打っていく。こういうふうに説明なさる。それは、相手が面を打ってくることを予知する時間をとらなければ、仕太刀は読むことを体験することが、経験することができないからである。いいか。それを形を見ておると打太刀がいきなり面を打つ。それじゃあ剣の理合に合った形のつかい方でない。わかったな。 帝国剣道形をただ動作でやってしまうから何にも効果がない。あれは体操だ。そうでなくて理合いを求めてやるものだ。一本目は先先の先の勝ちである。打太刀が面を打つと決心する。そうした仕太刀は、面へくるか、こい、といってやるから、読んで打つから先先の先の勝ちである。そういう風に形を打たなければ形をやったって何にもならない。それでは六本目はどうか。後の先の勝ちである。ということは反射の勝ちである。条件反射運動である。中段に構える。打太刀が攻め込んでくるやつを仕太刀が出鼻の小手を打つ。打ち太刀は攻め込んでいこうと思っておって、相手が小手を打ってくることを知らない。というのを小手を打ってこい。こうやったんでは形にならない。「きた!」相手が小手を打ってきたから反射的に、いわゆる条件反射ですり上げて打つから後の先である。そういう解釈をすれば、これは帝国剣道形の理合ははっきり分かる。剣道形は応じ技だけだけれど仕掛け技も同じだ。攻め技は全部読みだ。小手を攻めれば面があくということを読んで小手を攻めているから読みの勝ちだ。そういう風に戦術を考えていけば、それは、そうやってそれを習得するかといえば、それは、理合と修練と経験以外にない。
大日本帝国剣道形は大家五人が主査委員となって制定された。先生方は、先々の先や後の先の大切さはおわかりだから、それを形に盛り込み、大切な先々の先で勝つことを一番初めに持ってきたんだ。一本目から三本目と五本目が先々の先で勝つ形、四本目、六本目、七本目が後の先で勝つ形であることは、大日本帝国剣道形でしっかりと説明書きされているのに、その後の連中が良く理解しないから、説明がうやむやになっちゃった。俺は武専のある教授に、君は武専では先々先をどう教えているか?と訊いたことがあるんだ。すると「相手が打つ前を打つのが先々の先、剣道形は先々の先で打つんだ」と説明する。だけど、剣道形は打ってきたところを打っている。勝つほうが先に打っているか?とさらに訊いても説明ができない。先々の先、後の先の問題が頭の中で整理しきれていないんだ。 どうしてこんな混乱を今に招いたかというと、宮本武蔵の三つの先と、剣道形におけるそれとでは内容が違うからだ、宮本武蔵の先は、技のことを説明している。今でいうなら仕掛け技が先々の先、応じ技が後の先、相討ちが先と。現象面に見られる三つの勝つ技術、これを言っているのが武蔵の教えだ。一方で、剣道形の先々の先と後の先は、勝つ技術ではなく、勝つ機会のことを言っている。つまり、先々の先は「読み」、後の先は「反射」という説明でくくることができる。一本目は読みで勝つ。六本目は反射神経で勝つ。形を作ったときに、それをはっきり教えている。六本目は仕太刀が攻め込んでくる。攻め込まれて打太刀が小手を打つところを仕太刀はすり上げて小手を打つ。そのとき、仕太刀は打太刀が小手を打ってくることは予知していないんだ。「あ、来た」と、思わずすりあげて小手を打つから後の先だ。それを俺は学会で説明したんだ。そしたらある人物が、壇上から降りた俺に向かって「僕は何十年も先々の先と後の先が分からなかった。今日の先生の説明で分かりました」と言ってきた。
高野健三郎先生は現代のような科学的な説明ができず、抽象的な説明のしかただった。俺は高野先生に直接先々の先の説明を求めたことがある。そのときの先生の説明は、「互いに先の気持ちで進むのが一つの先、打太刀が面を打とうと決意するのが一つの先、その一つの先を知って先で勝つから、三つ先がつながって先々の先」というわけ。これは現代的な言葉で言えば「読み」だ。相手が面を打ってくるのを読む。
(では、出ばな技も先々の先というわけですか?)
出ばなでも、先々の先で打つこともできるし、後の先で打つこともでき。例えば、相手が面を打つと読んでパーンと出ばなを打つのは先々の先だ。その読みがなく、相手が突然来て、反射的に思わず打ったのは後の先。これは動作の問題ではなく、精神の問題。機会の精神問題。
(そうすると、例えば追い込んで面を打つという場合にも後の先がある)
追い込んだ場合にも、先々の先も後の先も両方の場合がある。機会のとらえ方を読みでしているか、条件反射連動でしているか。
(じゃあ先生、先々の先か後の先かは、第三者からは分からんですね)
分からん。分からんでいいんだ。第三者から見たら、仕掛け技か応じ技かが分かるだけだ。それだから、一般ピープルには、まず仕掛け技と応じ技を教える。だけど、本当に大事なのは先々の先と後の先という部分。それは第三者から見ても分からないこと。
(三橋先生に角に追い込まれて、竹刀は殺される、後ろには下がれない、なす術がなくなってボンと打たれる。この場合は?)
それは「なす術がない」と知って打つから先々の先。 (うーん、おっしゃることは、分かるようで……)
俺は『剣道』を十年前に書いた。君に要求するのは、俺の本を読めということだ。今話していることを、俺はずっと言い続けているし、内容も一字一句変わってない。でも、みんな先々の先や後の先なんか関心がないんだ。剣道の先生にしたって、俺の本を買って、先々の先と後の先のところを読んだ人ななんかきっと百人に一人もいない。お前らも読んでないだろう。
(中部講習会があったとき、滝澤光三先生が先々の先については三橋先生の本が一番うまく説明してあるとおっしゃっていました。今、手元に先生の本があるので読んでみます。「先は仕掛け技の中から、相手の心を予知した出ばな技を除外したすべての仕掛け技をいうのである」)
それは技の説明だろう。先々の先と後の先のところを読め。
(「先々の先は、精神面を特に重視して、相手の打突を予知して勝ちを制する場合をまとめたものである。したがって、形の上からでは仕掛け技の場合と応じ技の場合がある」)
そうだろう。今、言ってたことと同じだろう。
(「先」というのはどういうことでしょう)
先というのはだな。応じ技でも仕掛け技でも、いかなる場合も勝つことを先というのが一つの考え方。
(先と先々の先と後の先と、先には三つあるという、その教えにこだわっている。先生はそうじゃないとさっきも言っている)
こだわっちゃだめ。動作と機会は別問題。別々に解釈しないといけない。機会がよくたって、動作が悪ければだめ。機会をつかむのは先々の先と後の先。それで、動作は先に打っているか、応じているか。性質が違うものなんだ。その性質の違うものを、宮本武蔵の三つの先と頭の芯からごっちゃにしているから、どうにも理解できない。武専の大先生でも理解できないから、俺は講習会のときに衆目の前で喧嘩してしまった。剣道形の一本目の先々の先を説明しろと。
(私もどうしても分からないのですが、動作としては仕掛け技でも応じ技でもいいですわ。そのときの精神状態としては、先々の先か後の先か?)
精神状態は先だ!打つ気力、気迫、勝つための精神問題は先。そして、機会をつかむのが先々の先か後の先!
(明解や) 明解やろう。この先々の先と後の先を修行することが、社会生活を送るなかで、剣道がためになるものだ。人間の社会生活は何のためにある? 「読み」をすることによって社会生活はよくなっていくだろう。剣道をやることによって社会生活をよくすること、社会生活をよくするその秘訣はなんだ。それが読みだろう。その読みを、習得すること、それが「形」だ。交通でも、向こうがどのくらいのスピードで来るかを読むから交通事故に遭わないんだ。そういうことも含めて剣道の修行を生活に活用する。そういうものがなかったら、剣道をやらなくてもいい。スポーツをやるのと剣道をやるのはどこが違う? 生活のためになるかならないかが、剣道とスポーツの違いといったっていい。剣道で読むカ、機会をつかむ力を身につける。そして、それを身につけて、自分たちの日常生活にそれを活用する。その比類のない精神が、伝統的な剣道の真髄だと俺は思うが、どうだ?
(そのとおりですね)
そうだろう。そいつを頭に置かなければ剣道は堕落する。ただの打ち合いじゃあ、堕落の一途だ。剣道を知らずして、打ち合いを知っているだけだ。テクニックを知ったって、剣道を知るということにはならない。現代剣道を見てみろ。剣道界が俺を排斥したことによって、俺を地方に追いやってしまったことによって、剣道の近代化は十年遅れた。俺はそう自負しているぐらいだ。
もちろんそれができるかできないかは個人差はある。だけど、そのことを狙って剣道を行なうだけでもためになる。そこを目指して修行することが剣道だろう。精神状態をよくするため、読みや反射神経をよくするために剣道を学ぶ。なおかつ、それを可能にするには無心にならなきやいけない。そして、その根本の極意を解いたのが、不動心だ。
原田先生の剣道が迷いが無く明快なのはここに原点があるからなのだ!!!!
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