掲示板を見ると 広告で汚されていました。 削除する前に賀来先生特集なので読み返した。
そこから改めて抜粋する。 この暮れから正月にかけて書いて来た事は本の内容から書きましたが、これは西村主体の内容でした。 特に発見したのは体を沈める、膝を緩めるが書いてはいたが、黒田鉄山先生の本によって【技】になる点でした。 詳しくは【賀来先生】のロゴ検索で読んで下さい。 西村のオリジナル的独断と偏見を持って書いて来た事が、黒田先生、日野先生、その他の先生方の本があながち間違っていなかった事を立証して頂きました。 今回の書き込みの中で、攻めの時の【吸気】については改めて認識しました。 【緩める】コツはこの【吸気】に有ったのです。 ここまで出来れば達人の域です。
『2014年12月28日(日) 賀来先生の特集 前回、原田先生と賀来先生の立ち合いについて書いた。 その夜から、賀来先生との稽古、お話が走馬灯の様に頭を駆け巡り、翌日の今まに至りて頭の中が賀来先生のことで一杯なのだ。
今回、このビデオを見て、観て、改めてその偉大さを知った。 西村の尊敬する原田先生との立ち合いであったからこそ、良く分かったのだ。
岡田さん!貴方が師と仰いで教わった賀来先生の禅的内容、今の貴方に一番参考になる教えなのかもしれない。 多くの事を教わったかと思いますが、西村と賀来先生との関わりで書き抜いて行きます。 尚、読者は『ログ検索』で、『賀来先生』と索引し、一番古い日にちから全て読む事を勧める・・・高いレベルを求める剣道家には結構良い読み物になっています。
?????特集を書こうとログ検索をして纏めようと思って数時間かけたが、結局止めにした。 各自にログ検索をしていただこうと思った。 ・・・・・暮れの退屈しのぎに、剣道家の頭に涼しい風を吹き込むかもしれないから・・・・.』
『年の暮れのプレゼント-1 賀来先生特集 西村雅興 2014年12月29日(月) 前日の昼、数時間かけて纏めようと思ったが出来なかった。 その後、朝まで思いが燻るので出来る範囲で書く事にする。 勝った負けた、当たった、打たれたに捕われる人に興味の無い話だが、剣道を吸う齲十年修行して来て、それなりに思う所がある高段者には更なる世界への道しるべになるかもしれない。 田伐さんのお陰で秘蔵映像シリーズに出会い、師匠・原田先生と賀来先生の立ち合いを映像で再認識する機会を得た事は千載一遇のチャンスであった。 賀来先生が、西村に剣道たるものの意味を皆様に伝える様にとの配慮だったと思い再び書く事にする。 原田先生が目指したものより一段高く、崇高な世界の様な気がします。
禅の世界の究極の修行を通して到達する処。 小川忠太郎先生の教え・・・相手と『不二』の境地。 賀来先生はこの境地で剣道をされていた事がようやく西村にも理解が出来た。
ある所より抜粋 「人間社会の形成」、即(すなわ)ち「事理相忘」、「自他不二」。 これが剣道修行の大目的であります。 「事理相忘」というのは、修行をし抜いて、一切をやり切って、修行していない人と全く同じになる。 これを「利他上の悟了同未悟」という。 人間の社会生活に於いては、「人間と人間が自然につながるもの」がある。 この人間と人間をつなぐもの、これを「一点無縁の慈悲」という。 この「自他不二」の形を示せば、「合掌」です。 自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。 禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。 この話をかつて持田盛二先生にしたら、「小川さん、剣道でそこへ行けるかも知れない」と。 先生のご心境は高い。 ここが最高の十段位です。 こちらが本当に『慈悲の心』になりきっておれば、相手も『慈悲の心』を起こして、斬れなくなってしまう」ということを言っているのです。 剣道でも本当にそういう構えで対すれば、相手が打てなくなってしまう。 これが最高の修行ですから、平素からこの心掛けで修行することが肝要です。』
『 西村コメント 『自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。 禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。』
かって京都で若々しい清々しい剣道をする青年と稽古をしたことがある。 面の中でニコニコしているのである。 何とも始末が悪い。 ニコニコしている相手に打って出る事は出来ないのだ。 困ってしまった! 終盤になって彼はキッとした表情で打ってきた。 すると西村は何のためらいも無く切り取った。
このような不思議な稽古をしたのは、西村の剣道人生で後にも先にもこの一回きりであった。 彼は幼少期に本当に人から愛されて育った人なのかと思った事だった。 (それとも、全く逆の育ち方をしたのか?・・・いまだにわからない) 以後、彼との稽古で、押しても引いても、誘っても乗って来ない。 御見合い状態・・『相抜』になってしまう。 以後、彼の稽古を観ていると、八段範士、八段教士とも同じ稽古をしている。 相手がこの状態を打破症と強引に二段三段と攻め込んで来たときは、その強引さに負けるのではなく、相手の意志を尊重して打たれてあげている。
ある範士八段との稽古ぶりをある山梨の人が言った。
西村先生は範士の起こりを素早く小手に取り、相手がそれに気づかずに後打の面を打ってきた時、相手にせず知らん顔をしている。 このとき、範士は小手を打たれた事すら気づかず、「俺に何本面を打たせれば気が済むのだ!」と西村に言った。・・・この範士、自分が先に打たれた事を本当に判っていないのだ。
誰でも知っている剣道連盟の中枢にいる範士だ。 いつ観ても、品のない向こう意気の強いだけの剣道をしている。
さて、同じ範士とこの青年が稽古をした。 同じ様に小手を先に取っている。 その後、強引な打に打たれてあげている・・・・人が良い剣道だ!
彼が言った「西村先生は小手を取った後、相手の強引な打に知らん顔をして、相手にしていない。島野は人が良いから打たれてあげている!」
西村は強引な攻めや打をしないから、稽古をすれば御見合い状態だ。 彼は人が良いから、最後には打ち込んで来て西村に打たれて終わる。 誠に人間が出来た人だ。
ここまでが前置きです。』
『2004/1/15 次は久し振りに野正先生と稽古をした。 先生と一度稽古をしたときは、気争いで先生が「参った!」といわれ蹲踞された。 二回目は西村の足が痛くて稽古にならなかった。 今日は三回目だ。
野正先生と賀来先生先生の立ち合いを十分検証している。 さらに、その時のやり取り、心の状況を賀来先生から直接聞いている。
しっかり間合を取ったところから、体を軽く沈め攻めた。 先生はそれを嫌ってわずかに引いた。 ここまで、賀来先生の攻め通りだ。 その後 西村の面が数本入った。 いよいよ最後だ、先生の裏からぐっと攻め入った。 先生は軽く巻くように西村の竹刀を押さえる。 ここをスッと抜いて体を大きく、先生を上から被るように大きなゆったりとした面を打つ。 これが見事に入る。 先生が参ったと蹲踞された。 この部分は京都大会での賀来先生との立ち合いの再現そのものだった。
虎の巻き持参で野正先生との稽古だった。 相手が読めれば大先生にも良いところが入る。
稽古の後、挨拶に行くとニコニコして握手をされた。 直ぐ横の原田源次先生先生の方を見ながら、原田系統は皆強いや! 体から打って出るものなあ! と誉めて頂いた。 体は関係の無い、気攻め、読みあいの稽古だった。 虎の巻を持っていた分だけ、西村の歩が良かった。』
『さて、虎の巻とは何か? 前年度の京都大会で賀来先生と野正先生が立ち合いをされた。 それを西村は直に観ていた。 剣道雑誌でこの立ち合いについて解説、評論が載っていた。 西村の解釈とは違うのだ。 そこで、ある時、西村の解釈を賀来先生に直接話した。 西村の解釈が正しかった。 その後、賀来先生がそのときどう考えていたかを聞いた。 『俺が攻めた!あいつは下がりよった!下がられれば打てないわな! あいつは気が強いそこをついた。 裏から相手の竹刀を押し上げる様にあげた。 気が強いから押さえに来た。 そこを軽く浮木の原理でかわし、面を打った。 それだけのことじゃよ!』 西村はこの虎の巻を持って野正先生に臨んだ。 それをそのまま実行した。 剣道は相手を知り、相手が読めれば、その裏をかけば、相当腕の差があっても何とかなる・・・ということだ。』
『2005/12/24 田伐先生 昨日、賀来先生と稽古して呼吸の大切さを教えて頂きました 原田先生も同じようなことをおっしゃってましたよね… 西村コメント 呼吸は結局自分の意識の反映の様な気がします。 息を吐きながら呼気で攻め続けるとき、十分合気になって相手の打ち気が強くなったとき、相手の気を吸うように吸気に転ずると、相手は攻めの緩みと勘違いして打ってくるようです。 自分も相手の方へふらっと体を預ける様な感じになります。 心が死を覚悟してこの様に前に出れば、時として夢想剣・神妙剣の様な打ちが出たことがあります。 何度かこの経験があります。』
『2006/1/16 未発と起発 無意識が面を打とうとすると、未発が見える。 かって、賀来先生に見事な小手を何本も打たれた。 足も手元も全く動いていない。 しかし、行くぞ!と、スーッとわずか5センチ程腰の位置が前に出た瞬間だった。 この瞬間、先生の剣先は西村の小手をとらえていた。 これは京都大会でも範士八段の先生が同じように打たれていた。 西村がスッと腰を出したのも、賀来先生の攻め(未発の動き)に起されて、負けじと気当たりしたような気がする。 こんな話だと闇の世界に入ってしまう・・・ので、西村流の説明。 無意識が面を打つと決めると、 友意識が起発する為の予備動作が体内の奥から既に起こり始めている。 それは腰の備えであったり、やや重心を沈め床をつかみ蹴る準備をするとか、小胸を出して胸を開き、両肩を後ろに引き、肩甲骨を引き、後は肩を前に出せば、竹刀を押し上げる準備をしている。 右足の膝は緩み重心が既に前方に緩く滑落し始めている。 この予備動作は一瞬に起こるのではなく、起発へとつながる一連の筋肉の連動なのだ。 それは腰の中央の丹田付近から発せられる。 大きな動きに備え姿勢維持とそこから上下に発せられて動きとなるからだ。 この動きの始まりが『静止』からの動きならば瞬時にそれは行えるし、『停止』状態からだと、この一瞬に静止の状態、ニュウトラルに戻す必要がある。 身体に適度な緊張感の中、いつでも動ける状態を『静止状態』という。 左かかとがベッタと床に着いた状態(右足の場合が多いが)は身体の動的緊張状態が抜け、姿勢維持のみの平衡感覚的な筋肉となっている。 西村がよく言うのだが『身体が休めをしている!』 これは左手元の状態にも言える。 西村コメント ここでのポイント 『静止と停止』 この言葉の違いを知らずに、稽古の最中に試合の最中に停止をしてから面を打とうとする人が多い。 一呼吸遅れての動きになる。』
『2006/5/8 剣道上達の大切なことは、コツ、秘訣、秘伝を教わるか、盗む事なのだ。 『稽古をすればするほど癖が強くなり下手になる。』 賀来先生の言葉だ! 千代田で見ても足から攻め入って面を打つ先生はほとんど(数名)いない。 60人稽古をしていても1/20程度なのだ。 今回出版された本を読んで、西村の過去の書き込みと比べて欲しい。 言わんとする事は西村と同じだと思う。 2006/9/8 賀来先生の朝稽古 飄々として、相手の打ち間に入っていく。 相手は打つしかない! この賀来の入り鼻にどう対処するべきか。 結局は竹刀ではない。 自分の位を下げないことだけの様な気がする。 ヒョイと出てくればヒョイと出る。 先生の左手が上がるのを待つか? 難しいのは、出てきながら左拳を下げ竹刀の先を上げ加減にくる。 こちらが竹刀を動かせば、先生はそこを受けるか取りに来る。 我慢・辛抱・居つきのない自然体に任せれば(反射)道が開けるかもしれない。 一昨年、夏の稽古で先生のこの攻めは入りに、西村は思わず小手面を打っていた。 このときは見事に入り褒められた。』
『22006/5/17 田伐さんの書き込みより 14日に賀来先生とお会いする機会を得ました その中から… 「高度な技術はなかなか伝え難く、又、絶えやすい運命を有していると言われる 人間形成の道としての平和な時代の剣道は必然、巧みさを争う方向へ流れ易く、 古人が求めた術とはほど遠いものになってしまうのではないか…」 とのことでした
ちなみに、今年の演武は「不動心」だったそうです お話を聞いて 「ほぉ?・・・」 でした!』
『2004/8/10 岡本先生の書き込みより 確かに自分はまだまだ当てるだけの剣道なのだと再認識致しました。 「身体で打ち切る」ということを、目で見て、実体験してよくわかりました。実際に身近に見本があって具体的に理解できるということは誠に有難いことだと感謝の気持ちで一杯です。 今後の課題として精進していきます。
帰りの列車で、賀来先生と偶然一緒になりました。 「今日最後西村先生と稽古なさっていましたが、西村先生は難しいですよね」と尋ねました。 すると賀来先生は、ニコニコした素晴らしい笑顔で「全部見える。すべてわかっている」とお答えになりました。そのレベルというかは自分には到底わかりませんが、凄いを通り越してそういった世界もあるのかなあと不思議な気持ちになりました。
三条先生との稽古は良い参考になったでしょう。 手で打ってはいないですよね! 身体全体で打ちきっていますよね! あなたにこの気迫が備われば、そのとき既に七段です。
私が岡本先生の全てがわかっている様に、賀来先生から見れば、西村の全てがお見通しと言うことです。
西村が先生に言いました。 『先生!間合は結局のところ、自分の心の余裕ですね。」 と言うと。 賀来先生 「そうだ!」と言われました。
『全部見える。すべてわかっている』 賀来先生は何も考えていないのですね。 自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。 そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。 西村コメント この頃は賀来先生が霧の中に立っている様な感じで稽古をして頂いていました。 その2年後は西村も成長をいたしました。』
『2006/8/7 ある八段を目指す先生が言った。 「賀来先生には何時打たれるのか分からない!」と嘆いていた! 西村が言った。 「それは心を手玉に取られたからだ!」
奇跡的な超能力的経験が西村には常識の世界なのだ。 この世界に比べれば、相手と対峙した剣道ではもっと相手を理解しやすい。 相手の心は体にありありと表現されているからだ。 剣道をしながら相手の心の奥が見えてくる。
さて、久しぶりに賀来先生にお願いした。 実はお願いしたのではなく、先生と心の対話を体と竹刀で語りあったのだ。 皆様!先生の「打て!」の合図で打っている。 先生は相手が動作に入りかけると、既に体は右に開いている。 いないところを打たされているのだ。 西村の番になった。 先生とは約二年ぶりかと思う。 先生お得意の内小手を軽くいただく。 それで、剣先の位置を少しあげる。 以後打たれない! 先生が「打て!」と合図をする。 西村は喜んでそこに嵌まってあげる。 スッと打つような感じで体を出すのだ。 しかし、竹刀は動いていない。 先生は面に来る事を予測し、既に面を止めようと手元が上がっている。 そこの小手は取れる。 西村の竹刀が後から動くから対処が出来るのだ。 今度は小手面と行くと案のじょう上手く止められる。 しかし、小手から面の動きに一テンポずらすと面が入る。 止めようとした竹刀が降りかけた所を打つのだ。 ふーっと合い気なると、今度は先生のお得意の面が来る。 そこは分かっているから胴に返せる。』
『先生と思わずに、ただ波動の意識で語り合えば、先生の合図に乗ってあげる。 先に体を出し、面を緩めると先生の心が面に動く。 要は語り合いの世界なのだ。 西村コメント 賀来先生と剣道をすれば全く歯が立たない、全て西村を見透かしてしまうからだ。 では、西村が命がけで修行をして来た心の世界、意識波動の世界、念力の世界、奇跡の世界・・・これらの集大成で臨めばどうか? 『剣道をする訳ではない。波動の意識で語り合えば、心の対話をすればどうか?』 何とかなるのだ!』
『前日の昼、数時間かけて纏めようと思ったが出来なかった。 その後、朝まで思いが燻るので出来る範囲で書く事にする。 勝った負けた、当たった、打たれたに捕われる人に興味の無い話だが、剣道を吸う齲十年修行して来て、それなりに思う所がある高段者には更なる世界への道しるべになるかもしれない。 田伐さんのお陰で秘蔵映像シリーズに出会い、師匠・原田先生と賀来先生の立ち合いを映像で再認識する機会を得た事は千載一遇のチャンスであった。 賀来先生が、西村に剣道たるものの意味を皆様に伝える様にとの配慮だったと思い再び書く事にする。 原田先生が目指したものより一段高く、崇高な世界の様な気がします。
禅の世界の究極の修行を通して到達する処。 小川忠太郎先生の教え・・・相手と『不二』の境地。 賀来先生はこの境地で剣道をされていた事がようやく西村にも理解が出来た。
ある所より抜粋 「人間社会の形成」、即(すなわ)ち「事理相忘」、「自他不二」。 これが剣道修行の大目的であります。 「事理相忘」というのは、修行をし抜いて、一切をやり切って、修行していない人と全く同じになる。 これを「利他上の悟了同未悟」という。 人間の社会生活に於いては、「人間と人間が自然につながるもの」がある。 この人間と人間をつなぐもの、これを「一点無縁の慈悲」という。 この「自他不二」の形を示せば、「合掌」です。 自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。 禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。 この話をかつて持田盛二先生にしたら、「小川さん、剣道でそこへ行けるかも知れない」と。 先生のご心境は高い。 ここが最高の十段位です。 こちらが本当に『慈悲の心』になりきっておれば、相手も『慈悲の心』を起こして、斬れなくなってしまう」ということを言っているのです。 剣道でも本当にそういう構えで対すれば、相手が打てなくなってしまう。 これが最高の修行ですから、平素からこの心掛けで修行することが肝要です。』
西村コメント 『自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。 禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。』
かって京都で若々しい清々しい剣道をする青年と稽古をしたことがある。 面の中でニコニコしているのである。 何とも始末が悪い。 ニコニコしている相手に打って出る事は出来ないのだ。 困ってしまった! 終盤になって彼はキッとした表情で打ってきた。 すると西村は何のためらいも無く切り取った。
このような不思議な稽古をしたのは、西村の剣道人生で後にも先にもこの一回きりであった。 彼は幼少期に本当に人から愛されて育った人なのかと思った事だった。 (それとも、全く逆の育ち方をしたのか?・・・いまだにわからない) 以後、彼との稽古で、押しても引いても、誘っても乗って来ない。 御見合い状態・・『相抜』になってしまう。 以後、彼の稽古を観ていると、八段範士、八段教士とも同じ稽古をしている。 相手がこの状態を打破症と強引に二段三段と攻め込んで来たときは、その強引さに負けるのではなく、相手の意志を尊重して打たれてあげている。
ある範士八段との稽古ぶりをある山梨の人が言った。
西村先生は範士の起こりを素早く小手に取り、相手がそれに気づかずに後打の面を打ってきた時、相手にせず知らん顔をしている。 このとき、範士は小手を打たれた事すら気づかず、「俺に何本面を打たせれば気が済むのだ!」と西村に言った。・・・この範士、自分が先に打たれた事を本当に判っていないのだ。
誰でも知っている剣道連盟の中枢にいる範士だ。 いつ観ても、品のない向こう意気の強いだけの剣道をしている。
さて、同じ範士とこの青年が稽古をした。 同じ様に小手を先に取っている。 その後、強引な打に打たれてあげている・・・・人が良い剣道だ!
彼が言った「西村先生は小手を取った後、相手の強引な打に知らん顔をして、相手にしていない。島野は人が良いから打たれてあげている!」
西村は強引な攻めや打をしないから、稽古をすれば御見合い状態だ。 彼は人が良いから、最後には打ち込んで来て西村に打たれて終わる。 誠に人間が出来た人だ。
ここまでが前置きです。
2004/1/15 次は久し振りに野正先生と稽古をした。 先生と一度稽古をしたときは、気争いで先生が「参った!」といわれ蹲踞された。 二回目は西村の足が痛くて稽古にならなかった。 今日は三回目だ。
野正先生と賀来先生先生の立ち合いを十分検証している。 さらに、その時のやり取り、心の状況を賀来先生から直接聞いている。
しっかり間合を取ったところから、体を軽く沈め攻めた。 先生はそれを嫌ってわずかに引いた。 ここまで、賀来先生の攻め通りだ。 その後 西村の面が数本入った。 いよいよ最後だ、先生の裏からぐっと攻め入った。 先生は軽く巻くように西村の竹刀を押さえる。 ここをスッと抜いて体を大きく、先生を上から被るように大きなゆったりとした面を打つ。 これが見事に入る。 先生が参ったと蹲踞された。 この部分は京都大会での賀来先生との立ち合いの再現そのものだった。
虎の巻き持参で野正先生との稽古だった。 相手が読めれば大先生にも良いところが入る。
稽古の後、挨拶に行くとニコニコして握手をされた。 直ぐ横の原田源次先生先生の方を見ながら、原田系統は皆強いや! 体から打って出るものなあ! と誉めて頂いた。 体は関係の無い、気攻め、読みあいの稽古だった。 虎の巻を持っていた分だけ、西村の歩が良かった。
さて、虎の巻とは何か? 前年度の京都大会で賀来先生と野正先生が立ち合いをされた。 それを西村は直に観ていた。 剣道雑誌でこの立ち合いについて解説、評論が載っていた。 西村の解釈とは違うのだ。 そこで、ある時、西村の解釈を賀来先生に直接話した。 西村の解釈が正しかった。 その後、賀来先生がそのときどう考えていたかを聞いた。 『俺が攻めた!あいつは下がりよった!下がられれば打てないわな! あいつは気が強いそこをついた。 裏から相手の竹刀を押し上げる様にあげた。 気が強いから押さえに来た。 そこを軽く浮木の原理でかわし、面を打った。 それだけのことじゃよ!』 西村はこの虎の巻を持って野正先生に臨んだ。 それをそのまま実行した。 剣道は相手を知り、相手が読めれば、その裏をかけば、相当腕の差があっても何とかなる・・・ということだ。
2005/12/24 田伐先生 昨日、賀来先生と稽古して呼吸の大切さを教えて頂きました 原田先生も同じようなことをおっしゃってましたよね… 西村コメント 呼吸は結局自分の意識の反映の様な気がします。 息を吐きながら呼気で攻め続けるとき、十分合気になって相手の打ち気が強くなったとき、相手の気を吸うように吸気に転ずると、相手は攻めの緩みと勘違いして打ってくるようです。 自分も相手の方へふらっと体を預ける様な感じになります。 心が死を覚悟してこの様に前に出れば、時として夢想剣・神妙剣の様な打ちが出たことがあります。 何度かこの経験があります。
2006/1/16 未発と起発 無意識が面を打とうとすると、未発が見える。 かって、賀来先生に見事な小手を何本も打たれた。 足も手元も全く動いていない。 しかし、行くぞ!と、スーッとわずか5センチ程腰の位置が前に出た瞬間だった。 この瞬間、先生の剣先は西村の小手をとらえていた。 これは京都大会でも範士八段の先生が同じように打たれていた。 西村がスッと腰を出したのも、賀来先生の攻め(未発の動き)に起されて、負けじと気当たりしたような気がする。 こんな話だと闇の世界に入ってしまう・・・ので、西村流の説明。 無意識が面を打つと決めると、 友意識が起発する為の予備動作が体内の奥から既に起こり始めている。 それは腰の備えであったり、やや重心を沈め床をつかみ蹴る準備をするとか、小胸を出して胸を開き、両肩を後ろに引き、肩甲骨を引き、後は肩を前に出せば、竹刀を押し上げる準備をしている。 右足の膝は緩み重心が既に前方に緩く滑落し始めている。 この予備動作は一瞬に起こるのではなく、起発へとつながる一連の筋肉の連動なのだ。 それは腰の中央の丹田付近から発せられる。 大きな動きに備え姿勢維持とそこから上下に発せられて動きとなるからだ。 この動きの始まりが『静止』からの動きならば瞬時にそれは行えるし、『停止』状態からだと、この一瞬に静止の状態、ニュウトラルに戻す必要がある。 身体に適度な緊張感の中、いつでも動ける状態を『静止状態』という。 左かかとがベッタと床に着いた状態(右足の場合が多いが)は身体の動的緊張状態が抜け、姿勢維持のみの平衡感覚的な筋肉となっている。 西村がよく言うのだが『身体が休めをしている!』 これは左手元の状態にも言える。 西村コメント ここでのポイント 『静止と停止』 この言葉の違いを知らずに、稽古の最中に試合の最中に停止をしてから面を打とうとする人が多い。 一呼吸遅れての動きになる。
2006/5/8 剣道上達の大切なことは、コツ、秘訣、秘伝を教わるか、盗む事なのだ。 『稽古をすればするほど癖が強くなり下手になる。』 賀来先生の言葉だ! 千代田で見ても足から攻め入って面を打つ先生はほとんど(数名)いない。 60人稽古をしていても1/20程度なのだ。 今回出版された本を読んで、西村の過去の書き込みと比べて欲しい。 言わんとする事は西村と同じだと思う。 2006/9/8 賀来先生の朝稽古 飄々として、相手の打ち間に入っていく。 相手は打つしかない! この賀来の入り鼻にどう対処するべきか。 結局は竹刀ではない。 自分の位を下げないことだけの様な気がする。 ヒョイと出てくればヒョイと出る。 先生の左手が上がるのを待つか? 難しいのは、出てきながら左拳を下げ竹刀の先を上げ加減にくる。 こちらが竹刀を動かせば、先生はそこを受けるか取りに来る。 我慢・辛抱・居つきのない自然体に任せれば(反射)道が開けるかもしれない。 一昨年、夏の稽古で先生のこの攻めは入りに、西村は思わず小手面を打っていた。 このときは見事に入り褒められた。
22006/5/17 田伐さんの書き込みより 14日に賀来先生とお会いする機会を得ました その中から… 「高度な技術はなかなか伝え難く、又、絶えやすい運命を有していると言われる 人間形成の道としての平和な時代の剣道は必然、巧みさを争う方向へ流れ易く、 古人が求めた術とはほど遠いものになってしまうのではないか…」 とのことでした
ちなみに、今年の演武は「不動心」だったそうです お話を聞いて 「ほぉ?・・・」 でした!
2004/8/10 岡本先生の書き込みより 確かに自分はまだまだ当てるだけの剣道なのだと再認識致しました。 「身体で打ち切る」ということを、目で見て、実体験してよくわかりました。実際に身近に見本があって具体的に理解できるということは誠に有難いことだと感謝の気持ちで一杯です。 今後の課題として精進していきます。
帰りの列車で、賀来先生と偶然一緒になりました。 「今日最後西村先生と稽古なさっていましたが、西村先生は難しいですよね」と尋ねました。 すると賀来先生は、ニコニコした素晴らしい笑顔で「全部見える。すべてわかっている」とお答えになりました。そのレベルというかは自分には到底わかりませんが、凄いを通り越してそういった世界もあるのかなあと不思議な気持ちになりました。
三条先生との稽古は良い参考になったでしょう。 手で打ってはいないですよね! 身体全体で打ちきっていますよね! あなたにこの気迫が備われば、そのとき既に七段です。
私が岡本先生の全てがわかっている様に、賀来先生から見れば、西村の全てがお見通しと言うことです。
西村が先生に言いました。 『先生!間合は結局のところ、自分の心の余裕ですね。」 と言うと。 賀来先生 「そうだ!」と言われました。
『全部見える。すべてわかっている』 賀来先生は何も考えていないのですね。 自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。 そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。 西村コメント この頃は賀来先生が霧の中に立っている様な感じで稽古をして頂いていました。 その2年後は西村も成長をいたしました。
2006/8/7 ある八段を目指す先生が言った。 「賀来先生には何時打たれるのか分からない!」と嘆いていた! 西村が言った。 「それは心を手玉に取られたからだ!」
奇跡的な超能力的経験が西村には常識の世界なのだ。 この世界に比べれば、相手と対峙した剣道ではもっと相手を理解しやすい。 相手の心は体にありありと表現されているからだ。 剣道をしながら相手の心の奥が見えてくる。
さて、久しぶりに賀来先生にお願いした。 実はお願いしたのではなく、先生と心の対話を体と竹刀で語りあったのだ。 皆様!先生の「打て!」の合図で打っている。 先生は相手が動作に入りかけると、既に体は右に開いている。 いないところを打たされているのだ。 西村の番になった。 先生とは約二年ぶりかと思う。 先生お得意の内小手を軽くいただく。 それで、剣先の位置を少しあげる。 以後打たれない! 先生が「打て!」と合図をする。 西村は喜んでそこに嵌まってあげる。 スッと打つような感じで体を出すのだ。 しかし、竹刀は動いていない。 先生は面に来る事を予測し、既に面を止めようと手元が上がっている。 そこの小手は取れる。 西村の竹刀が後から動くから対処が出来るのだ。 今度は小手面と行くと案のじょう上手く止められる。 しかし、小手から面の動きに一テンポずらすと面が入る。 止めようとした竹刀が降りかけた所を打つのだ。 ふーっと合い気なると、今度は先生のお得意の面が来る。 そこは分かっているから胴に返せる。
先生と思わずに、ただ波動の意識で語り合えば、先生の合図に乗ってあげる。 先に体を出し、面を緩めると先生の心が面に動く。 要は語り合いの世界なのだ。 西村コメント 賀来先生と剣道をすれば全く歯が立たない、全て西村を見透かしてしまうからだ。 では、西村が命がけで修行をして来た心の世界、意識波動の世界、念力の世界、奇跡の世界・・・これらの集大成で臨めばどうか? 『剣道をする訳ではない。波動の意識で語り合えば、心の対話をすればどうか?』 何とかなるのだ!
2007/5/31 賀来先生の妙技
本当に上手い!こんな仙人の様な技は賀来先生の境地だ! (しかし、西村はその裏をかく妖術がある、)
相手を呑んでいる。 井上先生の重厚な構えもなんのその、竹刀を使って少し反応を試している。 スッと左足を右足に付けて次の準備をする。 右膝を緩めふわりと体を沈め、この時、身体全体は宙に浮いた感じで、相手の反応を待っている。 さらに、なおかつ頭は行くぞと合図をする。 相手がこれに反応したら打つだけなのだ。 相手が面と思えば手元が上がるから、上がり鼻を小手に取る。 打たれてみると判るが、右手がピクッとした瞬間はすでに打たれている。 これは何年も前の井上先生との対戦も同じだった。 西村も散々打たれました・・・どうして打たれたか全く判らないのだ。 ずいぶん昔の掲示板に出しました。 先生はこの小手を、面に跳んで伸ばして打つ。 古川先生に打った、西村のビデオに撮らせる為に三本の面だ。
賀来先生がまんまと小手を井上先生から取っている、同じ裏をかくのだ。 こうなるときつねとたぬきの化かし合いか、相手の心を読んでその先の手を打つ。 これは昨年の夏の賀来先生との稽古でした。
ともかく、ふわりと相手の白刃の下にサラッと身を置く! 打つ前に自分の頭を餌に呼び込み、左拳は虎視眈々とその時を狙っている。 これが懸かりの中の待なのだ! 『懸中待』 このような味のある立ち会いは少ない。』
『送る車中で 原田源次先生に賀来先生と井上先生の立ち会いを話した。 ある意味見事な一語で井上先生の弱点を突いた。 賀来はそこを見事に逆手にとったのだ。 動きではなく、心の奥が見えれば勝負は終わりなのだと判った。
西村コメント 今の西村の対処法 西村はこの時、打ちに出ません。 体を進め反応するだけです。 左手は納めたまま! 次は先生が困ります。 おそらく来た!と先生が受けに回り返す・・・摺り上げ面が多いが・・ 先生が左拳で竹刀を先に動かせば、浮いた小手を取るのは易しい。
2007/7/1 賀来俊彦範士の記事から
最近、西村の書き込みは『心法』の部分が多いですが結局これにつきるのです。 これに至技術的なところは機会を変えて書きます。 賀来先生談 『敵はわれにあり われに克は腹を作れ』
『最近になって攻め勝つとは相手ではなく、究極的には自分に克ことではないかと思うようになりました。』
『打ちたい、勝ちたいという気持で稽古をしても上達していかないと思います。 素直、謙虚、思いやりの心をもって相手と和することが大事ではないでしょうか。』
賀来先生が持田先生からいただいた言葉 『打つな、打たれなさい。 相手と仲良く和やかに、姿勢は美しく、匂うがごとく残心を』
西村コメント 何と見事な教えでしょうか!』
『2007/9/23 賀来先生 「西村、俺はなあ!先生に居ない所を打たされていたんだよ!』 見せられて、引き出され、有ったはずの所を打ちに行っていた。 竹刀が動き始めた瞬間、見せられたものはそこには無い。 見た物を打ちに行ったのであって、見たその瞬間から、そのものはそのままでは無かったのだ。 そこに気がつかなかったのだ。 西村コメント ここに気がつけば剣道は大きく変わるのだ。 『見せて、引き出し、そこが貴方の弱い所ですよ、欠点ですよと、教育的打突をしてあげる。』 これが元立ちの心がげなのだ!
2007/11/4
今回の最大の記事です。 『原田源次先生と賀来先生との立ち会い。 原田源次先生が大きな面を打ちました。 賀来先生はピクリとも動きませんでした。 面に来る竹刀を受けようともしませんでした。 西村的には賀来先生の居つきと判断をしました。 西村的には、原田源次先生の大きな面が二本決まったと大層嬉しい思いをした一戦でした。 しかし、原田源次先生が会場を出てきての一声は全く逆でした。 「今年の賀来先生は凄い!動じない!」でした。 相手が動じないのに打ってしまった自分の負けを認めた声でした。 剣道は奥が深い・・・・と感じた一瞬でした。 この時、動じない相手に打ってしまった時、それは心の世界では負けを意味することだと知りました。』
これが、その時の西村の理解です。 その後、今回観た感想ではずーっと奥が見えました。 賀来先生は『師の位』で原田先生と向かい合っていた・・・です。』
『2008/2/3 カゲロウの様な緩みから打つ。 先日の木曜日カゲロウの様な揺らぎ・・・・どこかで感じた事があるのに気がついた。 ・・・・そうだ、賀来先生の緩やかな・搖やかな構えの雰囲気を思いだした。 相手の心が動いた瞬間に誘い込むように、手元をヒョイと引きながら、ポッと体を出して小手を打つ。 あの雰囲気に似ているのだ。 猫が得物を狙っている時、お尻をモゴモゴとその瞬間に備えているような雰囲気だ。
2008/1/5 賀来先生の桐の木刀の話しを思い出し、帰り道に尚武堂に寄って、二天一流の軽いペラペラに近い樫の木刀を買った。 これを少し振ってみたら、普通の竹刀と同じ手の動きで振れた。 西村は竹刀が重くても、軽くても、持っていなくても同じ様に手が動く。 今日は重さを全く感じない極端に薄い木刀で素振りをした感触を大切にして稽古をしてみようと思った。
重い竹刀も軽く使える様になった。・・・スピードには少し難が有るが! 軽い竹刀を重く遣う、かつ切れ味鋭い振りの稽古を始めようと思った。 それは手が動けば竹刀が動く、竹刀の重さを全く意識しない稽古だ。
賀来先生のい言葉の書き抜き。 『桐の木刀は軽すぎて構えても無駄な力が入らず、手の内が自然に納まります。 素振りをしても全く力を用いないで、左手で円を描くように振ることが出来ます。 この感覚を念頭から見失わない様に竹刀の操作を修練すると、右手打ちの弊害も完全に解消して心も平静になってきます。 まさに『手の内の出来たる人の取る太刀は、心にかなう働きをなす。」と いうところへ到達すると思います。』
『2008/2/11 今回は賀来先生の2002/3剣道時代の『審査員の目』を考察してみましょう。 『竹刀は握らずに自然に持てば良い。』 『打とう打とうという思いからつい握ってしまう。 それが右手打になってしまう。 自然に持ったままで打てばよい。 それは相手と争わない気持になることではないか。』 『軽い桐の木刀で構えて振ってみた。 右手打ちの弊害も完全に解消し、心も平然となってきた。 要は竹刀の振りかぶりを右手の引き手であげようとする動作です。 賀来先生はこれらを『力を抜くこと、相手と和する心』解決された様です。 意識の変革で全てが変わるということです。
西村コメント 形を変える、動きを変えるには、その奥の変えるべき所を教わっておく必要がある。』
『2009/2/20 岡田先生の書き込みより 西村先生、ご無沙汰です。 いつもありがとうございます。
早速ですが、賀来先生、この前(2月2日)京都の稽古会の後、いつもの駅まで送る車の中でいみじくも言っておられました。 「みんな考えて打っているわい・・」「どこをどう打とうとかなぁ・・・」 さすがですね西村先生、おっしゃるとおりですね。 賀来先生との稽古は決して面白くはありません。しかし、わかった八段連中は必ず懸かっています。 ああいう範士が最近少なくなったようですね。その点、京都稽古会は求める者にはチャンスがあります。 ありがとうございました。
2008/2/20 賀来先生の打!その秘密。 以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。 賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。 さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。 それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。 賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。 井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。 (賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)
『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。
何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。 虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。 この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。 一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」 一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。 ということである。
賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。』
『西村コメント 犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。 自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。 一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。 剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。 成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。 自分に自信が無いとこの決断は難しい。 やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。 体は意識の変化を微妙に体現化している。 それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。 打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。 打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。 無意識が打つと決めれば ・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。 反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。
猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。 ネズミを捕まえる時も同じだ。 穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。
この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。 犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。 そこには及び腰的な構えがある。 猫は全く無防備だ! ただ捕まえることのみに意識がある。 それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが) 心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。 相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。 これには意識が関与しない。 相手にとっては色が全く見えない。』
『ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。 「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。 どちらの動きが速く強いかという問題である。 蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。 『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。 その為に『心と体の準備』が必要になる。 ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。 新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。 心の準備も身体の準備もいらない。 あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。
蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。 そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。
西村の再度のコメント どうですか? 貴方は相手をどのように感じて対峙していますか? 相手は熊ですか、犬ですか、蜂ですか、蠅ですか? 自分の思いで自分の動きは解放されもすれば規制されもするのです。 それ故『心法』の追求が、あるレベルあら重要になってきます。 上級者になれば身体的な動作の差は余りありません。 しかし、心の差は大きくあります。』
[新規投稿] [ツリー表示] [親記事一覧] [最新の記事を表示] [ログ検2014年12月30日(火) 賀来先生特集-2に入る前に
無想剣・神妙剣 ・・・頭の意識を抜いた内なる神、内なる無意識の世界に武術の真髄があるからだ。 これは、内田樹(つたる)先生の本から引用した過去記事を参照・ 心が動かないことを『不動心』と云う。 原田源次先生が西村にお前なら判るだろうと言って『不動智』なる厚手布に染め抜いたものを頂いた。 その数年前に先生から話を聞いた。 「不動心ではダメだ、不動智でなければならない。 心を丹田に納めるだけではなく、肚の底でころころ自由に転がして置く必要がある。 その赤い心の球が智として(叡知)働くから、いかなる時にも素早く対応ができる。」 この対応が人間の叡知の反射なのだ。
原田源次先生「手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!」 原田源次先生の手は条件反射の世界にあり、体の捌きも条件反射だからあの抜き胴が出来る。 原田源次先生「剣道は読みと反射だ!」と言われている。 武道はこの反射の世界で相手に対応するのだ。 しかし、この反射を妨げる物は脳が決めた強い指令系統なのだ。 その為この反射を最大限に生かすには、心を無にする必要がある。
小川先生 息を吐き続け踵に落とす、さらに踵から膝に戻すんだよ! このころには、息ができないから失神寸前で自分も相手の存在を忘れている。 ここへ相手が打ってくる(危害を加えようとする)、体の防御機構が勝手に働く。
打ってやろうとすると、脳が指令を発し無意識レベルで予備動作を起す。 そして、無意識の決定後しばらくして有意識が面を打つことを決断する。 ここにタイムラグがあることを皆様は御存知ない。 無意識の決定は体を通して相手にサインを出してしまった事になる。 高段者になると、相手のサインを読む能力が高い。 無意識レベルで打とうと思った時、既に相手は知っているから簡単に取られる。 だから、打ちに行くと云う事は斬られに行くことなのだ。 『古来より、剣道は先に打ち出した方が負けと決まっている。』黒田鉄山談 ではどうすれば良いか?
高校時代 大将戦だった。 時間いっぱいだった、気がつけば自分に旗が上がって勝っていた。 どうなったのか全く判らない。 後で聞くと、見事な抜き胴だったと聞く。 自分には全く覚えがなかった。 西村コメント 当時、私は面一本で、小手も胴も試合で打った事は全く無かった。 しかし、抜き胴を打っていた!
原田源次先生 ・見事に先生に面入った。 しかし、打とうと云う意識は全くなかった。 気がついたら面を打っていた。 ・先生と合気になり、ただひたすら息を吐き続けた。 意識が無くなりそうになった時、気がつけば先生に面が入っていた。 (原田源次先生に意識をもって面を打てたことは一度もない。) 西村コメント 前回、原田先生にお会いした時、先生が小川忠太郎先生から聞いた話を実戦した。 蹲踞から立って、只ひたすらゆっくりと息を吐いた、足の踵から息を吐いた。 ここからヒザに戻すんだよな!と閃いたところから、何も判らなくなってしまった。 失神寸前の状態だったんだろう。 自分が消えてしまった状態だったんだ!
賀来先生 ひたすら意識を宇宙と一体感になるだけに集中した。 ただ、ボーッと立っている状態だった。 気がつけば、先生得意の小手を摺り上げ面入っていた。 後で、賀来先生が言った 「お前は隙だらけだ!」 先生の前にただ立っていたら、先生が小手に危害を加えに来た。 先生が隙だと思ったのは西村が無になっていたからだ。 そこへ先生の勝手の都合で小手を打ちにきた。 それを無意識(叡知・内なる神)が防いだだけなのだ。 後は形として身に付いた動きが摺り上げ面を打っていた。 西村コメント 何をやってもダメならば、自分は先生の前に立っているが、宇宙と一体化し、自分を宇宙に溶け込ましてみようとそう思って、静かに息を吐き、唯突っ立っていただけだ。 前に賀来先生がいることすら忘れている状態だった。 賀来先生が言う様に隙だらけに違いない。 攻めも、打つ気も、守る気もない。 只木偶の坊(デクノボウ)の様に立っているだけなのだから。 しかし、先生の小手を摺上げに見事に面を打っていた。 ・・・打ったのではなく、気がつけば打っていた・・・なのだ! 参考 新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、 陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。
移香斎は指南の最後にこう言った。 「陰流の極めは、己を斬ることや。 難題やなあ。 斬れるか? 斬れまい。 暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」
2008/8/10 岡田さん、今日は賀来先生と盛岡でお話しをする機会が有りました。 「いつも三重の岡田がお世話になっています。」と話したら、最初は八段の岡田先生が頭に出てきた様でした。 「前よりチョット下がったなあ!」と言われました。 七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。 「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。 今日お伝えしたい事は賀来先生がこう言いました。 「送ってくれる30分間、質問をしょらん。色々聞けば教えたい事が有るのだが、いっこうに聞かないんだよ!時間が有るから聞けば良いのに。」 西村 「そうですね!いつも禅問答の様な話らしいですね。」 賀来先生 「何でも聞けばいいんだよ。」・・・との事でした。 次回稽古の帰りには具体的な質問をされてはどうでしょうか。 先生も御歳ですから、後何回質問のチャンスがあるかしれません。
最近の西村の剣道を話しました。 君には範士ぐらいとの稽古が面白いだろう。 もうそのぐらの腕になっている。 歯科医師の先生方も腕前をあげて来ている、その辺りの剣道を伝えて欲しい。 あなたの仕事だよと言われました。 以前の先生との稽古で上達を認められた様です。 八段を取らない事に御叱りを受けましたが・・・いずれその時が来るのを自然に待ちます。
西村コメント 『七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。 「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。』 賀来先生のお墨付きがあります、自信を持って受験して下さい。 2008/8/21 全日本選手権の記念大会で中倉清先生が日本を代表する選手と稽古を披露した。 中倉先生には全く歯が立たないのだ。 ビデオで中倉先生と当時大阪府警の首席師範との稽古を観た。 圧倒的に中倉先生の優位な稽古だった。 このことを佐藤博信先生に聞いた事がある。 現役の大阪府警の主席師範が何故手も足もでないのですか? それは力が相当差があるからなあ! 今の西村には十分理解が出来るが、当時そのことが疑問であった。 西村の剣道の理解レベルがその程度であったと言う事だ。
京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。 申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。 稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。 先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、 少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。
古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。 賀来先生が言った。 「西村がビデオで撮っている。 あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」
西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。 しかし、稽古ではこの通りなのだ。
2009/5/7 今回の京都ではある会で奈良の賀来先生のお話を聞くことができました、それはだいぶ違う剣道でした。
関根さんの剣道は一般的な剣道の上達とは違った形で伸びています! 肚が出来ている!と感じる剣道です。 相手の攻めに動じない肚があるので、西村もなかなか崩せません。 武道館で関根さんの剣道を時々見ていますが、剣技は元立の八段の方が上ですが、 肚の出来具合は関根さんの方がズーッと上です。 今回の稽古でも崩せない関根さんに西村も苦労をし、結局は攻めでは崩せませんでした。 西村の体を餌に釣り出すと心が動いた様です。 右に行くのは右手が強いか、体を捨てきっていないか、どちらかはわかりませんが検証をしてみて下さい。 関根さんの昔を知っている西村から見ると今は雲泥の差を感じます。 ある年齢になると剣技や体を鍛えるより肚を鍛える方が上達する様な気がします。
賀来先生の話の要約を聞かせて下さい。 お願いします。
なんか褒めて頂いて有難うございます。 肚のことは西村先生に一番教えていただいたことだと思います。 ただ、相手をただ舐めているような事にならないよう気を付けていきたいと思います。 賀来先生のお話は、霊とか宇宙の話から始まり中村天風の門をたたき8段審査に合格したこととか、剣道教士小関数政の九重の位、神武は殺さずを解説されました、内容は、腰骨を一つにすると自然ムの一穴に気治まりとか、緒家にては腹を張り気海丹田へ気を治むるなどと云う伝へあれど腹を張らんとすれば息迫り呼吸続ずして修行なり難し、とかのお話でした。 此の話は西村先生の考え方と同じではないでしょうか。
そうですか! 賀来先生も中村天風の教えで受かったのですか。
中村天風先生の面白い読み物があります。 結核を治したのは結局は心の変化だったのです。 インドでの瞑想で気がつかれました。 その経緯が本になっています。 護国寺に行けば天風先生の肉声のテープも手に入ります。 腹の底から響く先生の声に、西村の苦しい時は随分と励まされました。 皆様もこの方面へ意識を持って剣道に励まれることをおお勧めいたします。 剣道が本当におもしろくなるのは『心法』に興味を持った時からです。 西村の剣道観をお読みください。
西村コメント 天風先生の肉声のテープは心底心に響くものでした。 西村はこのテープを何度も聴いて(車の運転をするたびに流して聞いていました) 感謝しています。
2009/5/14 佐藤先生:賀来先生 これは見物でした! 先ず一番見て欲しいのは・・・・ 佐藤先生のスーッとゆっくり足から入り込む攻め入りです。 さすがに賀来先生手元が上がった。 賀来先生のお返しの、全く逆の場面もありました。 これも見事です! 佐藤先生が下からスーッと攻め入り面を見せ、賀来先生が動いた瞬間面を打つ。 相手の懐深くスーッと攻め入りながら、引き金は相手に引かす我慢、不動智が働くに任せる。 そのときスッと面を打つか、すりあげて面を打つかは自分で決めない! 相手に随がって打つ! 究極の技が見えます。 これは西村が書いた剣道観そのものの教本の様な立ち会いでした。 賀来先生がこのように打たれたのを初めて見たし、佐藤先生が同じ様なお返しを打たれたのも初めて見ました。
剣道というよりは、体を捨てて相手の心を観る!の実演でした。
これがまさに『無刀の位』の立ち会いです。
全剣連合同稽古会6/9
武道館に着く。 駐車場に入れる前に佐藤博信範師に出会った。 西村、車越しに先生に言った。 「先生!賀来先生との京都の立ち会いは良かったですね! 先生の本に書かれている通りの動きでしたね! 触刃の間からもう一つ入る!ですね。 さすがの賀来先生の手元も浮きましたね! その後の面も同じですね! しかし、賀来先生もさるもの、同じ手で先生を攻め小手を取りましたね。 剣道の醍醐味・真髄はここですね。 ここで自分を捨ててサーッと入る。 先生の本の通りでした。」 佐藤範師が言った。
追加 あれ!佐藤範師の顔が無い。 道場の右手の壁に座って稽古の様子を眺めていた。 少し顔がむくんでいたせいなのかと心配した。 帰り道場を出たところで先生に会った。 君にあったあと、少しめまいがしたので稽古を控えたそうだ。 先生が言った。 「原田先生の稽古ぶりをじっくり見たよ! 全く無駄な動きが無いよ! 見事だよ!」 車中、原田先生が言った。 「森島先生と話をしていた。 『合わせるのが上手いね!』と褒められた。 剣道は合わせるしかないものなあ!」
そういえば、福岡高校での初稽古の時、原田先生の次に元に立たれていた先生に、西村が言われた。 「あなたは合わせるのが上手いね!」 弟子は師匠に似た剣風になるのだろうと、ふーっと思った。 剣道は結局、合わせるしかない。・・・原田先生 触刃の間合いからスッと体を入れながら、相手の動きに合わせて打つ、ここしかないのだ。 『触刃の間合いからスッと体を入れる。』高段者の剣道(佐藤博信著) 結局は打つ前に死ぬ! 後は『智』に任せる! 剣道も人生も『極意』ここに尽きる!・・・・と西村は思うのだ。
武道館での稽古を見ても、意地の張り合い、打ち合い、叩き合い、フェンシング様剣道のオンパレードだ。 2005/5/24 最近の西村の剣道観 ・攻めて、緩めて誘って(身を捧げる『捧身』)相手に随って勝。 ・相手の誘いに乗ってあげて、身を捧げる『捧身』にて体に任せる。 ・活人剣、無刀の位です。 三橋先生曰く 剣道は『読みと反射だ!』 【読み】 西野悟郎先生、静岡の井上先生両先生共に・・・ 先生が面を見せて西村を誘う。 西村はそのお誘いに進んで体を出して面を打たんとする。 しかし、左手はしっかり懸中待、先生は面を来るものと信じて小手を打ってくる。 大先生といえども、小手に来ると分かっていればそれを捌くのは訳が無い。 軽く摺上げて面をいただくこと三本。 信じられないと思われるでしょうが・・・これが『読み』です。 相手の誘いに乗る勇気・『捧身』が必要です。
野正先生 先生の剣先を裏から体を入れんと身を捨てて押す。 先生はこれを強く押さえ込みに懸かる。 『浮木』の原理で、ヒョイッと剣先を返してゆっくり、しっかりと出かけていた体をさらにお大きく入れて大きな面を打つと見事に入る。 打たれた先生は大喜びで褒めてくれた。 これは賀来先生と野正先生との立ち会いで、賀来先生が出された技. 賀来先生 「攻めたら、あいつさがりよった、逃げた相手は打てんわなあ! そこで、あいつの性格を知っている。 裏から押し上げて攻めようとした、案の定強く押し返して来た。 気が強いからなあ!そこでヒョイッと剣先をかわして面だよ!」 西村「今度東京で野正先生に試してみます。」と賀来先生に言った。 虎の巻持参で野正先生と対峙した。
2009/8/22 『睡中抓痒処(すいちゅうそうようしょ)』 眠っている時でも手は勝手に痒いところを掻いたり抓ること。 意識が無くても身体は勝手に必要な事をしている。
ズーッと昔の話であるが、試合はそっちのけで賀来先生の話を半日聞いた事がある。 その話の中で「足が痒いのに頭を掻くやつは居ないわなあ!」との話を聞いた事がある。 「意識が無くても身体は勝手に必要な事をするもんだよ。」と説明をいただいた。 『睡中抓痒処』は伊藤一刀斉の伝えた言葉である。
『手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!』原田先生の言葉だ。
要は手の動きは自分の意識を超えた、内なる何らかの力が適切に対処している(これを反射と取るか、智と取るか、無想の動きとるか、神妙とるか、原始的防御機構、本能と取るかは自由である。頭の意識が作用していない一瞬の適切なる絶妙なる判断をして手を動かしている(体を動かしている)事を認識出来れば、剣道からの人間の探求も終わりに近づき、剣道もこれを知る事から、新たな人生への道を開く事が出来る。
さて、一刀斉がまだ弥五郎と名乗っていた時の事だ。 『天下一の剣』伊藤一刀斉(著 小島英記)の小説の一節を書き抜く。 本を買って是非お読みください。
『愛欲の地獄にこの数ヶ月はあったのだ。 いつか二人は、ドロドロした眠りのなかにいた。 そのとき、彼は顔に痒みを感じて、手で掻いた。 秋の迷い蚊に刺されたのである。 その瞬間、弥五郎は飛び起きた。 「これだ!」 「何なの!」 祐美が呆気にとられて見ていた。 天啓というべきだろう。 体が痒ければ、睡眠中の無意識の内にも、おのずと手は患部を掻いている。 そのように自然に剣も遣えばいい。』
この天啓が降りたあと、師の鐘捲(かねまき)自斉と対峙したとき。 自斉は呆れかえった。 「フーム、突然、お前には狐でもついたか?」そう呟いた。 「いえ、そうではありません。 ただ、先生が打とうとされると、それが私の心に映ります。 ただ、それに応じるだけです。 人間は頭が痒いと自然に手が頭に行くものです。 それと同じ事です。 この妙とは心の妙であって、先生から教えられるものではありません。」 弥五郎はすらすらと答えた。 彼は後に『睡中抓痒処』と伝えている。 無意識の行為は、激しい修行の果てに、ふいに現れたのである。 自斉の驚愕と感動こそ大きかった。 「でかしたぞ、弥五郎。 それは当流(中条流)に云う無相剣、すなわち形なくして万剣に通じる心、わしとて未だかってつかめぬ境地じゃ。 確かにお前は、わしを追い抜いた。」 』
どうです!面白いでしょう! 最近の西村の書いている事が剣豪小説の一節に上手に書かれています。 ・・・・読んでみましょう。
賀来先生との最後の稽古 前回は西村の小手面が決まりお褒めを頂いていた。 今回は先生と稽古をしている相手が、合図により引き出され捌かれていた。 西村の番になった時、先生はやはり面を打てとばかりに合図をされる。 西村はこのお誘いに乗って上げる。 先生は来たかとばかりに、対応しょうと左手を動かす。 西村の無意識はそれを見て適切に対応して、上がりかけた小手を打ち面に伸びる。 ゆっくりと申し合わせ稽古、形稽古の様に決まる。 周りで見ている人からすれば不思議な光景だ。
重複しますが重要な項目です。 無刀の位、無刀の境地は死ぬも生きるも超越した境地なのだ。 吾と天地が一体になった時、相手が自分に害を及ぼそうとした時、身体が勝手にそれに対応している。
あるとき、京都の朝稽古で賀来先生に稽古をお願いした。 自分が思えば先生に伝わっていることは知っている。 そこで、植芝先生の宇宙の中に溶け込む、天地自然と合一化を目指した。 賀来せんせいの前に竹刀を持って立っているが、先生を見ている訳ではない。 ただ宇宙の気を頭から取り入れ足から地に返しその循環を意識した。 前にいる賀来先生の存在すら意識が無い状態になった。 その時、賀来先生が打って来た小手を摺上げ面を打っていた。 面を打った瞬間に吾に帰ったのだ。 いつも出来る訳ではないが、西村は時々出来る。 賀来先生が後から言った。 「西村は隙だらけだ!」あれほどの先生でもその時の西村を隙だらけだと思い小手を打つと、西村の『智』に見事に摺上げられ面を打たれたのだ。 これは師匠との稽古で息を吐き続け目の前がくらっと暗くなった瞬間、先生の面を見事に打っていた経験が有る。 これと同じだ。
山岡荘八先生の柳生石船斎の本の一節を書いておく。 『人間は、人間を作った天地自然と合一化した時に、一つの不思議を顕現し得る力を持ている・・・』 いわゆる神妙剣の極意なのだ。
この状態に意識が変成したとき、信じられない動きが出来るのだ。
特集終わり 追伸 書いてある事は既に秘伝書、剣道教本に載っています。西村は自分を通してそれが身に付い て来た過程を書いています。 これが参考になって先生方の更なる成長に役立てれば幸いです。
何と今回の暮れから正月について書いて来た事が、西村剣道の実践編に多くが書かれているでしょう1
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