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- お年賀のプレゼント。浮木(うつき、ふぼく)の実際 - 西村雅興 [2015年1月2日(金)]



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お年賀のプレゼント。浮木(うつき、ふぼく)の実際
西村雅興
2015年1月2日(金)
浮木(うつき、ふぼく)の原理の実態は
『気の虚実の誘導である』

これからこの原理の例を沢山挙げる。
今年、正月の二日に何故書きたかったか?それは『感性が感応する虚実、それを身体が無意識に動きとして反射している』

尚、具体的に先生の名前が出るが、西村の率直な実感であって、誹謗中傷する気は全く無い。あくまで西村自身の感情である。

基本的には見えない気の押し合い、緩め合い、気の実が一方向(ベクトル)へ向かい(相手の下からの攻めに、気が反応し気の実をこの方向に向ける)、結果として面が虚のベクトルになり、相手の気を誘い込んでしまう。
相手の気の実がこの虚に乗じて面を打つ事のなる。
なんの事はない!自分から面を打って下さいと頭を差し出したのだ!
剣道はこの気の虚実の駆け引きである。
ただし、六段審査くらいまでは、実と実が交錯し実の大きさが強い方が受かる。
七段審査ではこうは行かない。
虚実の闘いを十分考察した稽古が必要だ。
何故なら、実と実の闘いを制して受かった人同士だから、この闘いでは両者不合格になるのは当然だ。
西村が七段受験に指導するのは、「足からの体の攻め、次いで竹刀で下を攻め、相手が動いた瞬間捨てて面を放つ!」なのだ。指導の原理はこれ一つである。
マスターした人はその剣道の実力が無くても七段に受かってしまう。
審査員が欲しいのは『相手の実を虚で引き出し、虚となった面を時で打つ!』これが見たいのだ。

この面は相手の面の虚に吸い込まれる様に、一瞬に打ってしまう(打った感覚ではなく、打ってしまった!)の感覚である。
それ故相手は全くこれに対処出来ない。

多くの重複するかもしれないが霊を挙げる。

先日、原田源次先生の言われた「相手の攻めの鼻に振りかぶる」を実践してみた。
これかな?と云う感触が掴めた。
これを書きながら思い出した。
九州での八段戦で原田源次先生の見せた面打ちだ。
相手は後に九段になられた丸太先生だと記憶している。
(この頃の先生は相手が攻め入る時、2回ぐらい下がりぎりぎりに間合いを切る。
3回目、相手が同じ調子で攻めてきたとき、今度は入れ替わって体を伸ばして面を打つ、)
剣先の攻め合いで『浮木』と云うのがある。
相手が竹刀を押さえにきた所を、浮木が上から押さえられてくるっと回転しながら浮き上がる様に、
相手は下方向へ剣先が向き、その逆に面に乗ってしまうと言う技だ。
相手の攻めを堪えるのも胆力だが、打つ前に自分を捨てることが出来ていれば、相手の攻めと入れ替わりに体と竹刀が相手を割って入っていく。
剣先の浮木の関係を、間合いの関係として同様に処理をすれば良いことになる。

西村コメント
要は相手に面を打って下さいとの状況を作り出している技前が全てです。


夏井さんが変わった!
打つ前に攻めの工夫が加わった。

今までは竹刀の先が上がったまま面を打ちに来たが、今は竹刀の先をを下げながら攻め入り、相手を動かしている。
特に今回のお相手は、それを無意識が嫌がり押さえに懸かっていた。
数度それが繰り返されれば、夏井先生は相手のパターンを読んで、下から攻め、それを押さえさせに来させ、『浮木』の形で面を取る。

剣道の面打ちの一番使われるパターンの模範演技でした。
このパターンで七段を突破しましょう。

西村コメント
この攻めが入ったら七段に合格!


『表鎬の攻めに終始するからこういう状態になる。』

先日の全剣連合同稽古に野正範士八段と稽古をしました。
表からの攻めに強い先生です。
最後の一本の時です。
賀来先生が昨年の野正先生の立ち合いの攻めと、心の状態をしっかり効いていました。
表からの攻め合いから、腰を入れスッと裏から攻めは入りかけました。
すると先生は上からぐっと押さえに来ました。
浮木の原理で腰に十分竹刀を乗せて面が入りました。
西村の感覚には裏から攻める意識が頭に全くありませんでした。
この時見事に決り先生が言いました。
「原田源次先生の弟子は皆強い!
体から入って来るからなあ!」
ニコニコして握手をしてくださいました。
それでも稽古では裏鎬を意識していません
『表鎬の攻めに終始するからこういう状態になる。』
片手落ちの攻めを反省し、表裏の両面ある意味をしっかり受けとめます。

そう言えば、原田源次先生は試合で、時々裏から軽く相手の剣先を払うような仕草を思い出します。
こんな所に凄いヒントがあったと今気がつきました。

西村コメント
多くは表からの攻め合いで攻め合っています。
しかし、裏から軽く払われると意識が竹刀に行ってしまう。
竹刀の先に実が行くと身体は虚の状態になってしまう。
相手の意識を竹刀に注がせ、そこで下から攻めると、相手の無意識は乗って来る。


右足で攻め入って面を打ちたいと思っても、相手が面を打つと決めていたらそうは上手く面は打てません。
右足が攻めはいる時に鍔元の下を攻め(体の攻めに用の攻めを併用)、相手に「小手を打つぞ!」と気を送ります。
相手はその気配を感じて、こちらの竹刀を押さえに懸かります。
その瞬間に『浮木』の原理で面に跳びます。
真っ直ぐ相手を見ていた視線を、その一瞬に小手を見るのもその気を送ることになります。
面を見せて胴に切るか、面と見せて小手を取るか、単に右足だけで攻めても難しいです・
腕に差があれば、意識で突きを攻め、居着いたところを面もあります。

基本的には最近の記事にあるように、三橋秀三先生の攻め口(原田源次先生も全く同じ)が順当です。

相手だって必死ですなかなか上手く行かないものです。
右足だけで攻めて、面を取ろうとするのは腕に差が無い場合は難しいです。
自分の身体能力が相手より数段優っていれば出来ますが。

西村コメント
西村は足からの攻めを『体の攻め』、その後の竹刀の攻めを『用の攻め』と読んでいます。
体の攻めでこちらの気をしっかり受け止めさせて(実に対して実が迎え撃つ)、この後、竹刀と気で虚の攻めに実で反応させ、空いた面の虚を実が吸い込まれて行く。


《分かり易い例》
竹刀を下げ、小手を狙う振りをする。
相手は「それはイヤ!そうはさせないぞ!」と下からの竹刀を押さえようとする。
この時、相手の有意識は真っ直ぐ相手に竹刀を向け、動かしている等とは全く思っていない。
まさか、自分の竹刀が相手の竹刀につれて動いているなどとは、思ってもみないのだ。
現実は動いているのだ。
無意識が猫じゃらしにあっていることすら、有意識は気がつかないのだ。
二三回強く下からの攻めをすると、相手の無意識はこう思う「次は絶対小手を打ってくる!」
このように確信する。
こちらは相手の無意識の確信を手に入れたのだから、それに応えるように、四度目は少しアクションを大きくし、下から攻めると相手の竹刀は強く押さえに来る。
相手の竹刀は下向きに動く。
自分の竹刀は浮木の原理で、スルリと抜けて面を打つ。
相手は絶対止めることはできない。

西村コメント
剣道家は竹刀を刀と思い、これで相手を打ち負かそうと思っている。
これが通用するのは六段審査までです。
竹刀は猫じゃらしの、先に綿を付けた軽い棒か、紐くらいの感覚で使える様になると、自在に相手の心、気を操る事が出来る。


今年の京都の賀来先生の相手を裏から攻めて、相手に巻き落させて面を取る。
この原理を上手に八段戦でつかって、勝っているのが原田源次先生だ。
これが理合なのだ。
その裏の深層心理的な観点では。
心の奥に、『打たれたくない!』と強い心が働いていると、相手の攻めにこの部分が強く働いてしまう。
そうすると、逆に相手に操られてしまうのだ。
打たれても打たれなくとも気にしなければ、その反応は起こらない。

西村コメント
相手もさるもの、同じ様に仕掛けて来る。
自分を守る概念を頭から取ればこの反応は起きない。
しかし、頭で判っていても無意識が反応してしまう。
自分を斬るのは難しい!


剣道で相手と対峙したとき、意識で小手を攻めると、攻めた自分の体は無意識に小手を打つ予備動作をすくなからずしている。
それは体の動きであり、竹刀の動きでもある。
分かりやすく言うと、竹刀の先を表からスッと下げ相手の竹刀の下に入れて、裏に回ろうとしたとき、相手の無意識はそうはさせじと上から押さえに来る。
相手の無意識が小手を打たれるのが苦手、と思っているほどその動作は大きい。
面白いことに、本人は真っ直ぐに竹刀を構え、自分の竹刀が相手の竹刀に動かされていることを知らない。
数回これをやり、浮木の原理を使えば簡単に面が打てる。
相手の陰、無意識を読んだからだ。
読み勝ちなのである。
西村の言う『猫じゃらし』である。
剣道の教えに『打たれることを気にするから打たれる。』が実にそうなのだ。
打たれたくない自分が消えれば、無意識も守ろうとしない。

西村コメント
この世界になると、剣道の稽古だけではこの部分の成長は難しい。
人生で命がけで何かをクリアーした体験の方が効果が高い。


『「私」を守ろうとする意識は必ず身体に徴候化する。
それは「居着き」として身体反応力を低下させ「起こり」として、心身の情報をリークする。
それを防ごうと望むのであれば、私たちは非中枢的な身体運用を習得しなければならない。
そして、『非中枢的身体運用の習得は必然的に「守るべき私」という観念そのものを廃絶を要請せずにはいない。』
敵に勝つためには勝つことを忘れ、私を守るためには私を忘れなければならない。
そして、当然のことながら、「敵に勝ちたい」という欲望を棄てた者にはもう勝つべき敵がおらず「私のことを忘れてしまった」
私には守るべき「私」がいない。』

西村コメント
このレベルになると生死の体験をした人が強い。



西村が賀来先生に質問した。
「先生!今年の京都の立会いですが、あれは相手が押さえに来た所を回して抜いて打ったのですか。」

『少しグッと攻め込むと相手は敗けじと、グット押し返すわけだな。
そこをストンと面に出たんだよ。』

相手としばし押しあいの後、賀来先生がぐっと裏から攻め入ろうとした。すると、相手はそれを巻き込むように押さえに懸かった。
そこを、浮木の原理で、相手の竹刀は下方向に力が向いている。
押される力を利用して、スルリと竹刀を表に回し面に出る。

相手の力がニュートラル(中立)の時はこちらの動きに対応されてしまうが、相手が巻きながら押し返した力を利用すれば、相手の竹刀力が未だ下方へ向かっている訳だから、急に体勢は立て直せない。
そこで、ストンと面に伸びたのだ。

賀来先生の虚に相手が実で反応し、それを虚で受け流し実に回った。

心理的な虚実の彩、剣道の理合いが実にはっきりとした立ち合いだった。

西村コメント
ここで重要なのは賀来先生がこの裏からの攻めに何の躊躇もないことです。
相手の反撃を少しでも予測すると、その動作にぎこちなさが起き成功しない。


最近、西村はつくずくそうだと思う。
剣道家は竹刀を手に持ち、これで相手を打とうとするが故に迷路に嵌まる。
かって、柴原さんが岡田さんに「竹刀を持つのを止めたら。」と言った事がある。
つくずくそうだと思う。
最近、西村は相手と対峙しても自分が竹刀を持っているとは感じない。
『気』を正中線上にしっかり送っていけば、攻めも守りも竹刀の必要がない。
相手はこの気を越えないと、破らないと打てないからである。
自分の竹刀は相手と気がしっかり決って、相手がもう余裕が無くなった時、竹刀を使って相手の気を正中から外す為に使ったりと、猫ジャラシに使うだけである。
要は気をしっかり相手に送り、この気の延長線上に竹刀を置き、感じる物と形を一致させる。
相手がこれにしっかりと有意識・無意識で呼応してきたら、気はそのままで竹刀の先を動かし相手の気をこちらに誘導する。
無意識がこの竹刀の先に呼応して、相手の二つの意識が分離する。
相手の無意識がこちらの竹刀の先に、猫ジャラシにあった時、これを相手の心が手のひらに乗ったと言う。

相手に形で攻めた竹刀の強さを抜く。
これは攻め入るとき左の手首が強く締まり、体のエネルギーを竹刀に伝えてやや前に出ようとする。
この左手首を緩めると同時に胸を軽く緩める。
相手は暖簾に腕押しの様に引き出される。

竹刀の先をスーッと下げ、面を相手に見せる。
形で緩めると同時に、餌を播く。
出小手が良く決る。
これの達人は田原先生である。
西村も知っていながら、しっかりと小手を何本も打たれた。

さて、竹刀を持つ感覚もなく、攻めている感覚もなく只相手の前に立っていると、相手の心は手に取るように分かって来る。
そこで、竹刀を緩め攻めもなく、間合を打ち間に入っていく。
相手は打てそうな気がして打ってくる。
そこを取る。
これが「無手勝流。」だ。

入り身については大切だが、ここでは勝負は竹刀で無ければ手でもない。
間合に入る心に滞りの無い足の動きこそが大切である。
『動かそうとして動かすのではなく自然に心のままに動くようなりたいものだ。』

西村コメント
『柄をはなす』・・・五輪の書から
一 つかをはなすと云事。
束をはなすと云に、色々心ある事也。
無刀にて勝心有、又、
太刀にてかたざる心あり。
さま/\心のゆく所、書つくるにあらず。
能々鍛練すべし。
一 束をはなすという事
 束〔つか・柄〕を放すというのには、いろいろ意味がある。無刀で勝つという意味もあれば、また、太刀では勝たないという意味もある。
 その意味の行くところ、さまざまであるが、それを書きつくせはしない。よくよく鍛練すべし。

竹刀を刀と思わずに、猫じゃらしの道具くらいに思って相手を操る。
無刀の位に、手に扇子を持ったくらいの気分だと思う。
小太刀が何故強いか・・・間合いの不利を心底知って、入り身の妙で対応しょうと覚悟を決めている所にある。



これを剣道流に言えば「、虚によって相手の実を引き出し、虚の状態の面を実で打つ。」
の教え。
高校生辺りだと面に飛ぶと見せて、相手が面に出るか、面を防ぐかの所作に入った時にコテを打つ。
大きなフェイントがこれに当たる。
少し段が上がると竹刀の先を下げ、相手の竹刀がそれに釣られて来ることを利用する。
もう少し段が上がると、鐔下を攻めコテに攻める。
押さえに、少しずつ逆らってやる。
ここで「浮木」の原理を使う。
水に浮かぶ木を上から押さえると、クッルっと手ごたえがなくなり、指が水の中に浸かってしまう。数回繰り返せば相手ははまる。
審査の先生はそれを見ている。
その後が大切で相手が十分にはまった瞬間に捨てて打つ。

出コテと云う、起こりを打つと云うが実は相手を引きだして打たないと審査の対象にならない。
面に出てきた起こりをやっと打った面、コテは格下の表現である。
先をかけず、待って打つコテも余り感心しない!
しかし、試合では審判が旗を上げる。
誰もが現代剣道の二面性。

西村コメント
ここでは相手が十分にハマった瞬間に打てと書いておいたが。
今では相手の気がハマった瞬間に、無意識が面に吸い込まれて打っているに変更。


胴体力の活用

体の運用を持って面を打つと言うこと判っていた。
先日、岩立先生の相手を真っ二つに切る面を考察したときはっきり判った。
岩立先生の面は攻めと浮木の原理に胴体力の活用であった。
そこを理解すると、火曜日に西村も今までにない鋭い面が打てる様になった。
今日も稽古で胴体力を使った面打ちを打つと、目も留まらぬ鋭い面が打てた。
相手は只驚いて打たれるだけだった。
風が相手の頬をサーっと撫でるように、相手が気配を感じる間もなく打ってしまう。
胴体力の活用がプロの体の運用とはっきり理解した。

西村コメント
『風が相手の頬をサーっと撫でるように、相手が気配を感じる間もなく打ってしまう。』これは自分の実が相手の虚に吸い込まれて打っている状態。


万を侍して橋本先生範士八段と稽古をした三回目。
西村がスーッと剣先を先生の竹刀の下に攻め入れた。
先生はそれを押さえに来た。
浮木の原理でこれをすり抜け、小手面としっかり打った。
西村は十分と思ったが、先生は竹刀の元を小手で示し、元打ち、深いと示した。
そのとき、西村は入っているのに先生は認めないと、少しがっかりした。
しかし、先生がわざわざ指し示したゼスチャーが頭に残る。

反省!
シメタ!
の思いの後、間合を意識しないで、体を前に延ばし打ってしまった。
ハイ!
先生嵌まりましたね!
私の勝ちですよ!
そんな気分で打てば良かったのだと、今もって、夢の中で何度も反省している。
気もちが上ずり、夢中で打ってしまった。
本当の勝ちにならない。
形で勝ったが!
心は勝ちに遠い打ちだった!

この用に折角のチャンスを、いつもの用に打ってしまって入る傾向が多く見られる。
皆さまもこの反省をすると、稽古に数本は良い打ちになるかもしれませんね。

西村コメント
稽古をする前から勝負はついていた。
先生の強気を誘導すれば小手、面と渡るは容易であると。
実際そのようになった。
西村の尊敬する師範は、このような場合『参った!』示される。
この先生は逆だった。
剣道は強いが・・・・の・・・の心が観える。 がっかりだった!
もう竹刀を合わせる気がしない。
レスをつける



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