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- 秘伝最終章 - 西村雅興 [2012年1月30日(月)]



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秘伝最終章
西村雅興
2012年1月30日(月)
秘伝最終章

西村的には武道の最終は奥深い所にある自分を見いだすことにあると思う。
あの柔道家・山下が足を痛めて立っているのがやっとのオリンピックの決勝戦の時、
今まで稽古をしたことがない、掛けたことのない技が出て勝ってしまった。
勝ったと云うよりは、勝ってしまった・・・が正直なところのようだ。
【負けに不思議の負け無し、勝ちに不思議の勝ちあり。】
とっさに身体が勝手に何かをして勝ってしまい、その時は自分の意識は全く働かなかった状態のことを言う。
【不動智】の智が働いた状態を言う。
一般的には【不動心】が良く知られているが、そこを掘り下げた境地だ。

京都で原田先生から【不動智】と書いた敷布を頂いた。
先生が言った『西村ならこの意味が分かるだろう。』と言いながら。
その時は自分の頭の中には【不動心】しかなかった。
先生が言った。
「不動心では相手に、その場の状況に対応出来ない、【智】が働かなければ役に立たない。」
その時は良く分からなかった!
その時から【智】を考え始めた。
あるとき、これが【智】かと分かった瞬間があった。

小川忠太郎・十段が原田先生に言ったそうな。
『息を踵から吐き切れ、そして更にそれを踵から上げるのだ。』
西村も原田先生との武道館の稽古でそれをやってみた。
息をゆっくり吐き続け踵から吐き切った状態になっても、息をつかず更に踵から息を吐く感じを足に上げてきた。
息を吐き続けて行き、更に息が出ない状態でも息を吐き続けている意識はある。
息を吸わずに立っていると、一瞬フラッとして前に倒れる様な状態になってしまた。
意識が完全に飛んでしまった状態だ。
気がつくと原田先生と体が入れ替わっていた。
知らない間に面を打っていた様だ!
先生が良い面だと褒めてくれたが、打ったことは全く意識が無い。
今思うと、フラッとして西村が倒れようとする瞬間、原田先生は西村の面を打とうとしたに違いない。
西村の智が働き(本応的防御機構)面を打っていた様だ。
先生との30年を超える長い期間の稽古で、西村は打とうとして入ったことは一度も無い。
思えば身体の予備動作を通じて、先生に正体をバラしているので入る訳がないからだ。
要は意識が働くとそれに対応する準備の行動が身体を動かし、予備動作を通じてこちらの意思を相手に発信しているのだ。
剣道の極意は思わず打ってしまった!・・・神妙剣・・・これがが極意だ!

江戸川区でまだ稽古をしていた時だった。
当時、西村六段、相手は七段で遅れを取っていた相手との稽古のことだった。
ふっと気がつくと相手の向こう側にいる自分に気がついた。
相手は微動だにしないでそのままであった。
相手からすれば、風が吹いた様にしか感じないうちに、西村が面を打って通り抜けた様な感じだったと思う。
面白いのは二人の稽古を右上斜め2メートルくらいからこれを眺めているもう一人の自分がいるのだ。
この自分はさーっと面を打っている西村を見つめていた。
あれから15年くらいたつと思うが、いまだに鮮明にその映像は出てくる。
当時この剣道をした自分に有頂天になったが、その奇跡は二度と起こらなかった。

古い話になるが、西村が積水を退学して、東京の高校に一年生から入学した。
剣道部が無いので寄せ集めの部員で剣道部をつくった。
それでも初年度で東京都でベスト8にはいった。
試合前に少し稽古をするレベルの剣道部だった。
世田谷区の試合で国士舘高校と対戦すると、前の四人は全部二本負けで西村のところに廻ってくる。
西村は簡単に二本勝ちで負かしていた。
そんなことが二年続いた。
三年目のことだった。
国士舘の大将は既に大学生になり応援に来ていた。
この学生が「先輩!いつ高校を卒状するのですか?」と聞いた。
そう思うのも無理がない。
西村は既に大学三年の年齢だから・・・・。
そんな時の三年目の試合だった。
あろう事か、大将戦にまで持って来たのだ。
この時は西村も慎重に対戦したらしい。
時間間際か、延長戦になったか忘れたが、フッと気がついたら相手と体は入れ替わっていた。
抜胴で勝っていたらしい。
西村の方に旗は揚がっていたが何で勝ったか分からない。
引き上げて行くと見事な抜胴だったと聞いた。
西村の剣道には抜胴は全く無い。
手の内の稽古で面返し胴の稽古はしたことはあるが、胴を打って勝つ等との発想がない人だったのだ。
どうした訳か・・・抜胴で勝とは?
稽古でも試合でもかって一回もしたことが無い抜胴だから。
このとき、この現象は全く理解出来なかった。

学生時代、岩手県大会の2〜3段の部での決勝戦だった。
試合前に岩手日報に台風の目、医大の西村選手と書かれていた。
試合会場に行くと先生方から台風の目と冷やかされた。
決勝戦、相手は県警の選手で先方を負かされる剣道のプロだ。
この時の決まり技が小手だった。
普段西村は小手は打たなかった。
試合中に相手の小手が急に大きくクローズアップされて目に飛び込んで来た。
思わずこてを打ってしまった様だ。
打ってしまった!こんな感じです。


椎名先生が大柄な八段と稽古をされていた。
椎名先生曰く「相手は参った!と面を捧げて来る、そこを打つ!」
その通りの面を打って相手と蹲踞に入った。
やはり見事だった!
剣道の本質が分かっている先生の剣道は見ていて本当に嬉しい!
過去二回の椎名先生との稽古
西村は参ったと見せる!
二回前の椎名先生との稽古ではこの面を見せたとき、来たと思ったが間一髪胴に返すのが遅れてしまった。
完敗だったが、心を動かせた事は満足だった。
間合いが深すぎたのが敗因だった。
しかし、この間合いでも左に捌けば・・・との思いがあった。
頭が胴に捌くと決めてけていた事が智を押さえ、神妙剣にならなかった。
次回は左に捌き胴と思っていた。
この左捌きの同には絶対の自信がある。
やはり頭で剣道をしているのだ。
しかし、今回は全く同じ状態で先生が面に来た時、無意識が小手を斬っていた。
無意識の打ちだけに冴えていた。先生が参ったと小手を上げ蹲踞になった。
捨てて見せて打たれに入れば、椎名先生の見事な面も無意識は小手に斬った。
西村の頭は左に捌いて胴を打つつもりだった。
智の作用は小手を打ち,見事に入った。
西村は無意識に打っていたのだ。
これが神妙剣だ!
剣道は自分の意識をここに連れて行く動的瞑想なのだ。
もう一人の自分に出会う旅なのだ!

【剣道は読みと反射】
相を読む
相手の予備動作を介して相手の無意識を読み、相手を動かして勝ちを得る。
これが陰流の極意だ。
西村の剣道は通常この剣道をしている。

相手が剣道のプロ故に身に付いている無意識の反射がある。
範士八段、九段の名剣士との稽古に使う。

原田先生との稽古
原田先生との稽古で西村の右足は1センチくらい床の上を静かに進んでいる。
いつ左手を動かすか、我慢に我慢を重ねても先生の方が我慢強い!
ここと思いすてきって面を打つが、見事に小手か胴を斬られる。
先生はこの瞬間を待っているのだ。
このとき先生は何も考えないで反射的に小手か胴を斬っている。
あるときふーっと閃いた。
攻め口は全く同じで、もう打つしか無いという瞬間に右膝をクッと前に出す。
先生の反射はこことばかりに反応する。
しかし、直ぐに違うと感じる。
先生の中でスウイッチング(指令系統の乱れ)が起きた瞬間だ。
ここを西村の無意識が捉えて面を打つ。
面を打つと云うよりは身体に蓄えられた内部応力(為め)を解放する、左手を解放する瞬間だ。
先生は「参った!」と褒めて剣道は茫然自失状態だった。
剣道の興味が失せ数ヶ月は剣道のことは全く頭に上って来なかった。
【手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない】
【覚悟を決めて足と体は勧める、後は自分の内なる[智]を信じきるだけだ。】

最近は時々決まる様になった。
相手の長年蓄えられた読みと反射の世界を逆手に取る方法だ。

これは相手が名範士ほど決まる。
静岡の井上先生
何をやっても手玉に取られる先生だ。
先生が面においでと合図をする。
はい!とばかりに足を進め身体は面に打ちに行く。
しかし、左小手は先生の左手が動くのを待っている。
先生は『おお面に来たか!と思い小手を打ちにくる』。
西村はそこを軽く小手を刷り上げ面を打つ。
同じ面が数本決まる。

これは四国の大先生の西野吾郎先生にも同様に決まった。

賀来先生との最後の稽古
前回は西村の小手面が決まりお褒めを頂いていた。
今回は先生と稽古をしている相手が、合図により引き出され捌かれていた。
西村の番になった時、先生はやはり面を打てとばかりに合図をされる。
西村はこのお誘いに乗って上げる。
先生は来たかとばかりに、対応しょうと左手を動かす。
西村の無意識はそれを見て適切に対応して、上がりかけた小手を打ち面に伸びる。
ゆっくりと申し合わせ稽古、形稽古の様に決まる。
周りで見ている人からすれば不思議な光景だ。


松風館道場で
岡先生が西村に聞いた
攻めとは何か・・・・西村は答えた『イメージです』
岡先生は言った・・・・『攻めとは構えだ』
あなたが原田先生からどう教わっているか知らないけど、私はそう思う!

西村的説明をすると、自分の無意識・有意識レベルで思っている事は即ち身体がそのようにしている・・・だからこの構えから相手が攻めを感じるのだ。
これが岡先生の持論でしょう。

西村はそれはそうでしょうと思う。
しかし、剣道界のレベルでの話でしかないのです。
そこを具体的に攻めをするには、「協力な映像が出てくるほどのイメージ」に尽きると思います。
さらに大切なのは『過去完了形』でのイメージです。
相手はこちらの発した強烈なイメージ化された映像が空間を通して、相手に映るのです。
これが意識波動です。
強烈な意識はイメージを空間に呼び起こし、それはエネルギーとして相手に伝わる、
さらに思いは過去完了形でイメージ化する事が大切で、現実がこれを追っかけてくる。
だからこ対峙した相手がそれに対応しょうと反応するのです。
強烈なイメージは実態の伴わない攻めですから『虚』です。
この『虚』に『実』で反応すると、その直後『虚転じてしまう』

範師九段 倉沢先生との稽古
西村が強烈なイメージで面を打たんと体を入れかける。
西村の作り上げたイメージは空間を通してフォログラフの様に面を打っている。
しかし,その実は身体は30センチくらいしか前に出ていないし、左拳は腰に載せたまま。
手と体は次の無意識レベルでの指令、『智』を(反射的動き)待っている。
先生の意識の認識では西村が面を打って来たと信じて疑わない。
しかし、次の一瞬、西村の実態が伴っていない事に無意識レベルが気がつく。
『エ!、まずい!』・・・ここで先生の無意識レベルで『虚』に転ずる。


これを深層心理学的気の捉え方では『スイッチング』と云う状態が起こる。
これは電気回路を右から左に切り替える時に一瞬電気が流れない様な状態が起きる。
心身を統一している指令系統が一瞬『無』になった様な状態を云う。
具体的には、合気道の世界でいとも簡単に相手をふぬけにしてしまう。
相手の袖を軽く引っ張った瞬間に相手の意識がそこに行く。
その瞬間相手を上から軽く押せばぺしゃんこに潰れてしまう。
丹田に意識を納め重心と丹田と意識が一致しているときは相手は押しても引いてもビクともしない。
しかし、頭を一撫ですると意識が触られた所に動き、少し押されただけでヒックリ返ってしまう。
いわゆる武道はこの様に相手の『気の乱れ・身体指令系統の虚』の状態を作り上げて相手の自由を奪うものである。
この辺りが『極意』なのである。
しかし、普通の感性の持ち主はこの辺の話になると反応しなくなる。
いわゆる,身体的感受性が低いからこれを意識で感じ取る体験をしないからである。
石原忠美範師九段の感性では、持田先生の念力を敏感に受けている。
西村が日本を代表する大先生に何でと云う面が入るか?
先生の鋭い感受性を逆に利用して,先生の無意識を操作するからである。

話を戻すと。
倉沢先生の無意識レベルは一瞬の戸惑いレベル、『スイッチング』状態に入る。
イメージで受け取った面を受ける手の動きが元に戻そうと手元を下げかける。
その瞬間、西村の『智』が見逃さず、反射的に先生の右拳を軽く押さえる。
先生の手元がさらに下がり、面が空く。
知らない内に面を打ってしまっていた。
これが3回、同じパターンで入った小手面である。
西村は通常は小手面の二段打はしない人である。
しかし、このときの『智』の反射的指令は『小手面であった』。
このように『手は勝手に動く』のだ。
問題は身を捨てて,打つ前に死ぬ覚悟が出来ていて、先生の刃の下に身を捧げる覚悟があるかどうかである。
いわゆる『捧身』である。

『手は勝手に動くわなあ!しかし,足はそうわいかない!』
西村が明確な意志で体を出したのだが〜〜〜その後は『ケセラセラ〜なる様になる、後の事など判らない、』
自分の内なる叡智を信じるしか無い。

西村が凄く強い様に書いてあるが、倉沢先生に自分から打って出ると,見事に捌かれ,手も足も出ない。
完璧に打ちのめされる。
しかし、非常に感性の高い先生だから、竹刀を動かす前に自分の智を信じて、勝負を終わらせてしまうこともできるのだ。
レスをつける



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