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- この掲示板の記事を失うは寂しい! - 西村雅興 [2018年6月11日(月)]
内田樹先生で検索した全文参考! - 西村雅興 [2018年6月11日(月)]
Re:この掲示板の記事を失うは寂しい! - 匿名で失礼いたします [2018年6月12日(火)]



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この掲示板の記事を失うは寂しい!
西村雅興
2018年6月11日(月)
ログ検索で【 内田樹 】で検索して欲しい!
その全てを読んで頂くと,剣道の本質が見えると思います。

自分で読み返しながら,この記事が消滅するのは寂しい思いがしました。
何とかこれらの記事を残せないか考えています。

検索をして読まれたら感想を書いて送って下さい。
西村
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内田樹先生で検索した全文参考!
西村雅興
2018年6月11日(月)
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この掲示板の記事を失うは寂しい!
西村雅興
2018年6月11日(月)
ログ検索で【 内田樹 】で検索して欲しい!
その全てを読んで頂くと,剣道の本質が見えると思います。

この記事を年代の若い順,後ろから全文を読んで下さい。
相当な量ですが心に深く染み込む何かがあると思います。
よろしくお願いいたします。
西村




自分で読み返しながら,この記事が消滅するのは寂しい思いがしました。
何とかこれらの記事を残せないか考えています。

検索をして読まれたら感想を書いて送って下さい。
西村
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気のやりとり!
西村雅興
2016年5月23日(月)
田伐さんへ

かなり長文ですがじっくり読んで、これからの剣道に役立ててください。
剣道の幽玄な世界は[ 心の押し合い、駆け引きで終わってしまう。竹刀はお飾りに過ぎないのだ!]
その意味で剣道も合気道も同じなんだ!


西村は相手と同調すると、西村の意識エネルギーが相手の体に入ります。
指のオーリングテストでは、相手の力を入れさすも、抜くも自在に出来ます。
前屈が硬くて前に屈めない人を、西村の意識エネルギーにて瞬時に緩め、10〜15センチくらい体を前に伸ばせる様に出来ます。

姫路の姉の腰痛を東京から電話を通じて、意識波動を送り軽くしたこともある。

これくらいは、西村の軽井沢セミナーで皆様出来る様に指導をしました。
西村の噛み合わせ治療、入歯の治療が抜群に優秀なのは、治療において念力、意識エネルギーを込めて治療しているからです。

さて、意識は物にも入れることが出来ます。
私の名刺を相手に持たせ、相手の気の流れが良くなる様に名刺に気を入れますと、相手の体はこの名刺を持つときと持たない時には変化が起きます。

今は無くなられましたが、義歯の治療の途中で、セコムの創始者で会長に(戸田寿一様)にこの方法をイニシエーションしました。
彼は30分で出来る様になりました。
彼はもともと『幽体離脱』が出来る感性の持ち主だったので、指導は簡単でした。

ここまでは意識エネルギー、念力の話です。

今年の正月の書き込みで松原先生の『気当て』の事を書きました。
合気道の世界では『遠当て』等と言っています。

さて意識エネルギーを相手に送る説明は難しいので、いつ出会った時に説明致します。
西村の周りには正真正銘の超能力者が5人くらいます。
信じられない神様と親戚のレベルの人達です。
これらは体験するしか、説明の方法が有りません。


ここまでは何時も前置きの長い西村の文章です。

ここからは理解しやすい表現と例を挙げます。

前にも書きましたが相手の体の指令系統に一瞬の空白を作れば、相手は無力化します。

◎一番簡単な方法は相手の肩を叩くと同時に、お尻の財布をスルのです。
 肩に意識が行った瞬間は他の部位は無防備です。
 これはスリの基本業です。

◎マジックの助手はすべて美人です。
 観客の目を引きつける為です。
 トリックを見破られない様に相手の注意を一点に引きつけるのが基本です。

◎相手に脳の一瞬の空白を作る。
 【剣道的に説明すると】
 一番判り易いのは『居着き』の状態である。
 どう対応して良いか意識が一瞬パニックになった状態。

 フェイント
 自分の予測と違う対応が必要になった瞬間、意識の切り替えの一瞬の空白が起き る。

 恐れ
 相手が出て来る勢いに心の目が閉じてしまって、一瞬空きめくらの状態。
 打って出たら胴に返されるのではないかと思って打てない状態。

 疑い
 相手の動きが面に来るか?小手に来るか?はたして本当に打ってくるのか?
 このように判断出来ず、脳が判断する事を放棄した状態。

以下ネットで調べて転用記載

リフラクトリー・ピリオド(脳の空白時間)をご存知でしょうか?簡単にいえば、「慣れてしまうと、脳が停止してしまう」という現象です。
リフラクトリー(refractory)とは、英訳でいうと「手に負えない,御しがたい,言うことをきかない」、ピリオド(period)は時期など、合わせて直訳すれば「不応期」ということになります。

先日、TV番組の「全力教室」でマジシャンのkilaさんが、この現象を応用したマジックを披露していました。
内容は、手のひらに10円の上に500円を置いて握りしめてもらい、開くと500円はそのままで下の10円コインが無くなっている、というマジックです。
人の心理は”有る”と思い込むことで、当たり前になってしまう、という性質を利用しているようです(違ってたらスイマセン)。

なので、コインが無くなっても気がつかない。
※逆のバージョンもありました。つまり無いはずのところ(腕の上)にいつの間にか10円が置いてある、というマジックでした。
KiLaさんが、失敗と悔しさをバネに研究し編み出した、というサクセスストーリーにも感動しましたが、ここではこのリフラクトリー・ピリオド(脳の空白時間)に焦点を当てて、潜在意識の観点より解説してみましょう。

リフラクトリー・ピリオド(脳の空白時間)と武道
別の角度からいえば、当たり前と思うことにより、予想外の事が起こることで、脳の活動が停止してしまうこととなります。
その脳の停止状態を利用した方法が武道にも使われているほどです。
分かりやすい例を2つ出すならば、武道の勝負の際に、突然笑い出し、笑いながら相手と反対方向を向きながら攻撃する、または護身術にも繋がりますが、突然全ての力を抜いてしまう(通常であれば緊張により硬くなる)、という方法です。
※ここは武道の解説場所ではないので、この辺で止めておくことにします。
ここでは、潜在意識での成功法則として捉えてみましょう。

何せ人間は、本質的に自身の命を守ろうとする防衛本能を持ち合わせており、目前で事故に出逢って、助けなければという本質があっても、自身の命が奪われる危険性が高いというもう一つの情報が入った途端に、一瞬で前頭連合野はパニックを起こし、行動が止まってしまうのだ。つまり、脳が2つの情報を受けて、前頭連合野がパニックを起こし、人間の行動を止めてしまうのである。この脳の働きを「リフラクトリー・ピリオド(脳の空白時間)」といい、実際にこれが起こると人間の動きはピタリと止まる。人間の脳は一編に情報を処理できないのである。

 武術で、この脳の混乱を使った技法を用いる技も存在している。それは、相手が攻撃しようとして行動を開始した際に、自身、相手の予測と違った反応をし、相手の動きを止めるという技である。相手は脳の中でパニックが起き、運動の信号が運動連合野に送れなくなり、技が途中で止まるのである。一見、不思議な技に見えるが、その正体は、リフラクトリー・ピリオドを利用した技法に過ぎないのである。特に前頭連合野が発達していればしているほど、この技法には掛かりやすい。

合気とは何かを考えてみました。

腕を動かすだけで、その手首や袖を掴んだ人がふらふらと倒れる、柔術などの武術で行われる技の原理のことを合気と呼びます。

久しぶりにホムンクルスのDVDを見て、空手の宇城師の技の原理を解いた説明を見た結果、合気について解説を試みた何冊かの本の内容がつながりました。
自分の動き方によって相手の心、精神、作戦に関係なく相手の脳や神経の活動を一瞬停止させられる動き方がある。
壁によりかかるように自分の体重を相手との接点にかけ相手の一ヶ所の筋力に自分の体重がぶつかった結果として、相手が自身の筋肉の断裂などを避けるため意思と関係なく筋肉の力が抜ける、そのとき体のバランスを保つ機能が一瞬停止し、軽い力で倒れる。

西村はここに書いてる事を、西村的にはスイッチングと読んでいる。
人間の指令系統の一瞬の
これは深層心理学と身体心理療法で使う言葉である。

相手の脳を一瞬混乱させる。
もし上手く行けば日本の剣道界の大先生もひっかかる例を挙げる。

【剣道は読みと反射】
相手を読む
相手の予備動作を介して相手の無意識を読み、相手を動かして勝ちを得る。
これが陰流の極意だ。
西村の剣道は通常この剣道をしている。

相手が剣道のプロ故に身に付いている無意識の反射がある。
範士八段、九段の名剣士との稽古に使う。

原田先生との稽古
原田先生との稽古で西村の右足は1センチくらい床の上を静かに進んでいる。
いつ左手を動かすか、我慢に我慢を重ねても先生の方が我慢強い!
ここと思いすてきって面を打つが、見事に小手か胴を斬られる。
先生はこの瞬間を待っているのだ。
このとき先生は何も考えないで反射的に小手か胴を斬っている。
あるときふーっと閃いた。
攻め口は全く同じで、もう打つしか無いという瞬間に右膝をクッと前に出す。
先生の反射はこことばかりに反応する。
しかし、直ぐに違うと感じる。
先生の中でスウイッチング(指令系統の乱れ)が起きた瞬間だ。
ここを西村の無意識が捉えて面を打つ。


面を打つと云うよりは身体に蓄えられた内部応力(為め)を解放する、左手を解放する瞬間だ。
先生は「参った!」と褒めて剣道は茫然自失状態だった。
剣道の興味が失せ数ヶ月は剣道のことは全く頭に上って来なかった。
【手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない】
【覚悟を決めて足と体は勧める、後は自分の内なる[智]を信じきるだけだ。】

最近は時々決まる様になった。
相手の長年蓄えられた読みと反射の世界を逆手に取る方法だ。

これは相手が名範士ほど決まる。
静岡の井上先生
何をやっても手玉に取られる先生だ。
先生が面においでと合図をする。
はい!とばかりに足を進め身体は面に打ちに行く。
しかし、左小手は先生の左手が動くのを待っている。
先生は『おお面に来たか!と思い小手を打ちにくる』。
西村はそこを軽く小手を刷り上げ面を打つ。
同じ面が数本決まる。

これは四国の大先生の西野吾郎先生にも同様に決まった。

賀来先生との最後の稽古
前回は西村の小手面が決まりお褒めを頂いていた。
今回は先生と稽古をしている相手が、合図により引き出され捌かれていた。
西村の番になった時、先生はやはり面を打てとばかりに合図をされる。
西村はこのお誘いに乗って上げる。
先生は来たかとばかりに、対応しょうと左手を動かす。
西村の無意識はそれを見て適切に対応して、上がりかけた小手を打ち面に伸びる。
ゆっくりと申し合わせ稽古、形稽古の様に決まる。
周りで見ている人からすれば不思議な光景だ。

佐藤博信先生の話から・・・・

先生
「西村先生が前に言ったことなんだよ!
岩立先生の攻めの話なんだが、あれは凄いよ!
ぎりぎり攻めた後、体の変化はほとんど無いようだが、腰だけすっと気持ち前に出す。
袴が前足の指をそっと隠す程のでだよな。
年をとると何とか相手を引き出してやろうと思う、それがなかなか難しい。
これを使うと相手は面に跳んでくるよ!
勘の良いヤツほどすっ飛んで来る。
ここの微妙なところの反応が良いヤツは、すぐに八段に上がってきている。
しかし、よくあんな微妙なものがわかったもんだ。
おかげで重宝しているよ。」

西村
「岩立先生のビデオを100時間ぐらい見れば気がつきますよ!
なんで!あそこで相手が打とうと起こるのか?
どうしてもわからないので何度も何度も繰り返し見てわかったのです。
岩立先生は『心で打つぞ!』と気を入れイメージが攻めると、無意識に体はその予備動作をするんですよ。
そうすると、勘の良い人は相手の予備動作を察知して負けるものかと打ってくるんですよ。
普通は無意識の動きですが、西村はこれを上手に意識して使うので、相手を起こすのが上手いです。」
先生
「反応が無いのがいるなこれは困る!」
西村
「このときはさらに、首の後ろを緩め、すっと頭を前に出します。
そうすると必ず面を打ってきます。」
先生
「なるほどな!」
西村
「博信先生は剣道のプロで鍛え上げてきていますが、西村のような剣道家は研究でなんとか腕を上げたいと思っていますからこのようにしないとなかなか腕は上がりません。」

佐藤先生は警視庁で剣道のプロで鍛え上げて自然に身に付いている。
しかし、頭を使って上達の方法もある。
この誘導方法は佐藤先生もご存じなかった。
岩立先生自身も心の攻めで相手を引き出していたが、その意識がスッと腰が前に軽く進んでいるとはご存じない。
我々は達人の攻め口をスロー、コマ送り等でその極意を盗み取る、勉強すると以外に早く上達をする。
逆に、そのように攻められたとき、あわてずに相手の攻め口を逆に利用すれば読み勝ち値となり裏を取れる。
岩立先生との稽古で、攻めの誘いに乗ってあげて面に来たところを小手に斬った。
岩立先生が江戸川の先生と話をしていて、「西村君て知っているかね、あの人は難しい!」と言ったそうな。

『隙』
剣道家ならば誰もが知っているが、相手と対峙すると忘れてしまい、竹刀と体力勝負に明け暮れてしまう、そして進歩がない。
西村の剣道が妖剣と言われるゆえんはこのレベルで剣道をしていることにある。


剣道雑誌に隙について色々書いてあった。
もう少し分析した形で書いてみたいと思う。

内田先生の本に書いてあった。
【隙がない】こちらから見て相手の動き、変化が分からない、読めない時を言う。
(本を見直したが何処に書いてあるか不明!)

相手が自由に動きを選択出来る状態、この状態に打って出ると、相手はこれに乗じて対応することが出来る。
隙がない相手に自ら隙を作って打って出た事になる。
心が打つと決め左手が動くと、その動きは終点まで変えることは出来ない。
相手は心の変化を察知し、左拳が動いた瞬間その動きが決定した事を知る。
要は自分の選択しを無くした状態なのだ。
この状態を『隙』という。

相手が心も身体も静止状態(心も身体もどの方向にも千変万化に対応出来ている状態)のとき、相手のこちらへの対応方向が分からない。
この状態を『隙がない』という。

隙がない自分とはこの状態をいう。
相手に『隙』が無ければ打つ事は出来ない。
だから、相手の『隙』を打とうと待っていても、相手も同じ事を考えていればお互いに隙がない事になる。
ここで大切なのは相手の隙を待っている状態は、相手のフェイントに容易に釣り込まれる可能性が高いのだ。
しかし、自分が相手の存在すら忘れてしまった様な状態『木鶏』のとき、相手の攻め、フェイントには反応しない。
相手が本気に危害を加えようとした時『智』が勝手に、反射的に対応処置してくれる。・・・この境地は難しい!
意識が相手の面を打つぞ!と強い念を送るとき、自分の意識波動は強く相手に感応させて、相手の無意識がそれに大しての対応処置をとる。
見えない意識の起こりが予備動作の程度に身体を動かす、相手の意識がこれに対応症と予備動作に入る。

意識波動の感応が予備動作としての微かな動きとして、無意識の正体を形で現してしまう。
こちらの念、意識波動、予備動作に相手が一定の感応、反応をしはじめた時、相手の心が手の平に乗りつつの状態になる。
ここに隙の初期が起きる。

相手の心に四つのマイナスの心が起きる。
 四戒とは、驚・懼・疑・惑の四つを言い、剣道修業中に、この中の一つでも心中に起こしてはならないと買う戒めである。
(1)驚とは
 予期しない相手の動作に驚くときは、一時心身が混乱し、正当な判断と適切な処置を失い、甚だしきは呆然自失することもある。
(2)懼とは
 恐怖の念が一度起きると、精神活動が停滞し、甚だしきは手足がふるえて、その働きを失うものである。
(3)疑とは
 疑心あるときは、相手を見て見定めがなく、自分の心に決断がつかず、敏速な判断、動作ができない。
(4)惑とは
 惑う時は精神が混乱して、敏速な判断、軽快な動作ができない。
従って剣道の勝負は技だけでなく、心の動きに支配される事が多いもので、相手に隙が生じても、この四戒の一つが心に起きれば、隙を見る事ができぬうえ、自ら萎縮し隙を出し、相手から打たれるものである。
 故に、常に四戒を脱して、思慮の深い活発な精神を養うよう修練すべきである。
攻め合いの中で相手のウエイトの大きいところが次第に見えて来る。
しかし、本当のところは未だ分からない。
これを確認するには『先』を懸け、相手の心の動きが決定した状態を作る。
相手の左拳が動く状態を作ることだ。
これを『相手に隙を作らせる』という。

原田先生は「相手に打たせろ!」と良く言われる。
古来より剣道は打って出た方が負けと言われている。

要は相手を居着かせるか、相手が打てないのに打てると錯覚して打って出る様にしむけること・・・・・これに尽きる。

隙とは!相手の意志が決定し、打つべき方向が決まり、もう後戻りが出来ない状態になった瞬間、相手の動きのベクトルが決定した瞬間、これをいう。
この『隙』を作る作業が『攻め合い』である。

この『隙』が見えたとき、勝負は既に決している。
竹刀はその結果を体現したにしか過ぎない。

人生、仕事においてこの過程を十分に検証して対応する必要がある。


意識エネルギー、意識波動、念力、意念力
津本陽先生の『弧塁の名人』を読んだ。
柳生兵庫之介を読んで彼の研究の成果を西村は十分活用した。
そのつもりで読んだのだが、津本先生にもこの世界は理解の域を越えていたようだ。
木村先生が佐川幸義先生の域に近づきあるようだ。
西村は身の回りに理解し難い超能力者がいる。
そのような人を間接的に見ている。
最初の内は頭が真っ白になっていた。
その内、超常現象、超能力者の存在が常識になってしまった。
その内、西村が出来ることに頭が真っ白になってしまう人が出てきた。
西村の治療も超能力の一種と言える。
それで伝承が不可能と思いセミナーをやめた。

剣道では研究をすることが無くなってきた。
あるのは、見えないが感じる世界の研究である。
一瞬であるが、いわゆる心霊治療の現象を西村自身の手で出来たことが二回ある。
体の硬い人の前屈を意識波動で緩くするのは簡単なことだ。
この方面の天才は伊藤聖 こう先生だ。
西村はこのセミナーでの呼吸法で、人の魂、意識波動の繋がりを意識して出来るようになった。
要は既に持ているが閉じているだけなのだ。
西村は『とお当て』に近い事が出来るのだ。
その意識を相手に流し込む、物に転写することが出来る。
今は仕事に使っているが、剣道でもっと確実に使えるまでにしたいと思っている。

一時やっていた!
意識で相手の小手を斬る、首を斬る、そして相手の身体にスイッチングを起す。
しかし、これをやると相手は病気になってしまうと思い止めた経緯がある。
その時、剣でお払いをする方向に変えた。
さらに、相手の弱点を指摘する、教育的打突に変えた。
今度は相手の殺気、打ち気、を押さえてしまう方向へ使おうと思っている。
意識波動を剣道でもっと実践的に効果の高いものに仕上げていきたいと思っている。

前に書いた内容をを参考に。
『西村は三枝先生(柔術家・御互道創始者・気功整体師)の操法を受けながら、有ることを言った。
「西村はこれから『遠当て』の研究をしたいと思う。」
柳生兵庫介が小太刀の大家の息子と手合わせした時、気に当てられその子は気絶をした。
松原先生が気を押し出すと相手が倒れた。
Sさんは離れていて相手を動かす。
気功家は離れて相手を動かす。
青木先生は弟子には遠当てが出来る。

西野先生も弟子には出来る。
西村は離れていて相手の気を動かせる。
テレポーションができる人がいる。
若山さんは離れていて、自在にカードを出せる。
身の回りに、一般人では理解不能な現象の存在を知っている。
西村も少しは出来る。
判る範士は攻め負けた時、参ったと蹲踞をした。
これを発展していきたいと思う。
竹刀で当てっこをしているのは、意識の上で勝負が終わった事の証明でしかないから。
そしたら先生が本を送ってくれると言った。

三枝先生

本を送って下さって有り難うございます。

早速読ませて頂きました。
佐川先生が肩に指先を軽く置く・・これは意識・気の流れのスイッチングの誘 発行為です。
(スイッチング:身体調整能力の一瞬の停滞、武道で言えば居つきの状態です)
これは誰にでも直ぐに出来る簡単な方法です。
それをどうして教えないのか不思議です。
これは直接触らなくても、強烈なイメージングで相手に送る事が出来ます。
治療に使うか、武道に使うかの違いだけです。
若山さんはトランプまで自在に出せる。
西村もトランプで赤と黒を12回連続で当てたことがある。
伊藤聖稿先生も離れていて色んな事が出来ます。
寝違いを意識波動で一瞬に治したり戻したり・・その他
西村もここでのセミナーでの幽体離脱体験から、意識・魂のレベルで人間はつ ながっていると確信を持った。
それ以後、自分の一番自身と確信を持つ咬合の意識波動調整には絶対なる自信 があります。
これの確認にOーリングテストをするだけです。
名刺をお札(おふだ)にするのも簡単に出来ます。
お払いも出来ます。
前屈を緩めるのは面白いです。
強烈なイメージはそれ自体意識波動として伝わります。
電話の向こうの姉の腰の痛みを取った事もあります。

佐川先生は武田先生から体験し、それがあることを確信していたから出来る様 になった。
木村先生はそれを体験したから、それがあることを確信した。
保江先生も木村先生から体験し、それがあることを確信した。
誰にでも出来るものだが、誰も信じられない事なのだ。
体験した者にしか確信の世界に入れないからだ。

西村は意識波動能力を伝授する能力に優れている。
軽井沢のセミナーで全員が出来るようになった。
それは、相手に確信させる能力が高いからです。
つまり、教え方が上手なのだ。
武道家は教える能力に欠けているか、ひた隠しにする。
特に一子相伝の極意は意外に簡単なだけに教えない。
企業秘密なのだ。

誰にも存在する能力なのだが閉ざされているだけなのだ。
イメージがエネルギーで空間を伝わる・・・誰も信じない
信じる体験さえさせれば、閉ざされたフタは開く!

今回の本のお礼に、興味深い本を送ります。
間中先生の最後に書かれた本です。
【体の中の原始信号―中国医学とX‐信号系 (単行本) 】

西村雅興先生

わざわざ丁寧な、御礼のメール忝ない。

その通りで、武道家は、教えません(笑)。』


松原先生の担ぎ面
ここから剣道の妙技に入って行きます。

担ぎ面は相手が居着くと効果的に入ります。

これが効果を発揮するのは一瞬の体の前進と、一瞬その前進が止まることにより、反作用で竹刀のスピードと威力が増します。
しかし、相手が居着かないと簡単に返し胴を打たれます。
タイミングが良ければ見事な大きな面が決まります。
近間だと相手の面を受けるタイミングが合ってしまい簡単に返される場合が多いです。
しかし、遠間からの担ぎ面の場合、相手は面を受けるタイミングが狂います。
担ぎ面の得意なそれも大きな面を打たれる先生に堀田先生がおられます。
この先生の動きが凄く大きいので相手は面を受けるタイミングを逸して打たれる。
担ぎ面の変形の達人は佐藤博信先生で、担いだ竹刀の先を後方で一瞬くるりと回す、
その分だけ相手の面に竹刀が届くのが遅れる。
相手は担いだ瞬間に面を受けようと竹刀をあげ、その時に相手の竹刀が来ずに、竹刀を下げようとした瞬間に面を打たれることになる。
この面は明治村の闘いで実際に見られる。

担ぎ面のコツは強い攻め、一瞬雄の体の停止、相手の受けのタイミングをずらすことにある。
剣道の本質的な上達からは勧められない。
担がないと面が打てない人になってしまい、これが癖になると上達が止まってしまう。
逆に、竹刀の先を一度下に振ってから面を打つ人も同じ。
竹刀の先を下げ下を攻めて、相手の無意識の防御を引き出し、相手の竹刀が下がりつつの所を《浮木》の原理で、相手の竹刀を行き違いに誘い面を打つ。
打つ前に拍子を取る為に軽く担ぐ癖がつくと、相手に打つと合図を合図をした、予備雑作を見せてしまったことになります。
同じくいつも竹刀の先を少し下げて拍子を取るのも宜しくない。
同じく相手に合図をしたことになります。
しかし、下から小手を攻め上げる要領で竹刀の先を下げるのは有効な方法です。
ここで、小手を庇おうと無意識が竹刀を下げると面。
ここで、相手が面を意識し、面に打って出る所を小手。
こちらは 面も小手も胴も決めずに、相手の動きに反射的に適切な打ちを無意識が選択するのがコツですが・・・かなり難しい。
剣道の基本は一拍子で打ち切ることです。
二拍子はその節目を押さられてしまいます。
原田先生がこの一瞬を捉え名人です。
この担いだ瞬間の小手を押さえるのは西村の得意です。
大きな試合では一瞬の出来事なので、ほとんどの審判は軽いと判断をして旗を揚げません。
しかし、相手の起こりを一瞬捉えるこの打ちは剣道の妙です。
この技が出るには居着かずに、相手の起こりに合わせて腰が出る攻めの強さと、動じない強い心です。
これは石原対原田戦で詳しく説明します。

六段は攻め合い,打ち勝った方が受かる。
七段は違う、八段は完成度が要求されるはず、現実は審査員の心のレベルか(?)であるが。

七段審査で攻め合って,相打ちになり双方不合格。
『押しても駄目なら,引いてみな』
フッと攻め緩めると、相手がふらっと打って来る・・・シメタものだ。
ふーっと打たれに出ると「エ!」と言う感じで相手に打気が出る。
相手との対峙を忘れ,一瞬自分を宇宙と一体化する。
相手は不思議な感覚に襲われ打ちに来る。
相手が打つと気を入れ体と肩を入れ込んで来る、そのとき心で「ぞうど!」とつぶやき、頭を差し出す。
相手の無意識は頭を打ちに来る。
後は自分の身体の『智』に任すのだ。
反射的に身体が何かをやっている。
この反射的にやっている自分の『智』を信じきれるか・・・・。
信じた自分を褒めれたとき・・・素晴らしい幸せに包まれる瞬間がある。
普段感じる事の出来ない自分に出会う瞬間なのだ!

剣道の相手は自分を見つめる手助けをして下さる相手なのだ。
敵ではなく素晴らしい協力者なのだ。

さて、スポーツチャンバラと抜刀術の師匠の田邊哲人先生は真の武道家だった。
指導者は『教育的打突』によって、「ハイ!そこがあなたの欠点ですよ」と相手の心の指導をするものだと教わった。

西村は道場でこれを実践すると、先生は本気で相手にしてくれないという。
本気で打ち負かすと二度と稽古をしてくれない。
お世辞稽古が必要な人が多いのには閉口する。
しかし、松風館の門弟は違う。
打ちのめさないと許してくれない。
剣道への意識の違いなのだ。

京都で柳生の里での同期の稽古界を見ていると清々しい感じがする。
お互い攻め合い打合いのレベルだが。元立ちは緩めて先を取っているのが見える。

剣道は『心の押し合い,引き込み、勘違い、錯覚、神経系統の失調』を通して、覚醒催眠の実践世界と一度考えて取り組んではどうだろうか。

剣道は打ち合う前に勝負が終わっている事が分かる。

最後に
『武道的思考』 著者・内田樹 筑摩書房 ¥1600を読んだ感想を書いて下さい。


松原輝幸 範士八段の著書 『最強の剣道』から学ぶ - 西村雅興 [2015年12月24日(木)]・・・ここを読んでください/

合気道の本、ビデオ、DVD 正月に片っ端から観て考察をしました。
今の西村ではかなり理解が出来る・・・・しかし?
この機会にネットで調べてみた。
するとかなりの指導者がいる様だ、費用がかかるが入門をして教わるしか無いだろう!!!!!!!。

残念ながら・・・・今の西村ではこの方面の初心者でしかない。

DVDをゆっくり観て改めて書きます。
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過去の賀来先生の記事より!
西村雅興
2016年1月6日(水)
掲示板を見ると 広告で汚されていました。
削除する前に賀来先生特集なので読み返した。

そこから改めて抜粋する。
この暮れから正月にかけて書いて来た事は本の内容から書きましたが、これは西村主体の内容でした。
特に発見したのは体を沈める、膝を緩めるが書いてはいたが、黒田鉄山先生の本によって【技】になる点でした。
詳しくは【賀来先生】のロゴ検索で読んで下さい。
西村のオリジナル的独断と偏見を持って書いて来た事が、黒田先生、日野先生、その他の先生方の本があながち間違っていなかった事を立証して頂きました。
今回の書き込みの中で、攻めの時の【吸気】については改めて認識しました。
【緩める】コツはこの【吸気】に有ったのです。
ここまで出来れば達人の域です。

『2014年12月28日(日)
賀来先生の特集
前回、原田先生と賀来先生の立ち合いについて書いた。
その夜から、賀来先生との稽古、お話が走馬灯の様に頭を駆け巡り、翌日の今まに至りて頭の中が賀来先生のことで一杯なのだ。

今回、このビデオを見て、観て、改めてその偉大さを知った。
西村の尊敬する原田先生との立ち合いであったからこそ、良く分かったのだ。

岡田さん!貴方が師と仰いで教わった賀来先生の禅的内容、今の貴方に一番参考になる教えなのかもしれない。
多くの事を教わったかと思いますが、西村と賀来先生との関わりで書き抜いて行きます。
尚、読者は『ログ検索』で、『賀来先生』と索引し、一番古い日にちから全て読む事を勧める・・・高いレベルを求める剣道家には結構良い読み物になっています。

?????特集を書こうとログ検索をして纏めようと思って数時間かけたが、結局止めにした。
各自にログ検索をしていただこうと思った。
・・・・・暮れの退屈しのぎに、剣道家の頭に涼しい風を吹き込むかもしれないから・・・・.』

『年の暮れのプレゼント-1 賀来先生特集
西村雅興
2014年12月29日(月)
前日の昼、数時間かけて纏めようと思ったが出来なかった。
その後、朝まで思いが燻るので出来る範囲で書く事にする。
勝った負けた、当たった、打たれたに捕われる人に興味の無い話だが、剣道を吸う齲十年修行して来て、それなりに思う所がある高段者には更なる世界への道しるべになるかもしれない。
田伐さんのお陰で秘蔵映像シリーズに出会い、師匠・原田先生と賀来先生の立ち合いを映像で再認識する機会を得た事は千載一遇のチャンスであった。
賀来先生が、西村に剣道たるものの意味を皆様に伝える様にとの配慮だったと思い再び書く事にする。
原田先生が目指したものより一段高く、崇高な世界の様な気がします。

禅の世界の究極の修行を通して到達する処。
小川忠太郎先生の教え・・・相手と『不二』の境地。
賀来先生はこの境地で剣道をされていた事がようやく西村にも理解が出来た。

ある所より抜粋
「人間社会の形成」、即(すなわ)ち「事理相忘」、「自他不二」。
 これが剣道修行の大目的であります。
「事理相忘」というのは、修行をし抜いて、一切をやり切って、修行していない人と全く同じになる。
 これを「利他上の悟了同未悟」という。
 
 人間の社会生活に於いては、「人間と人間が自然につながるもの」がある。
 この人間と人間をつなぐもの、これを「一点無縁の慈悲」という。
この「自他不二」の形を示せば、「合掌」です。

 自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。

 この話をかつて持田盛二先生にしたら、「小川さん、剣道でそこへ行けるかも知れない」と。
 先生のご心境は高い。
 ここが最高の十段位です。
こちらが本当に『慈悲の心』になりきっておれば、相手も『慈悲の心』を起こして、斬れなくなってしまう」ということを言っているのです。

 剣道でも本当にそういう構えで対すれば、相手が打てなくなってしまう。
 これが最高の修行ですから、平素からこの心掛けで修行することが肝要です。』


『 西村コメント
『自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。』

かって京都で若々しい清々しい剣道をする青年と稽古をしたことがある。
面の中でニコニコしているのである。
何とも始末が悪い。
ニコニコしている相手に打って出る事は出来ないのだ。
困ってしまった!
終盤になって彼はキッとした表情で打ってきた。
すると西村は何のためらいも無く切り取った。

このような不思議な稽古をしたのは、西村の剣道人生で後にも先にもこの一回きりであった。
彼は幼少期に本当に人から愛されて育った人なのかと思った事だった。
(それとも、全く逆の育ち方をしたのか?・・・いまだにわからない)
以後、彼との稽古で、押しても引いても、誘っても乗って来ない。
御見合い状態・・『相抜』になってしまう。
以後、彼の稽古を観ていると、八段範士、八段教士とも同じ稽古をしている。
相手がこの状態を打破症と強引に二段三段と攻め込んで来たときは、その強引さに負けるのではなく、相手の意志を尊重して打たれてあげている。

ある範士八段との稽古ぶりをある山梨の人が言った。

西村先生は範士の起こりを素早く小手に取り、相手がそれに気づかずに後打の面を打ってきた時、相手にせず知らん顔をしている。
このとき、範士は小手を打たれた事すら気づかず、「俺に何本面を打たせれば気が済むのだ!」と西村に言った。・・・この範士、自分が先に打たれた事を本当に判っていないのだ。

誰でも知っている剣道連盟の中枢にいる範士だ。
いつ観ても、品のない向こう意気の強いだけの剣道をしている。

さて、同じ範士とこの青年が稽古をした。
同じ様に小手を先に取っている。
その後、強引な打に打たれてあげている・・・・人が良い剣道だ!

彼が言った「西村先生は小手を取った後、相手の強引な打に知らん顔をして、相手にしていない。島野は人が良いから打たれてあげている!」

西村は強引な攻めや打をしないから、稽古をすれば御見合い状態だ。
彼は人が良いから、最後には打ち込んで来て西村に打たれて終わる。
誠に人間が出来た人だ。


ここまでが前置きです。』

『2004/1/15
次は久し振りに野正先生と稽古をした。
先生と一度稽古をしたときは、気争いで先生が「参った!」といわれ蹲踞された。
二回目は西村の足が痛くて稽古にならなかった。
今日は三回目だ。

野正先生と賀来先生先生の立ち合いを十分検証している。
さらに、その時のやり取り、心の状況を賀来先生から直接聞いている。

しっかり間合を取ったところから、体を軽く沈め攻めた。
先生はそれを嫌ってわずかに引いた。
ここまで、賀来先生の攻め通りだ。
その後
西村の面が数本入った。
いよいよ最後だ、先生の裏からぐっと攻め入った。
先生は軽く巻くように西村の竹刀を押さえる。
ここをスッと抜いて体を大きく、先生を上から被るように大きなゆったりとした面を打つ。
これが見事に入る。
先生が参ったと蹲踞された。
この部分は京都大会での賀来先生との立ち合いの再現そのものだった。

虎の巻き持参で野正先生との稽古だった。
相手が読めれば大先生にも良いところが入る。

稽古の後、挨拶に行くとニコニコして握手をされた。
直ぐ横の原田源次先生先生の方を見ながら、原田系統は皆強いや!
体から打って出るものなあ!
と誉めて頂いた。
体は関係の無い、気攻め、読みあいの稽古だった。
虎の巻を持っていた分だけ、西村の歩が良かった。』

『さて、虎の巻とは何か?
前年度の京都大会で賀来先生と野正先生が立ち合いをされた。
それを西村は直に観ていた。
剣道雑誌でこの立ち合いについて解説、評論が載っていた。
西村の解釈とは違うのだ。
そこで、ある時、西村の解釈を賀来先生に直接話した。
西村の解釈が正しかった。
その後、賀来先生がそのときどう考えていたかを聞いた。
『俺が攻めた!あいつは下がりよった!下がられれば打てないわな!
あいつは気が強いそこをついた。
裏から相手の竹刀を押し上げる様にあげた。
気が強いから押さえに来た。
そこを軽く浮木の原理でかわし、面を打った。
それだけのことじゃよ!』
西村はこの虎の巻を持って野正先生に臨んだ。
それをそのまま実行した。
剣道は相手を知り、相手が読めれば、その裏をかけば、相当腕の差があっても何とかなる・・・ということだ。』

『2005/12/24
田伐先生
昨日、賀来先生と稽古して呼吸の大切さを教えて頂きました
原田先生も同じようなことをおっしゃってましたよね…
西村コメント
呼吸は結局自分の意識の反映の様な気がします。
息を吐きながら呼気で攻め続けるとき、十分合気になって相手の打ち気が強くなったとき、相手の気を吸うように吸気に転ずると、相手は攻めの緩みと勘違いして打ってくるようです。
自分も相手の方へふらっと体を預ける様な感じになります。
心が死を覚悟してこの様に前に出れば、時として夢想剣・神妙剣の様な打ちが出たことがあります。
何度かこの経験があります。』

『2006/1/16
未発と起発
無意識が面を打とうとすると、未発が見える。
かって、賀来先生に見事な小手を何本も打たれた。
足も手元も全く動いていない。
しかし、行くぞ!と、スーッとわずか5センチ程腰の位置が前に出た瞬間だった。
この瞬間、先生の剣先は西村の小手をとらえていた。
これは京都大会でも範士八段の先生が同じように打たれていた。
西村がスッと腰を出したのも、賀来先生の攻め(未発の動き)に起されて、負けじと気当たりしたような気がする。
こんな話だと闇の世界に入ってしまう・・・ので、西村流の説明。
無意識が面を打つと決めると、
友意識が起発する為の予備動作が体内の奥から既に起こり始めている。
それは腰の備えであったり、やや重心を沈め床をつかみ蹴る準備をするとか、小胸を出して胸を開き、両肩を後ろに引き、肩甲骨を引き、後は肩を前に出せば、竹刀を押し上げる準備をしている。
右足の膝は緩み重心が既に前方に緩く滑落し始めている。
この予備動作は一瞬に起こるのではなく、起発へとつながる一連の筋肉の連動なのだ。
それは腰の中央の丹田付近から発せられる。
大きな動きに備え姿勢維持とそこから上下に発せられて動きとなるからだ。
この動きの始まりが『静止』からの動きならば瞬時にそれは行えるし、『停止』状態からだと、この一瞬に静止の状態、ニュウトラルに戻す必要がある。
身体に適度な緊張感の中、いつでも動ける状態を『静止状態』という。
左かかとがベッタと床に着いた状態(右足の場合が多いが)は身体の動的緊張状態が抜け、姿勢維持のみの平衡感覚的な筋肉となっている。
西村がよく言うのだが『身体が休めをしている!』
これは左手元の状態にも言える。
西村コメント
ここでのポイント
『静止と停止』  この言葉の違いを知らずに、稽古の最中に試合の最中に停止をしてから面を打とうとする人が多い。
一呼吸遅れての動きになる。』

『2006/5/8
剣道上達の大切なことは、コツ、秘訣、秘伝を教わるか、盗む事なのだ。
『稽古をすればするほど癖が強くなり下手になる。』
賀来先生の言葉だ!
千代田で見ても足から攻め入って面を打つ先生はほとんど(数名)いない。
60人稽古をしていても1/20程度なのだ。
今回出版された本を読んで、西村の過去の書き込みと比べて欲しい。
言わんとする事は西村と同じだと思う。
2006/9/8
賀来先生の朝稽古
飄々として、相手の打ち間に入っていく。
相手は打つしかない!
この賀来の入り鼻にどう対処するべきか。
結局は竹刀ではない。
自分の位を下げないことだけの様な気がする。
ヒョイと出てくればヒョイと出る。
先生の左手が上がるのを待つか?
難しいのは、出てきながら左拳を下げ竹刀の先を上げ加減にくる。
こちらが竹刀を動かせば、先生はそこを受けるか取りに来る。
我慢・辛抱・居つきのない自然体に任せれば(反射)道が開けるかもしれない。
一昨年、夏の稽古で先生のこの攻めは入りに、西村は思わず小手面を打っていた。
このときは見事に入り褒められた。』

『22006/5/17
田伐さんの書き込みより
14日に賀来先生とお会いする機会を得ました
その中から…
「高度な技術はなかなか伝え難く、又、絶えやすい運命を有していると言われる
 人間形成の道としての平和な時代の剣道は必然、巧みさを争う方向へ流れ易く、
 古人が求めた術とはほど遠いものになってしまうのではないか…」 とのことでした

ちなみに、今年の演武は「不動心」だったそうです
お話を聞いて 「ほぉ?・・・」 でした!』

『2004/8/10
岡本先生の書き込みより
確かに自分はまだまだ当てるだけの剣道なのだと再認識致しました。
「身体で打ち切る」ということを、目で見て、実体験してよくわかりました。実際に身近に見本があって具体的に理解できるということは誠に有難いことだと感謝の気持ちで一杯です。
今後の課題として精進していきます。

帰りの列車で、賀来先生と偶然一緒になりました。
「今日最後西村先生と稽古なさっていましたが、西村先生は難しいですよね」と尋ねました。
すると賀来先生は、ニコニコした素晴らしい笑顔で「全部見える。すべてわかっている」とお答えになりました。そのレベルというかは自分には到底わかりませんが、凄いを通り越してそういった世界もあるのかなあと不思議な気持ちになりました。

三条先生との稽古は良い参考になったでしょう。
手で打ってはいないですよね!
身体全体で打ちきっていますよね!
あなたにこの気迫が備われば、そのとき既に七段です。

私が岡本先生の全てがわかっている様に、賀来先生から見れば、西村の全てがお見通しと言うことです。

西村が先生に言いました。
『先生!間合は結局のところ、自分の心の余裕ですね。」
と言うと。
賀来先生
「そうだ!」と言われました。

『全部見える。すべてわかっている』
賀来先生は何も考えていないのですね。
自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。
そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。
西村コメント
この頃は賀来先生が霧の中に立っている様な感じで稽古をして頂いていました。
その2年後は西村も成長をいたしました。』

『2006/8/7
ある八段を目指す先生が言った。
「賀来先生には何時打たれるのか分からない!」と嘆いていた!
西村が言った。
「それは心を手玉に取られたからだ!」

奇跡的な超能力的経験が西村には常識の世界なのだ。
この世界に比べれば、相手と対峙した剣道ではもっと相手を理解しやすい。
相手の心は体にありありと表現されているからだ。
剣道をしながら相手の心の奥が見えてくる。

さて、久しぶりに賀来先生にお願いした。
実はお願いしたのではなく、先生と心の対話を体と竹刀で語りあったのだ。
皆様!先生の「打て!」の合図で打っている。
先生は相手が動作に入りかけると、既に体は右に開いている。
いないところを打たされているのだ。
西村の番になった。
先生とは約二年ぶりかと思う。
先生お得意の内小手を軽くいただく。
それで、剣先の位置を少しあげる。
以後打たれない!
先生が「打て!」と合図をする。
西村は喜んでそこに嵌まってあげる。
スッと打つような感じで体を出すのだ。
しかし、竹刀は動いていない。
先生は面に来る事を予測し、既に面を止めようと手元が上がっている。
そこの小手は取れる。
西村の竹刀が後から動くから対処が出来るのだ。
今度は小手面と行くと案のじょう上手く止められる。
しかし、小手から面の動きに一テンポずらすと面が入る。
止めようとした竹刀が降りかけた所を打つのだ。
ふーっと合い気なると、今度は先生のお得意の面が来る。
そこは分かっているから胴に返せる。』

『先生と思わずに、ただ波動の意識で語り合えば、先生の合図に乗ってあげる。
先に体を出し、面を緩めると先生の心が面に動く。
要は語り合いの世界なのだ。
西村コメント
賀来先生と剣道をすれば全く歯が立たない、全て西村を見透かしてしまうからだ。
では、西村が命がけで修行をして来た心の世界、意識波動の世界、念力の世界、奇跡の世界・・・これらの集大成で臨めばどうか?
『剣道をする訳ではない。波動の意識で語り合えば、心の対話をすればどうか?』
何とかなるのだ!』

『前日の昼、数時間かけて纏めようと思ったが出来なかった。
その後、朝まで思いが燻るので出来る範囲で書く事にする。
勝った負けた、当たった、打たれたに捕われる人に興味の無い話だが、剣道を吸う齲十年修行して来て、それなりに思う所がある高段者には更なる世界への道しるべになるかもしれない。
田伐さんのお陰で秘蔵映像シリーズに出会い、師匠・原田先生と賀来先生の立ち合いを映像で再認識する機会を得た事は千載一遇のチャンスであった。
賀来先生が、西村に剣道たるものの意味を皆様に伝える様にとの配慮だったと思い再び書く事にする。
原田先生が目指したものより一段高く、崇高な世界の様な気がします。

禅の世界の究極の修行を通して到達する処。
小川忠太郎先生の教え・・・相手と『不二』の境地。
賀来先生はこの境地で剣道をされていた事がようやく西村にも理解が出来た。

ある所より抜粋
「人間社会の形成」、即(すなわ)ち「事理相忘」、「自他不二」。
 これが剣道修行の大目的であります。
「事理相忘」というのは、修行をし抜いて、一切をやり切って、修行していない人と全く同じになる。
 これを「利他上の悟了同未悟」という。
 
 人間の社会生活に於いては、「人間と人間が自然につながるもの」がある。
 この人間と人間をつなぐもの、これを「一点無縁の慈悲」という。
この「自他不二」の形を示せば、「合掌」です。

 自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。

 この話をかつて持田盛二先生にしたら、「小川さん、剣道でそこへ行けるかも知れない」と。
 先生のご心境は高い。
 ここが最高の十段位です。
こちらが本当に『慈悲の心』になりきっておれば、相手も『慈悲の心』を起こして、斬れなくなってしまう」ということを言っているのです。

 剣道でも本当にそういう構えで対すれば、相手が打てなくなってしまう。
 これが最高の修行ですから、平素からこの心掛けで修行することが肝要です。』


 西村コメント
『自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。』

かって京都で若々しい清々しい剣道をする青年と稽古をしたことがある。
面の中でニコニコしているのである。
何とも始末が悪い。
ニコニコしている相手に打って出る事は出来ないのだ。
困ってしまった!
終盤になって彼はキッとした表情で打ってきた。
すると西村は何のためらいも無く切り取った。

このような不思議な稽古をしたのは、西村の剣道人生で後にも先にもこの一回きりであった。
彼は幼少期に本当に人から愛されて育った人なのかと思った事だった。
(それとも、全く逆の育ち方をしたのか?・・・いまだにわからない)
以後、彼との稽古で、押しても引いても、誘っても乗って来ない。
御見合い状態・・『相抜』になってしまう。
以後、彼の稽古を観ていると、八段範士、八段教士とも同じ稽古をしている。
相手がこの状態を打破症と強引に二段三段と攻め込んで来たときは、その強引さに負けるのではなく、相手の意志を尊重して打たれてあげている。

ある範士八段との稽古ぶりをある山梨の人が言った。

西村先生は範士の起こりを素早く小手に取り、相手がそれに気づかずに後打の面を打ってきた時、相手にせず知らん顔をしている。
このとき、範士は小手を打たれた事すら気づかず、「俺に何本面を打たせれば気が済むのだ!」と西村に言った。・・・この範士、自分が先に打たれた事を本当に判っていないのだ。

誰でも知っている剣道連盟の中枢にいる範士だ。
いつ観ても、品のない向こう意気の強いだけの剣道をしている。

さて、同じ範士とこの青年が稽古をした。
同じ様に小手を先に取っている。
その後、強引な打に打たれてあげている・・・・人が良い剣道だ!

彼が言った「西村先生は小手を取った後、相手の強引な打に知らん顔をして、相手にしていない。島野は人が良いから打たれてあげている!」

西村は強引な攻めや打をしないから、稽古をすれば御見合い状態だ。
彼は人が良いから、最後には打ち込んで来て西村に打たれて終わる。
誠に人間が出来た人だ。


ここまでが前置きです。

2004/1/15
次は久し振りに野正先生と稽古をした。
先生と一度稽古をしたときは、気争いで先生が「参った!」といわれ蹲踞された。
二回目は西村の足が痛くて稽古にならなかった。
今日は三回目だ。

野正先生と賀来先生先生の立ち合いを十分検証している。
さらに、その時のやり取り、心の状況を賀来先生から直接聞いている。

しっかり間合を取ったところから、体を軽く沈め攻めた。
先生はそれを嫌ってわずかに引いた。
ここまで、賀来先生の攻め通りだ。
その後
西村の面が数本入った。
いよいよ最後だ、先生の裏からぐっと攻め入った。
先生は軽く巻くように西村の竹刀を押さえる。
ここをスッと抜いて体を大きく、先生を上から被るように大きなゆったりとした面を打つ。
これが見事に入る。
先生が参ったと蹲踞された。
この部分は京都大会での賀来先生との立ち合いの再現そのものだった。

虎の巻き持参で野正先生との稽古だった。
相手が読めれば大先生にも良いところが入る。

稽古の後、挨拶に行くとニコニコして握手をされた。
直ぐ横の原田源次先生先生の方を見ながら、原田系統は皆強いや!
体から打って出るものなあ!
と誉めて頂いた。
体は関係の無い、気攻め、読みあいの稽古だった。
虎の巻を持っていた分だけ、西村の歩が良かった。

さて、虎の巻とは何か?
前年度の京都大会で賀来先生と野正先生が立ち合いをされた。
それを西村は直に観ていた。
剣道雑誌でこの立ち合いについて解説、評論が載っていた。
西村の解釈とは違うのだ。
そこで、ある時、西村の解釈を賀来先生に直接話した。
西村の解釈が正しかった。
その後、賀来先生がそのときどう考えていたかを聞いた。
『俺が攻めた!あいつは下がりよった!下がられれば打てないわな!
あいつは気が強いそこをついた。
裏から相手の竹刀を押し上げる様にあげた。
気が強いから押さえに来た。
そこを軽く浮木の原理でかわし、面を打った。
それだけのことじゃよ!』
西村はこの虎の巻を持って野正先生に臨んだ。
それをそのまま実行した。
剣道は相手を知り、相手が読めれば、その裏をかけば、相当腕の差があっても何とかなる・・・ということだ。

2005/12/24
田伐先生
昨日、賀来先生と稽古して呼吸の大切さを教えて頂きました
原田先生も同じようなことをおっしゃってましたよね…
西村コメント
呼吸は結局自分の意識の反映の様な気がします。
息を吐きながら呼気で攻め続けるとき、十分合気になって相手の打ち気が強くなったとき、相手の気を吸うように吸気に転ずると、相手は攻めの緩みと勘違いして打ってくるようです。
自分も相手の方へふらっと体を預ける様な感じになります。
心が死を覚悟してこの様に前に出れば、時として夢想剣・神妙剣の様な打ちが出たことがあります。
何度かこの経験があります。

2006/1/16
未発と起発
無意識が面を打とうとすると、未発が見える。
かって、賀来先生に見事な小手を何本も打たれた。
足も手元も全く動いていない。
しかし、行くぞ!と、スーッとわずか5センチ程腰の位置が前に出た瞬間だった。
この瞬間、先生の剣先は西村の小手をとらえていた。
これは京都大会でも範士八段の先生が同じように打たれていた。
西村がスッと腰を出したのも、賀来先生の攻め(未発の動き)に起されて、負けじと気当たりしたような気がする。
こんな話だと闇の世界に入ってしまう・・・ので、西村流の説明。
無意識が面を打つと決めると、
友意識が起発する為の予備動作が体内の奥から既に起こり始めている。
それは腰の備えであったり、やや重心を沈め床をつかみ蹴る準備をするとか、小胸を出して胸を開き、両肩を後ろに引き、肩甲骨を引き、後は肩を前に出せば、竹刀を押し上げる準備をしている。
右足の膝は緩み重心が既に前方に緩く滑落し始めている。
この予備動作は一瞬に起こるのではなく、起発へとつながる一連の筋肉の連動なのだ。
それは腰の中央の丹田付近から発せられる。
大きな動きに備え姿勢維持とそこから上下に発せられて動きとなるからだ。
この動きの始まりが『静止』からの動きならば瞬時にそれは行えるし、『停止』状態からだと、この一瞬に静止の状態、ニュウトラルに戻す必要がある。
身体に適度な緊張感の中、いつでも動ける状態を『静止状態』という。
左かかとがベッタと床に着いた状態(右足の場合が多いが)は身体の動的緊張状態が抜け、姿勢維持のみの平衡感覚的な筋肉となっている。
西村がよく言うのだが『身体が休めをしている!』
これは左手元の状態にも言える。
西村コメント
ここでのポイント
『静止と停止』  この言葉の違いを知らずに、稽古の最中に試合の最中に停止をしてから面を打とうとする人が多い。
一呼吸遅れての動きになる。

2006/5/8
剣道上達の大切なことは、コツ、秘訣、秘伝を教わるか、盗む事なのだ。
『稽古をすればするほど癖が強くなり下手になる。』
賀来先生の言葉だ!
千代田で見ても足から攻め入って面を打つ先生はほとんど(数名)いない。
60人稽古をしていても1/20程度なのだ。
今回出版された本を読んで、西村の過去の書き込みと比べて欲しい。
言わんとする事は西村と同じだと思う。
2006/9/8
賀来先生の朝稽古
飄々として、相手の打ち間に入っていく。
相手は打つしかない!
この賀来の入り鼻にどう対処するべきか。
結局は竹刀ではない。
自分の位を下げないことだけの様な気がする。
ヒョイと出てくればヒョイと出る。
先生の左手が上がるのを待つか?
難しいのは、出てきながら左拳を下げ竹刀の先を上げ加減にくる。
こちらが竹刀を動かせば、先生はそこを受けるか取りに来る。
我慢・辛抱・居つきのない自然体に任せれば(反射)道が開けるかもしれない。
一昨年、夏の稽古で先生のこの攻めは入りに、西村は思わず小手面を打っていた。
このときは見事に入り褒められた。

22006/5/17
田伐さんの書き込みより
14日に賀来先生とお会いする機会を得ました
その中から…
「高度な技術はなかなか伝え難く、又、絶えやすい運命を有していると言われる
 人間形成の道としての平和な時代の剣道は必然、巧みさを争う方向へ流れ易く、
 古人が求めた術とはほど遠いものになってしまうのではないか…」 とのことでした

ちなみに、今年の演武は「不動心」だったそうです
お話を聞いて 「ほぉ?・・・」 でした!

2004/8/10
岡本先生の書き込みより
確かに自分はまだまだ当てるだけの剣道なのだと再認識致しました。
「身体で打ち切る」ということを、目で見て、実体験してよくわかりました。実際に身近に見本があって具体的に理解できるということは誠に有難いことだと感謝の気持ちで一杯です。
今後の課題として精進していきます。

帰りの列車で、賀来先生と偶然一緒になりました。
「今日最後西村先生と稽古なさっていましたが、西村先生は難しいですよね」と尋ねました。
すると賀来先生は、ニコニコした素晴らしい笑顔で「全部見える。すべてわかっている」とお答えになりました。そのレベルというかは自分には到底わかりませんが、凄いを通り越してそういった世界もあるのかなあと不思議な気持ちになりました。

三条先生との稽古は良い参考になったでしょう。
手で打ってはいないですよね!
身体全体で打ちきっていますよね!
あなたにこの気迫が備われば、そのとき既に七段です。

私が岡本先生の全てがわかっている様に、賀来先生から見れば、西村の全てがお見通しと言うことです。

西村が先生に言いました。
『先生!間合は結局のところ、自分の心の余裕ですね。」
と言うと。
賀来先生
「そうだ!」と言われました。

『全部見える。すべてわかっている』
賀来先生は何も考えていないのですね。
自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。
そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。
西村コメント
この頃は賀来先生が霧の中に立っている様な感じで稽古をして頂いていました。
その2年後は西村も成長をいたしました。


2006/8/7
ある八段を目指す先生が言った。
「賀来先生には何時打たれるのか分からない!」と嘆いていた!
西村が言った。
「それは心を手玉に取られたからだ!」

奇跡的な超能力的経験が西村には常識の世界なのだ。
この世界に比べれば、相手と対峙した剣道ではもっと相手を理解しやすい。
相手の心は体にありありと表現されているからだ。
剣道をしながら相手の心の奥が見えてくる。

さて、久しぶりに賀来先生にお願いした。
実はお願いしたのではなく、先生と心の対話を体と竹刀で語りあったのだ。
皆様!先生の「打て!」の合図で打っている。
先生は相手が動作に入りかけると、既に体は右に開いている。
いないところを打たされているのだ。
西村の番になった。
先生とは約二年ぶりかと思う。
先生お得意の内小手を軽くいただく。
それで、剣先の位置を少しあげる。
以後打たれない!
先生が「打て!」と合図をする。
西村は喜んでそこに嵌まってあげる。
スッと打つような感じで体を出すのだ。
しかし、竹刀は動いていない。
先生は面に来る事を予測し、既に面を止めようと手元が上がっている。
そこの小手は取れる。
西村の竹刀が後から動くから対処が出来るのだ。
今度は小手面と行くと案のじょう上手く止められる。
しかし、小手から面の動きに一テンポずらすと面が入る。
止めようとした竹刀が降りかけた所を打つのだ。
ふーっと合い気なると、今度は先生のお得意の面が来る。
そこは分かっているから胴に返せる。

先生と思わずに、ただ波動の意識で語り合えば、先生の合図に乗ってあげる。
先に体を出し、面を緩めると先生の心が面に動く。
要は語り合いの世界なのだ。
西村コメント
賀来先生と剣道をすれば全く歯が立たない、全て西村を見透かしてしまうからだ。
では、西村が命がけで修行をして来た心の世界、意識波動の世界、念力の世界、奇跡の世界・・・これらの集大成で臨めばどうか?
『剣道をする訳ではない。波動の意識で語り合えば、心の対話をすればどうか?』
何とかなるのだ!

2007/5/31
賀来先生の妙技

本当に上手い!こんな仙人の様な技は賀来先生の境地だ!
(しかし、西村はその裏をかく妖術がある、)

相手を呑んでいる。
井上先生の重厚な構えもなんのその、竹刀を使って少し反応を試している。
スッと左足を右足に付けて次の準備をする。
右膝を緩めふわりと体を沈め、この時、身体全体は宙に浮いた感じで、相手の反応を待っている。
さらに、なおかつ頭は行くぞと合図をする。
相手がこれに反応したら打つだけなのだ。
相手が面と思えば手元が上がるから、上がり鼻を小手に取る。
打たれてみると判るが、右手がピクッとした瞬間はすでに打たれている。
これは何年も前の井上先生との対戦も同じだった。
西村も散々打たれました・・・どうして打たれたか全く判らないのだ。
ずいぶん昔の掲示板に出しました。
先生はこの小手を、面に跳んで伸ばして打つ。
古川先生に打った、西村のビデオに撮らせる為に三本の面だ。

賀来先生がまんまと小手を井上先生から取っている、同じ裏をかくのだ。
こうなるときつねとたぬきの化かし合いか、相手の心を読んでその先の手を打つ。
これは昨年の夏の賀来先生との稽古でした。


ともかく、ふわりと相手の白刃の下にサラッと身を置く!
打つ前に自分の頭を餌に呼び込み、左拳は虎視眈々とその時を狙っている。
これが懸かりの中の待なのだ!
『懸中待』
このような味のある立ち会いは少ない。』

『送る車中で
原田源次先生に賀来先生と井上先生の立ち会いを話した。
ある意味見事な一語で井上先生の弱点を突いた。
賀来はそこを見事に逆手にとったのだ。
動きではなく、心の奥が見えれば勝負は終わりなのだと判った。

西村コメント
今の西村の対処法
西村はこの時、打ちに出ません。
体を進め反応するだけです。
左手は納めたまま!
次は先生が困ります。
おそらく来た!と先生が受けに回り返す・・・摺り上げ面が多いが・・
先生が左拳で竹刀を先に動かせば、浮いた小手を取るのは易しい。

2007/7/1
賀来俊彦範士の記事から

最近、西村の書き込みは『心法』の部分が多いですが結局これにつきるのです。
これに至技術的なところは機会を変えて書きます。
賀来先生談
『敵はわれにあり
われに克は腹を作れ』

『最近になって攻め勝つとは相手ではなく、究極的には自分に克ことではないかと思うようになりました。』

『打ちたい、勝ちたいという気持で稽古をしても上達していかないと思います。
素直、謙虚、思いやりの心をもって相手と和することが大事ではないでしょうか。』

賀来先生が持田先生からいただいた言葉
『打つな、打たれなさい。
相手と仲良く和やかに、姿勢は美しく、匂うがごとく残心を』

西村コメント
何と見事な教えでしょうか!』

『2007/9/23
賀来先生
「西村、俺はなあ!先生に居ない所を打たされていたんだよ!』
見せられて、引き出され、有ったはずの所を打ちに行っていた。
竹刀が動き始めた瞬間、見せられたものはそこには無い。
見た物を打ちに行ったのであって、見たその瞬間から、そのものはそのままでは無かったのだ。
そこに気がつかなかったのだ。
西村コメント
ここに気がつけば剣道は大きく変わるのだ。
『見せて、引き出し、そこが貴方の弱い所ですよ、欠点ですよと、教育的打突をしてあげる。』
これが元立ちの心がげなのだ!

2007/11/4

今回の最大の記事です。
『原田源次先生と賀来先生との立ち会い。
原田源次先生が大きな面を打ちました。
賀来先生はピクリとも動きませんでした。
面に来る竹刀を受けようともしませんでした。
西村的には賀来先生の居つきと判断をしました。
西村的には、原田源次先生の大きな面が二本決まったと大層嬉しい思いをした一戦でした。
しかし、原田源次先生が会場を出てきての一声は全く逆でした。
「今年の賀来先生は凄い!動じない!」でした。
相手が動じないのに打ってしまった自分の負けを認めた声でした。
剣道は奥が深い・・・・と感じた一瞬でした。
この時、動じない相手に打ってしまった時、それは心の世界では負けを意味することだと知りました。』

これが、その時の西村の理解です。
その後、今回観た感想ではずーっと奥が見えました。
賀来先生は『師の位』で原田先生と向かい合っていた・・・です。』

『2008/2/3
カゲロウの様な緩みから打つ。
先日の木曜日カゲロウの様な揺らぎ・・・・どこかで感じた事があるのに気がついた。
・・・・そうだ、賀来先生の緩やかな・搖やかな構えの雰囲気を思いだした。
相手の心が動いた瞬間に誘い込むように、手元をヒョイと引きながら、ポッと体を出して小手を打つ。
あの雰囲気に似ているのだ。
猫が得物を狙っている時、お尻をモゴモゴとその瞬間に備えているような雰囲気だ。

2008/1/5
賀来先生の桐の木刀の話しを思い出し、帰り道に尚武堂に寄って、二天一流の軽いペラペラに近い樫の木刀を買った。
これを少し振ってみたら、普通の竹刀と同じ手の動きで振れた。
西村は竹刀が重くても、軽くても、持っていなくても同じ様に手が動く。
今日は重さを全く感じない極端に薄い木刀で素振りをした感触を大切にして稽古をしてみようと思った。

重い竹刀も軽く使える様になった。・・・スピードには少し難が有るが!
軽い竹刀を重く遣う、かつ切れ味鋭い振りの稽古を始めようと思った。
それは手が動けば竹刀が動く、竹刀の重さを全く意識しない稽古だ。

賀来先生のい言葉の書き抜き。
『桐の木刀は軽すぎて構えても無駄な力が入らず、手の内が自然に納まります。
素振りをしても全く力を用いないで、左手で円を描くように振ることが出来ます。
この感覚を念頭から見失わない様に竹刀の操作を修練すると、右手打ちの弊害も完全に解消して心も平静になってきます。
まさに『手の内の出来たる人の取る太刀は、心にかなう働きをなす。」と
いうところへ到達すると思います。』

『2008/2/11
今回は賀来先生の2002/3剣道時代の『審査員の目』を考察してみましょう。
『竹刀は握らずに自然に持てば良い。』
『打とう打とうという思いからつい握ってしまう。
それが右手打になってしまう。
自然に持ったままで打てばよい。
それは相手と争わない気持になることではないか。』
『軽い桐の木刀で構えて振ってみた。
右手打ちの弊害も完全に解消し、心も平然となってきた。
要は竹刀の振りかぶりを右手の引き手であげようとする動作です。
賀来先生はこれらを『力を抜くこと、相手と和する心』解決された様です。
意識の変革で全てが変わるということです。

西村コメント
形を変える、動きを変えるには、その奥の変えるべき所を教わっておく必要がある。』

『2009/2/20
岡田先生の書き込みより
 西村先生、ご無沙汰です。
いつもありがとうございます。

 早速ですが、賀来先生、この前(2月2日)京都の稽古会の後、いつもの駅まで送る車の中でいみじくも言っておられました。
「みんな考えて打っているわい・・」「どこをどう打とうとかなぁ・・・」
さすがですね西村先生、おっしゃるとおりですね。
 賀来先生との稽古は決して面白くはありません。しかし、わかった八段連中は必ず懸かっています。
ああいう範士が最近少なくなったようですね。その点、京都稽古会は求める者にはチャンスがあります。
ありがとうございました。

2008/2/20
賀来先生の打!その秘密。
以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。
賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。
さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。
それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。
賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。
井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。
(賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)

『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。

何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。
虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。
この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。
一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」
一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。
ということである。

賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。』

『西村コメント
犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。
自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。
一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。
剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。
成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。
自分に自信が無いとこの決断は難しい。
やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。
体は意識の変化を微妙に体現化している。
それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。
打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。
打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。
無意識が打つと決めれば
・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。
反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。

猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。
ネズミを捕まえる時も同じだ。
穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。

この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。
犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。
そこには及び腰的な構えがある。
猫は全く無防備だ!
ただ捕まえることのみに意識がある。
それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが)
心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。
相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。
これには意識が関与しない。
相手にとっては色が全く見えない。』

『ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。
「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。
どちらの動きが速く強いかという問題である。
蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。
『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。
その為に『心と体の準備』が必要になる。
ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。
新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。
心の準備も身体の準備もいらない。
あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。

蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。
そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。

西村の再度のコメント
どうですか?
貴方は相手をどのように感じて対峙していますか?
相手は熊ですか、犬ですか、蜂ですか、蠅ですか?
自分の思いで自分の動きは解放されもすれば規制されもするのです。
それ故『心法』の追求が、あるレベルあら重要になってきます。
上級者になれば身体的な動作の差は余りありません。
しかし、心の差は大きくあります。』



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賀来先生特集-2に入る前に


無想剣・神妙剣
・・・頭の意識を抜いた内なる神、内なる無意識の世界に武術の真髄があるからだ。
これは、内田樹(つたる)先生の本から引用した過去記事を参照・
心が動かないことを『不動心』と云う。
原田源次先生が西村にお前なら判るだろうと言って『不動智』なる厚手布に染め抜いたものを頂いた。
その数年前に先生から話を聞いた。
「不動心ではダメだ、不動智でなければならない。
心を丹田に納めるだけではなく、肚の底でころころ自由に転がして置く必要がある。
その赤い心の球が智として(叡知)働くから、いかなる時にも素早く対応ができる。」
この対応が人間の叡知の反射なのだ。

原田源次先生「手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!」
原田源次先生の手は条件反射の世界にあり、体の捌きも条件反射だからあの抜き胴が出来る。
原田源次先生「剣道は読みと反射だ!」と言われている。
武道はこの反射の世界で相手に対応するのだ。
しかし、この反射を妨げる物は脳が決めた強い指令系統なのだ。
その為この反射を最大限に生かすには、心を無にする必要がある。

小川先生
息を吐き続け踵に落とす、さらに踵から膝に戻すんだよ!
このころには、息ができないから失神寸前で自分も相手の存在を忘れている。
ここへ相手が打ってくる(危害を加えようとする)、体の防御機構が勝手に働く。

打ってやろうとすると、脳が指令を発し無意識レベルで予備動作を起す。
そして、無意識の決定後しばらくして有意識が面を打つことを決断する。
ここにタイムラグがあることを皆様は御存知ない。
無意識の決定は体を通して相手にサインを出してしまった事になる。
高段者になると、相手のサインを読む能力が高い。
無意識レベルで打とうと思った時、既に相手は知っているから簡単に取られる。
だから、打ちに行くと云う事は斬られに行くことなのだ。
『古来より、剣道は先に打ち出した方が負けと決まっている。』黒田鉄山談
ではどうすれば良いか?

高校時代
大将戦だった。
時間いっぱいだった、気がつけば自分に旗が上がって勝っていた。
どうなったのか全く判らない。
後で聞くと、見事な抜き胴だったと聞く。
自分には全く覚えがなかった。
西村コメント
当時、私は面一本で、小手も胴も試合で打った事は全く無かった。
しかし、抜き胴を打っていた!

原田源次先生
・見事に先生に面入った。
 しかし、打とうと云う意識は全くなかった。
 気がついたら面を打っていた。
・先生と合気になり、ただひたすら息を吐き続けた。
 意識が無くなりそうになった時、気がつけば先生に面が入っていた。
(原田源次先生に意識をもって面を打てたことは一度もない。)
西村コメント
前回、原田先生にお会いした時、先生が小川忠太郎先生から聞いた話を実戦した。
蹲踞から立って、只ひたすらゆっくりと息を吐いた、足の踵から息を吐いた。
ここからヒザに戻すんだよな!と閃いたところから、何も判らなくなってしまった。
失神寸前の状態だったんだろう。
自分が消えてしまった状態だったんだ!

賀来先生
ひたすら意識を宇宙と一体感になるだけに集中した。
ただ、ボーッと立っている状態だった。
気がつけば、先生得意の小手を摺り上げ面入っていた。
後で、賀来先生が言った
「お前は隙だらけだ!」
先生の前にただ立っていたら、先生が小手に危害を加えに来た。
先生が隙だと思ったのは西村が無になっていたからだ。
そこへ先生の勝手の都合で小手を打ちにきた。
それを無意識(叡知・内なる神)が防いだだけなのだ。
後は形として身に付いた動きが摺り上げ面を打っていた。
西村コメント
何をやってもダメならば、自分は先生の前に立っているが、宇宙と一体化し、自分を宇宙に溶け込ましてみようとそう思って、静かに息を吐き、唯突っ立っていただけだ。
前に賀来先生がいることすら忘れている状態だった。
賀来先生が言う様に隙だらけに違いない。
攻めも、打つ気も、守る気もない。
只木偶の坊(デクノボウ)の様に立っているだけなのだから。
しかし、先生の小手を摺上げに見事に面を打っていた。
・・・打ったのではなく、気がつけば打っていた・・・なのだ!
参考
新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、
陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。

移香斎は指南の最後にこう言った。
「陰流の極めは、己を斬ることや。
難題やなあ。
斬れるか?
斬れまい。
暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」

2008/8/10
岡田さん、今日は賀来先生と盛岡でお話しをする機会が有りました。
「いつも三重の岡田がお世話になっています。」と話したら、最初は八段の岡田先生が頭に出てきた様でした。
「前よりチョット下がったなあ!」と言われました。
七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。
「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。
今日お伝えしたい事は賀来先生がこう言いました。
「送ってくれる30分間、質問をしょらん。色々聞けば教えたい事が有るのだが、いっこうに聞かないんだよ!時間が有るから聞けば良いのに。」
西村
「そうですね!いつも禅問答の様な話らしいですね。」
賀来先生
「何でも聞けばいいんだよ。」・・・との事でした。
次回稽古の帰りには具体的な質問をされてはどうでしょうか。
先生も御歳ですから、後何回質問のチャンスがあるかしれません。

最近の西村の剣道を話しました。
君には範士ぐらいとの稽古が面白いだろう。
もうそのぐらの腕になっている。
歯科医師の先生方も腕前をあげて来ている、その辺りの剣道を伝えて欲しい。
あなたの仕事だよと言われました。
以前の先生との稽古で上達を認められた様です。
八段を取らない事に御叱りを受けましたが・・・いずれその時が来るのを自然に待ちます。

西村コメント
『七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。
「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。』
賀来先生のお墨付きがあります、自信を持って受験して下さい。
2008/8/21
全日本選手権の記念大会で中倉清先生が日本を代表する選手と稽古を披露した。
中倉先生には全く歯が立たないのだ。
ビデオで中倉先生と当時大阪府警の首席師範との稽古を観た。
圧倒的に中倉先生の優位な稽古だった。
このことを佐藤博信先生に聞いた事がある。
現役の大阪府警の主席師範が何故手も足もでないのですか?
それは力が相当差があるからなあ!
今の西村には十分理解が出来るが、当時そのことが疑問であった。
西村の剣道の理解レベルがその程度であったと言う事だ。

京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。
申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。
稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。
先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、
少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。

古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。
賀来先生が言った。
「西村がビデオで撮っている。
あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」

西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。
しかし、稽古ではこの通りなのだ。

2009/5/7
今回の京都ではある会で奈良の賀来先生のお話を聞くことができました、それはだいぶ違う剣道でした。

関根さんの剣道は一般的な剣道の上達とは違った形で伸びています!
肚が出来ている!と感じる剣道です。
相手の攻めに動じない肚があるので、西村もなかなか崩せません。
武道館で関根さんの剣道を時々見ていますが、剣技は元立の八段の方が上ですが、
肚の出来具合は関根さんの方がズーッと上です。
今回の稽古でも崩せない関根さんに西村も苦労をし、結局は攻めでは崩せませんでした。
西村の体を餌に釣り出すと心が動いた様です。
右に行くのは右手が強いか、体を捨てきっていないか、どちらかはわかりませんが検証をしてみて下さい。
関根さんの昔を知っている西村から見ると今は雲泥の差を感じます。
ある年齢になると剣技や体を鍛えるより肚を鍛える方が上達する様な気がします。

賀来先生の話の要約を聞かせて下さい。
お願いします。

なんか褒めて頂いて有難うございます。
肚のことは西村先生に一番教えていただいたことだと思います。
ただ、相手をただ舐めているような事にならないよう気を付けていきたいと思います。
賀来先生のお話は、霊とか宇宙の話から始まり中村天風の門をたたき8段審査に合格したこととか、剣道教士小関数政の九重の位、神武は殺さずを解説されました、内容は、腰骨を一つにすると自然ムの一穴に気治まりとか、緒家にては腹を張り気海丹田へ気を治むるなどと云う伝へあれど腹を張らんとすれば息迫り呼吸続ずして修行なり難し、とかのお話でした。
此の話は西村先生の考え方と同じではないでしょうか。

そうですか!
賀来先生も中村天風の教えで受かったのですか。

中村天風先生の面白い読み物があります。
結核を治したのは結局は心の変化だったのです。
インドでの瞑想で気がつかれました。
その経緯が本になっています。
護国寺に行けば天風先生の肉声のテープも手に入ります。
腹の底から響く先生の声に、西村の苦しい時は随分と励まされました。
皆様もこの方面へ意識を持って剣道に励まれることをおお勧めいたします。
剣道が本当におもしろくなるのは『心法』に興味を持った時からです。
西村の剣道観をお読みください。

西村コメント
天風先生の肉声のテープは心底心に響くものでした。
西村はこのテープを何度も聴いて(車の運転をするたびに流して聞いていました)
感謝しています。

2009/5/14
佐藤先生:賀来先生
これは見物でした!
先ず一番見て欲しいのは・・・・
佐藤先生のスーッとゆっくり足から入り込む攻め入りです。
さすがに賀来先生手元が上がった。
賀来先生のお返しの、全く逆の場面もありました。
これも見事です!
佐藤先生が下からスーッと攻め入り面を見せ、賀来先生が動いた瞬間面を打つ。
相手の懐深くスーッと攻め入りながら、引き金は相手に引かす我慢、不動智が働くに任せる。
そのときスッと面を打つか、すりあげて面を打つかは自分で決めない!
相手に随がって打つ!
究極の技が見えます。
これは西村が書いた剣道観そのものの教本の様な立ち会いでした。
賀来先生がこのように打たれたのを初めて見たし、佐藤先生が同じ様なお返しを打たれたのも初めて見ました。

剣道というよりは、体を捨てて相手の心を観る!の実演でした。

これがまさに『無刀の位』の立ち会いです。

全剣連合同稽古会6/9

武道館に着く。
駐車場に入れる前に佐藤博信範師に出会った。
西村、車越しに先生に言った。
「先生!賀来先生との京都の立ち会いは良かったですね!
先生の本に書かれている通りの動きでしたね!
触刃の間からもう一つ入る!ですね。
さすがの賀来先生の手元も浮きましたね!
その後の面も同じですね!
しかし、賀来先生もさるもの、同じ手で先生を攻め小手を取りましたね。
剣道の醍醐味・真髄はここですね。
ここで自分を捨ててサーッと入る。
先生の本の通りでした。」
佐藤範師が言った。

追加
あれ!佐藤範師の顔が無い。
道場の右手の壁に座って稽古の様子を眺めていた。
少し顔がむくんでいたせいなのかと心配した。
帰り道場を出たところで先生に会った。
君にあったあと、少しめまいがしたので稽古を控えたそうだ。
先生が言った。
「原田先生の稽古ぶりをじっくり見たよ!
全く無駄な動きが無いよ!
見事だよ!」
車中、原田先生が言った。
「森島先生と話をしていた。
『合わせるのが上手いね!』と褒められた。
剣道は合わせるしかないものなあ!」

そういえば、福岡高校での初稽古の時、原田先生の次に元に立たれていた先生に、西村が言われた。
「あなたは合わせるのが上手いね!」
弟子は師匠に似た剣風になるのだろうと、ふーっと思った。
剣道は結局、合わせるしかない。・・・原田先生
触刃の間合いからスッと体を入れながら、相手の動きに合わせて打つ、ここしかないのだ。
『触刃の間合いからスッと体を入れる。』高段者の剣道(佐藤博信著)
結局は打つ前に死ぬ!
後は『智』に任せる!
剣道も人生も『極意』ここに尽きる!・・・・と西村は思うのだ。

武道館での稽古を見ても、意地の張り合い、打ち合い、叩き合い、フェンシング様剣道のオンパレードだ。
2005/5/24
最近の西村の剣道観
・攻めて、緩めて誘って(身を捧げる『捧身』)相手に随って勝。
・相手の誘いに乗ってあげて、身を捧げる『捧身』にて体に任せる。
・活人剣、無刀の位です。
三橋先生曰く
剣道は『読みと反射だ!』
【読み】
西野悟郎先生、静岡の井上先生両先生共に・・・
先生が面を見せて西村を誘う。
西村はそのお誘いに進んで体を出して面を打たんとする。
しかし、左手はしっかり懸中待、先生は面を来るものと信じて小手を打ってくる。
大先生といえども、小手に来ると分かっていればそれを捌くのは訳が無い。
軽く摺上げて面をいただくこと三本。
信じられないと思われるでしょうが・・・これが『読み』です。
相手の誘いに乗る勇気・『捧身』が必要です。

野正先生
先生の剣先を裏から体を入れんと身を捨てて押す。
先生はこれを強く押さえ込みに懸かる。
『浮木』の原理で、ヒョイッと剣先を返してゆっくり、しっかりと出かけていた体をさらにお大きく入れて大きな面を打つと見事に入る。
打たれた先生は大喜びで褒めてくれた。
これは賀来先生と野正先生との立ち会いで、賀来先生が出された技.
賀来先生
「攻めたら、あいつさがりよった、逃げた相手は打てんわなあ!
そこで、あいつの性格を知っている。
裏から押し上げて攻めようとした、案の定強く押し返して来た。
気が強いからなあ!そこでヒョイッと剣先をかわして面だよ!」
西村「今度東京で野正先生に試してみます。」と賀来先生に言った。
虎の巻持参で野正先生と対峙した。

2009/8/22
『睡中抓痒処(すいちゅうそうようしょ)』
眠っている時でも手は勝手に痒いところを掻いたり抓ること。
意識が無くても身体は勝手に必要な事をしている。

ズーッと昔の話であるが、試合はそっちのけで賀来先生の話を半日聞いた事がある。
その話の中で「足が痒いのに頭を掻くやつは居ないわなあ!」との話を聞いた事がある。
「意識が無くても身体は勝手に必要な事をするもんだよ。」と説明をいただいた。
『睡中抓痒処』は伊藤一刀斉の伝えた言葉である。

『手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!』原田先生の言葉だ。

要は手の動きは自分の意識を超えた、内なる何らかの力が適切に対処している(これを反射と取るか、智と取るか、無想の動きとるか、神妙とるか、原始的防御機構、本能と取るかは自由である。頭の意識が作用していない一瞬の適切なる絶妙なる判断をして手を動かしている(体を動かしている)事を認識出来れば、剣道からの人間の探求も終わりに近づき、剣道もこれを知る事から、新たな人生への道を開く事が出来る。

さて、一刀斉がまだ弥五郎と名乗っていた時の事だ。
『天下一の剣』伊藤一刀斉(著 小島英記)の小説の一節を書き抜く。
本を買って是非お読みください。

『愛欲の地獄にこの数ヶ月はあったのだ。
いつか二人は、ドロドロした眠りのなかにいた。
そのとき、彼は顔に痒みを感じて、手で掻いた。
秋の迷い蚊に刺されたのである。
その瞬間、弥五郎は飛び起きた。
「これだ!」
「何なの!」
祐美が呆気にとられて見ていた。
天啓というべきだろう。
体が痒ければ、睡眠中の無意識の内にも、おのずと手は患部を掻いている。
そのように自然に剣も遣えばいい。』

この天啓が降りたあと、師の鐘捲(かねまき)自斉と対峙したとき。
自斉は呆れかえった。
「フーム、突然、お前には狐でもついたか?」そう呟いた。
「いえ、そうではありません。
ただ、先生が打とうとされると、それが私の心に映ります。
ただ、それに応じるだけです。
人間は頭が痒いと自然に手が頭に行くものです。
それと同じ事です。
この妙とは心の妙であって、先生から教えられるものではありません。」
弥五郎はすらすらと答えた。
彼は後に『睡中抓痒処』と伝えている。
無意識の行為は、激しい修行の果てに、ふいに現れたのである。
自斉の驚愕と感動こそ大きかった。
「でかしたぞ、弥五郎。
それは当流(中条流)に云う無相剣、すなわち形なくして万剣に通じる心、わしとて未だかってつかめぬ境地じゃ。
確かにお前は、わしを追い抜いた。」  』

どうです!面白いでしょう!  最近の西村の書いている事が剣豪小説の一節に上手に書かれています。
・・・・読んでみましょう。

賀来先生との最後の稽古
前回は西村の小手面が決まりお褒めを頂いていた。
今回は先生と稽古をしている相手が、合図により引き出され捌かれていた。
西村の番になった時、先生はやはり面を打てとばかりに合図をされる。
西村はこのお誘いに乗って上げる。
先生は来たかとばかりに、対応しょうと左手を動かす。
西村の無意識はそれを見て適切に対応して、上がりかけた小手を打ち面に伸びる。
ゆっくりと申し合わせ稽古、形稽古の様に決まる。
周りで見ている人からすれば不思議な光景だ。

重複しますが重要な項目です。
無刀の位、無刀の境地は死ぬも生きるも超越した境地なのだ。
吾と天地が一体になった時、相手が自分に害を及ぼそうとした時、身体が勝手にそれに対応している。

あるとき、京都の朝稽古で賀来先生に稽古をお願いした。
自分が思えば先生に伝わっていることは知っている。
そこで、植芝先生の宇宙の中に溶け込む、天地自然と合一化を目指した。
賀来せんせいの前に竹刀を持って立っているが、先生を見ている訳ではない。
ただ宇宙の気を頭から取り入れ足から地に返しその循環を意識した。
前にいる賀来先生の存在すら意識が無い状態になった。
その時、賀来先生が打って来た小手を摺上げ面を打っていた。
面を打った瞬間に吾に帰ったのだ。
いつも出来る訳ではないが、西村は時々出来る。
賀来先生が後から言った。
「西村は隙だらけだ!」あれほどの先生でもその時の西村を隙だらけだと思い小手を打つと、西村の『智』に見事に摺上げられ面を打たれたのだ。
これは師匠との稽古で息を吐き続け目の前がくらっと暗くなった瞬間、先生の面を見事に打っていた経験が有る。
これと同じだ。

山岡荘八先生の柳生石船斎の本の一節を書いておく。
『人間は、人間を作った天地自然と合一化した時に、一つの不思議を顕現し得る力を持ている・・・』
いわゆる神妙剣の極意なのだ。

この状態に意識が変成したとき、信じられない動きが出来るのだ。

  特集終わり 
  追伸  
  書いてある事は既に秘伝書、剣道教本に載っています。西村は自分を通してそれが身に付い  て来た過程を書いています。
  これが参考になって先生方の更なる成長に役立てれば幸いです。


何と今回の暮れから正月について書いて来た事が、西村剣道の実践編に多くが書かれているでしょう1
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次のレベルの実験を
西村雅興
2015年11月24日(火)
『脊髄反射レベルまで訓練することは、
誰にでも可能ならばいいのですが、
容易なことではありません。
西村先生のお話を聞いていると、
出来るのでは?と錯覚してしまいます。』

実験、有り難うございました。
このような反応の書き込みがあると励みになります。

脊髄反射を使った実験のその次を紹介します。

相手の手の下に自分の手を持って行きます。
自分が手を離す、相手が掴み損なう、落ちて来たお札を自分が掴みます。
これを何度も繰り返したら、今度は自分の落としたお札を間髪を入れずにお札を掴み抜き取る様にします。
相手は何も無いが、見ていたお札があるはずだと信じて掴みに来ます。
1/1000秒の素早い反応が出来る自分の脊髄反射の世界へ、目が見て、脳が判断をし、掴めと筋肉に指令を送り、その指令を受けた筋肉が指の摘み動作のまでにかかる股間が0,2秒です。
0,2秒と云う事は2/10→1/5秒の時間がかかるという事です。
あらかじめすべき事が設定されている自分の脊髄反射に、相手がノコノコと嵌まり込んで来るのです。
自分から見れば相手は超スローモーションです。

これはお札ですが、自分はお札を掴みに行かないで、相手が掴もうとしている手を、左手で軽く叩けば小手になります。

出小手は相手が打って出て来るところを小手に切ると教えていますが、そんな事を考えていては出小手は打てません。
面に来る動作を自分の目が認識し、脳が指令をし、筋肉が小手を打つには相当な時間がかかってしまいます。
目が認識した小手の位置は竹刀が打ってもそこにはありません。

出小手を打つのは簡単です。
相手に面を見せて打とうとしたところを待っていて小手を打つのです。
面を見せるが先、お札の手放し。
相手が面に打って来るがお札を掴みに来る行為。
そこを小手に斬るが自分がお札を掴みに行く行為・・・です。

先をかけるという事は、生理的視覚、脳、判断、筋肉指令で行為という神経径の伝達速度を脊髄反射の瞬間の世界へ引きずり込む作業です。
このように打って出て来る相手を西村は『飛んで火にいる夏の虫』と読んでいます。

先生方は剣道は先が大切だ、重要だと言いますが、何故?に十分に答えないで教えるから、教わる方がピントがボケてしまいます。

『月影
ギリギリの間合いからそっと右足を間境へ入れると、相手の目は無意識ながらそれを捉え、それに対抗すべき準備を始める(このとき頭は参加していない)、こちらから見ればその準備は予備動作として、そこはかなく見え。
相手のむ無意識を察知できている。
後は無意識が打つと決めて、頭が(有意識が)打つと決めるには少しタイムラグがあります。
このタムラグに乗じて身を進め十分に打つ体勢を準備している。
相手の頭が打つと決めた瞬間、左手が動き始めます。
相手はこの動作が終了するまで他の動きができません。
こちらは相手の拳が動いた瞬間、条件反射で打つので頭は参加していません。
これが『石火の幾』です。
火打石を打った瞬間に火花が出る様子です。


石火の機(せっかのき) って、どんなこと?

 
沢庵和尚の著した不動智神妙録の中で述べられていることです。

火打ち石は打った瞬間に火花が発するものであり、
後から発するものではありません。

そのように打突の機には間も隙間もない。
心の留まるべき間のないことをいいます。

心が留まることは我が心を人にとられるもので
心を留めてはならないという教えです。


 内田樹先生の掲示板から抜粋
合気道が開発するのは武道的なデリケートな身体感覚、「機」ということである。
「石火の機」「啐啄の機」、呼び方はいろいろあるけれど、散文的に言えば「情報入力と運動出力のあいだに時間差がない」ということである。
通常の中枢的なシステムでは、身体環境にかかわる情報入力について「これは何を意味するか」について推理がなされ、「これにどう対処すべきか」という判断が下され、それが運動系に「こう動け」という指令として伝わる・・・というふうにリニアなプロセスが考想される。
武道的な身体運用では、こんなことをしていると「夜が明けてしまう」。
「入力即出力」というのが武道的身体運用の標準であり、理想を言えば「出力即入力」である。
「出力即入力」というのは、「なにげなく刀を振り下ろしたら、そこに首を差し出してくる人がいる」ということである。「なにげなく手を差し出したら、そこに顔面を差し出してくる人がいる」ということである。
実際に達人の技を見ていると、そうとしか形容しえないということがある。

今回の西村の書き込みから、次の実験をしてみて下さい。
人を操るのは何と簡単か。
その報告を待ちます。

さらにログ検索から  「 内田  」で検索をするとお役に立つ書き込みがあります。
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年の暮れのプレゼント-1 賀来先生特集
西村雅興
2014年12月29日(月)
前日の昼、数時間かけて纏めようと思ったが出来なかった。
その後、朝まで思いが燻るので出来る範囲で書く事にする。
勝った負けた、当たった、打たれたに捕われる人に興味の無い話だが、剣道を吸う齲十年修行して来て、それなりに思う所がある高段者には更なる世界への道しるべになるかもしれない。
田伐さんのお陰で秘蔵映像シリーズに出会い、師匠・原田先生と賀来先生の立ち合いを映像で再認識する機会を得た事は千載一遇のチャンスであった。
賀来先生が、西村に剣道たるものの意味を皆様に伝える様にとの配慮だったと思い再び書く事にする。
原田先生が目指したものより一段高く、崇高な世界の様な気がします。

禅の世界の究極の修行を通して到達する処。
小川忠太郎先生の教え・・・相手と『不二』の境地。
賀来先生はこの境地で剣道をされていた事がようやく西村にも理解が出来た。

ある所より抜粋
「人間社会の形成」、即(すなわ)ち「事理相忘」、「自他不二」。
 これが剣道修行の大目的であります。
「事理相忘」というのは、修行をし抜いて、一切をやり切って、修行していない人と全く同じになる。
 これを「利他上の悟了同未悟」という。
 
 人間の社会生活に於いては、「人間と人間が自然につながるもの」がある。
 この人間と人間をつなぐもの、これを「一点無縁の慈悲」という。
この「自他不二」の形を示せば、「合掌」です。

 自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。

 この話をかつて持田盛二先生にしたら、「小川さん、剣道でそこへ行けるかも知れない」と。
 先生のご心境は高い。
 ここが最高の十段位です。
こちらが本当に『慈悲の心』になりきっておれば、相手も『慈悲の心』を起こして、斬れなくなってしまう」ということを言っているのです。

 剣道でも本当にそういう構えで対すれば、相手が打てなくなってしまう。
 これが最高の修行ですから、平素からこの心掛けで修行することが肝要です。』


 西村コメント
『自分の人格を拝み、同時に相手の人格も拝む。
 そこまで行けば、剣道でも、自分もなく、相手もなくなってしまう。
禅に「瞋拳(しんけん)笑面を打てず」という句があるが、これは「合掌」の精神です。
 瞋(い)かって握り拳(こぶし)を固めて赤ちゃんを撲(なぐ)ろうと思っても、赤ちゃんがニコニコ笑っていると振り上げた拳を降ろせない。』

かって京都で若々しい清々しい剣道をする青年と稽古をしたことがある。
面の中でニコニコしているのである。
何とも始末が悪い。
ニコニコしている相手に打って出る事は出来ないのだ。
困ってしまった!
終盤になって彼はキッとした表情で打ってきた。
すると西村は何のためらいも無く切り取った。

このような不思議な稽古をしたのは、西村の剣道人生で後にも先にもこの一回きりであった。
彼は幼少期に本当に人から愛されて育った人なのかと思った事だった。
(それとも、全く逆の育ち方をしたのか?・・・いまだにわからない)
以後、彼との稽古で、押しても引いても、誘っても乗って来ない。
御見合い状態・・『相抜』になってしまう。
以後、彼の稽古を観ていると、八段範士、八段教士とも同じ稽古をしている。
相手がこの状態を打破症と強引に二段三段と攻め込んで来たときは、その強引さに負けるのではなく、相手の意志を尊重して打たれてあげている。

ある範士八段との稽古ぶりをある山梨の人が言った。

西村先生は範士の起こりを素早く小手に取り、相手がそれに気づかずに後打の面を打ってきた時、相手にせず知らん顔をしている。
このとき、範士は小手を打たれた事すら気づかず、「俺に何本面を打たせれば気が済むのだ!」と西村に言った。・・・この範士、自分が先に打たれた事を本当に判っていないのだ。

誰でも知っている剣道連盟の中枢にいる範士だ。
いつ観ても、品のない向こう意気の強いだけの剣道をしている。

さて、同じ範士とこの青年が稽古をした。
同じ様に小手を先に取っている。
その後、強引な打に打たれてあげている・・・・人が良い剣道だ!

彼が言った「西村先生は小手を取った後、相手の強引な打に知らん顔をして、相手にしていない。島野は人が良いから打たれてあげている!」

西村は強引な攻めや打をしないから、稽古をすれば御見合い状態だ。
彼は人が良いから、最後には打ち込んで来て西村に打たれて終わる。
誠に人間が出来た人だ。


ここまでが前置きです。

2004/1/15
次は久し振りに野正先生と稽古をした。
先生と一度稽古をしたときは、気争いで先生が「参った!」といわれ蹲踞された。
二回目は西村の足が痛くて稽古にならなかった。
今日は三回目だ。

野正先生と賀来先生先生の立ち合いを十分検証している。
さらに、その時のやり取り、心の状況を賀来先生から直接聞いている。

しっかり間合を取ったところから、体を軽く沈め攻めた。
先生はそれを嫌ってわずかに引いた。
ここまで、賀来先生の攻め通りだ。
その後
西村の面が数本入った。
いよいよ最後だ、先生の裏からぐっと攻め入った。
先生は軽く巻くように西村の竹刀を押さえる。
ここをスッと抜いて体を大きく、先生を上から被るように大きなゆったりとした面を打つ。
これが見事に入る。
先生が参ったと蹲踞された。
この部分は京都大会での賀来先生との立ち合いの再現そのものだった。

虎の巻き持参で野正先生との稽古だった。
相手が読めれば大先生にも良いところが入る。

稽古の後、挨拶に行くとニコニコして握手をされた。
直ぐ横の原田源次先生先生の方を見ながら、原田系統は皆強いや!
体から打って出るものなあ!
と誉めて頂いた。
体は関係の無い、気攻め、読みあいの稽古だった。
虎の巻を持っていた分だけ、西村の歩が良かった。

さて、虎の巻とは何か?
前年度の京都大会で賀来先生と野正先生が立ち合いをされた。
それを西村は直に観ていた。
剣道雑誌でこの立ち合いについて解説、評論が載っていた。
西村の解釈とは違うのだ。
そこで、ある時、西村の解釈を賀来先生に直接話した。
西村の解釈が正しかった。
その後、賀来先生がそのときどう考えていたかを聞いた。
『俺が攻めた!あいつは下がりよった!下がられれば打てないわな!
あいつは気が強いそこをついた。
裏から相手の竹刀を押し上げる様にあげた。
気が強いから押さえに来た。
そこを軽く浮木の原理でかわし、面を打った。
それだけのことじゃよ!』
西村はこの虎の巻を持って野正先生に臨んだ。
それをそのまま実行した。
剣道は相手を知り、相手が読めれば、その裏をかけば、相当腕の差があっても何とかなる・・・ということだ。

2005/12/24
田伐先生
昨日、賀来先生と稽古して呼吸の大切さを教えて頂きました
原田先生も同じようなことをおっしゃってましたよね…
西村コメント
呼吸は結局自分の意識の反映の様な気がします。
息を吐きながら呼気で攻め続けるとき、十分合気になって相手の打ち気が強くなったとき、相手の気を吸うように吸気に転ずると、相手は攻めの緩みと勘違いして打ってくるようです。
自分も相手の方へふらっと体を預ける様な感じになります。
心が死を覚悟してこの様に前に出れば、時として夢想剣・神妙剣の様な打ちが出たことがあります。
何度かこの経験があります。

2006/1/16
未発と起発
無意識が面を打とうとすると、未発が見える。
かって、賀来先生に見事な小手を何本も打たれた。
足も手元も全く動いていない。
しかし、行くぞ!と、スーッとわずか5センチ程腰の位置が前に出た瞬間だった。
この瞬間、先生の剣先は西村の小手をとらえていた。
これは京都大会でも範士八段の先生が同じように打たれていた。
西村がスッと腰を出したのも、賀来先生の攻め(未発の動き)に起されて、負けじと気当たりしたような気がする。
こんな話だと闇の世界に入ってしまう・・・ので、西村流の説明。
無意識が面を打つと決めると、
友意識が起発する為の予備動作が体内の奥から既に起こり始めている。
それは腰の備えであったり、やや重心を沈め床をつかみ蹴る準備をするとか、小胸を出して胸を開き、両肩を後ろに引き、肩甲骨を引き、後は肩を前に出せば、竹刀を押し上げる準備をしている。
右足の膝は緩み重心が既に前方に緩く滑落し始めている。
この予備動作は一瞬に起こるのではなく、起発へとつながる一連の筋肉の連動なのだ。
それは腰の中央の丹田付近から発せられる。
大きな動きに備え姿勢維持とそこから上下に発せられて動きとなるからだ。
この動きの始まりが『静止』からの動きならば瞬時にそれは行えるし、『停止』状態からだと、この一瞬に静止の状態、ニュウトラルに戻す必要がある。
身体に適度な緊張感の中、いつでも動ける状態を『静止状態』という。
左かかとがベッタと床に着いた状態(右足の場合が多いが)は身体の動的緊張状態が抜け、姿勢維持のみの平衡感覚的な筋肉となっている。
西村がよく言うのだが『身体が休めをしている!』
これは左手元の状態にも言える。
西村コメント
ここでのポイント
『静止と停止』  この言葉の違いを知らずに、稽古の最中に試合の最中に停止をしてから面を打とうとする人が多い。
一呼吸遅れての動きになる。

2006/5/8
剣道上達の大切なことは、コツ、秘訣、秘伝を教わるか、盗む事なのだ。
『稽古をすればするほど癖が強くなり下手になる。』
賀来先生の言葉だ!
千代田で見ても足から攻め入って面を打つ先生はほとんど(数名)いない。
60人稽古をしていても1/20程度なのだ。
今回出版された本を読んで、西村の過去の書き込みと比べて欲しい。
言わんとする事は西村と同じだと思う。
2006/9/8
賀来先生の朝稽古
飄々として、相手の打ち間に入っていく。
相手は打つしかない!
この賀来の入り鼻にどう対処するべきか。
結局は竹刀ではない。
自分の位を下げないことだけの様な気がする。
ヒョイと出てくればヒョイと出る。
先生の左手が上がるのを待つか?
難しいのは、出てきながら左拳を下げ竹刀の先を上げ加減にくる。
こちらが竹刀を動かせば、先生はそこを受けるか取りに来る。
我慢・辛抱・居つきのない自然体に任せれば(反射)道が開けるかもしれない。
一昨年、夏の稽古で先生のこの攻めは入りに、西村は思わず小手面を打っていた。
このときは見事に入り褒められた。

22006/5/17
田伐さんの書き込みより
14日に賀来先生とお会いする機会を得ました
その中から…
「高度な技術はなかなか伝え難く、又、絶えやすい運命を有していると言われる
 人間形成の道としての平和な時代の剣道は必然、巧みさを争う方向へ流れ易く、
 古人が求めた術とはほど遠いものになってしまうのではないか…」 とのことでした

ちなみに、今年の演武は「不動心」だったそうです
お話を聞いて 「ほぉ〜・・・」 でした!

2004/8/10
岡本先生の書き込みより
確かに自分はまだまだ当てるだけの剣道なのだと再認識致しました。
「身体で打ち切る」ということを、目で見て、実体験してよくわかりました。実際に身近に見本があって具体的に理解できるということは誠に有難いことだと感謝の気持ちで一杯です。
今後の課題として精進していきます。

帰りの列車で、賀来先生と偶然一緒になりました。
「今日最後西村先生と稽古なさっていましたが、西村先生は難しいですよね」と尋ねました。
すると賀来先生は、ニコニコした素晴らしい笑顔で「全部見える。すべてわかっている」とお答えになりました。そのレベルというかは自分には到底わかりませんが、凄いを通り越してそういった世界もあるのかなあと不思議な気持ちになりました。

三条先生との稽古は良い参考になったでしょう。
手で打ってはいないですよね!
身体全体で打ちきっていますよね!
あなたにこの気迫が備われば、そのとき既に七段です。

私が岡本先生の全てがわかっている様に、賀来先生から見れば、西村の全てがお見通しと言うことです。

西村が先生に言いました。
『先生!間合は結局のところ、自分の心の余裕ですね。」
と言うと。
賀来先生
「そうだ!」と言われました。

『全部見える。すべてわかっている』
賀来先生は何も考えていないのですね。
自分が無であるから、先生は先入観のないただの鏡になっている。
そうすると、西村の全てが先生の心に写されてしまっているのです。
西村コメント
この頃は賀来先生が霧の中に立っている様な感じで稽古をして頂いていました。
その2年後は西村も成長をいたしました。


2006/8/7
ある八段を目指す先生が言った。
「賀来先生には何時打たれるのか分からない!」と嘆いていた!
西村が言った。
「それは心を手玉に取られたからだ!」

奇跡的な超能力的経験が西村には常識の世界なのだ。
この世界に比べれば、相手と対峙した剣道ではもっと相手を理解しやすい。
相手の心は体にありありと表現されているからだ。
剣道をしながら相手の心の奥が見えてくる。

さて、久しぶりに賀来先生にお願いした。
実はお願いしたのではなく、先生と心の対話を体と竹刀で語りあったのだ。
皆様!先生の「打て!」の合図で打っている。
先生は相手が動作に入りかけると、既に体は右に開いている。
いないところを打たされているのだ。
西村の番になった。
先生とは約二年ぶりかと思う。
先生お得意の内小手を軽くいただく。
それで、剣先の位置を少しあげる。
以後打たれない!
先生が「打て!」と合図をする。
西村は喜んでそこに嵌まってあげる。
スッと打つような感じで体を出すのだ。
しかし、竹刀は動いていない。
先生は面に来る事を予測し、既に面を止めようと手元が上がっている。
そこの小手は取れる。
西村の竹刀が後から動くから対処が出来るのだ。
今度は小手面と行くと案のじょう上手く止められる。
しかし、小手から面の動きに一テンポずらすと面が入る。
止めようとした竹刀が降りかけた所を打つのだ。
ふーっと合い気なると、今度は先生のお得意の面が来る。
そこは分かっているから胴に返せる。

先生と思わずに、ただ波動の意識で語り合えば、先生の合図に乗ってあげる。
先に体を出し、面を緩めると先生の心が面に動く。
要は語り合いの世界なのだ。
西村コメント
賀来先生と剣道をすれば全く歯が立たない、全て西村を見透かしてしまうからだ。
では、西村が命がけで修行をして来た心の世界、意識波動の世界、念力の世界、奇跡の世界・・・これらの集大成で臨めばどうか?
『剣道をする訳ではない。波動の意識で語り合えば、心の対話をすればどうか?』
何とかなるのだ!

2007/5/31
賀来先生の妙技

本当に上手い!こんな仙人の様な技は賀来先生の境地だ!
(しかし、西村はその裏をかく妖術がある、)

相手を呑んでいる。
井上先生の重厚な構えもなんのその、竹刀を使って少し反応を試している。
スッと左足を右足に付けて次の準備をする。
右膝を緩めふわりと体を沈め、この時、身体全体は宙に浮いた感じで、相手の反応を待っている。
さらに、なおかつ頭は行くぞと合図をする。
相手がこれに反応したら打つだけなのだ。
相手が面と思えば手元が上がるから、上がり鼻を小手に取る。
打たれてみると判るが、右手がピクッとした瞬間はすでに打たれている。
これは何年も前の井上先生との対戦も同じだった。
西村も散々打たれました・・・どうして打たれたか全く判らないのだ。
ずいぶん昔の掲示板に出しました。
先生はこの小手を、面に跳んで伸ばして打つ。
古川先生に打った、西村のビデオに撮らせる為に三本の面だ。

賀来先生がまんまと小手を井上先生から取っている、同じ裏をかくのだ。
こうなるときつねとたぬきの化かし合いか、相手の心を読んでその先の手を打つ。
これは昨年の夏の賀来先生との稽古でした。


ともかく、ふわりと相手の白刃の下にサラッと身を置く!
打つ前に自分の頭を餌に呼び込み、左拳は虎視眈々とその時を狙っている。
これが懸かりの中の待なのだ!
『懸中待』
このような味のある立ち会いは少ない。

送る車中で
原田源次先生に賀来先生と井上先生の立ち会いを話した。
ある意味見事な一語で井上先生の弱点を突いた。
賀来はそこを見事に逆手にとったのだ。
動きではなく、心の奥が見えれば勝負は終わりなのだと判った。

西村コメント
今の西村の対処法
西村はこの時、打ちに出ません。
体を進め反応するだけです。
左手は納めたまま!
次は先生が困ります。
おそらく来た!と先生が受けに回り返す・・・摺り上げ面が多いが・・
先生が左拳で竹刀を先に動かせば、浮いた小手を取るのは易しい。

2007/7/1
賀来俊彦範士の記事から

最近、西村の書き込みは『心法』の部分が多いですが結局これにつきるのです。
これに至技術的なところは機会を変えて書きます。
賀来先生談
『敵はわれにあり
われに克は腹を作れ』

『最近になって攻め勝つとは相手ではなく、究極的には自分に克ことではないかと思うようになりました。』

『打ちたい、勝ちたいという気持で稽古をしても上達していかないと思います。
素直、謙虚、思いやりの心をもって相手と和することが大事ではないでしょうか。』

賀来先生が持田先生からいただいた言葉
『打つな、打たれなさい。
相手と仲良く和やかに、姿勢は美しく、匂うがごとく残心を』

西村コメント
何と見事な教えでしょうか!

2007/9/23
賀来先生
「西村、俺はなあ!先生に居ない所を打たされていたんだよ!』
見せられて、引き出され、有ったはずの所を打ちに行っていた。
竹刀が動き始めた瞬間、見せられたものはそこには無い。
見た物を打ちに行ったのであって、見たその瞬間から、そのものはそのままでは無かったのだ。
そこに気がつかなかったのだ。
西村コメント
ここに気がつけば剣道は大きく変わるのだ。
『見せて、引き出し、そこが貴方の弱い所ですよ、欠点ですよと、教育的打突をしてあげる。』
これが元立ちの心がげなのだ!

2007/11/4

今回の最大の記事です。
『原田源次先生と賀来先生との立ち会い。
原田源次先生が大きな面を打ちました。
賀来先生はピクリとも動きませんでした。
面に来る竹刀を受けようともしませんでした。
西村的には賀来先生の居つきと判断をしました。
西村的には、原田源次先生の大きな面が二本決まったと大層嬉しい思いをした一戦でした。
しかし、原田源次先生が会場を出てきての一声は全く逆でした。
「今年の賀来先生は凄い!動じない!」でした。
相手が動じないのに打ってしまった自分の負けを認めた声でした。
剣道は奥が深い・・・・と感じた一瞬でした。
この時、動じない相手に打ってしまった時、それは心の世界では負けを意味することだと知りました。』

これが、その時の西村の理解です。
その後、今回観た感想ではずーっと奥が見えました。
賀来先生は『師の位』で原田先生と向かい合っていた・・・です。

2008/2/3
カゲロウの様な緩みから打つ。
先日の木曜日カゲロウの様な揺らぎ・・・・どこかで感じた事があるのに気がついた。
・・・・そうだ、賀来先生の緩やかな・搖やかな構えの雰囲気を思いだした。
相手の心が動いた瞬間に誘い込むように、手元をヒョイと引きながら、ポッと体を出して小手を打つ。
あの雰囲気に似ているのだ。
猫が得物を狙っている時、お尻をモゴモゴとその瞬間に備えているような雰囲気だ。

2008/1/5
賀来先生の桐の木刀の話しを思い出し、帰り道に尚武堂に寄って、二天一流の軽いペラペラに近い樫の木刀を買った。
これを少し振ってみたら、普通の竹刀と同じ手の動きで振れた。
西村は竹刀が重くても、軽くても、持っていなくても同じ様に手が動く。
今日は重さを全く感じない極端に薄い木刀で素振りをした感触を大切にして稽古をしてみようと思った。

重い竹刀も軽く使える様になった。・・・スピードには少し難が有るが!
軽い竹刀を重く遣う、かつ切れ味鋭い振りの稽古を始めようと思った。
それは手が動けば竹刀が動く、竹刀の重さを全く意識しない稽古だ。

賀来先生のい言葉の書き抜き。
『桐の木刀は軽すぎて構えても無駄な力が入らず、手の内が自然に納まります。
素振りをしても全く力を用いないで、左手で円を描くように振ることが出来ます。
この感覚を念頭から見失わない様に竹刀の操作を修練すると、右手打ちの弊害も完全に解消して心も平静になってきます。
まさに『手の内の出来たる人の取る太刀は、心にかなう働きをなす。」と
いうところへ到達すると思います。

2008/2/11
今回は賀来先生の2002/3剣道時代の『審査員の目』を考察してみましょう。
『竹刀は握らずに自然に持てば良い。』
『打とう打とうという思いからつい握ってしまう。
それが右手打になってしまう。
自然に持ったままで打てばよい。
それは相手と争わない気持になることではないか。』
『軽い桐の木刀で構えて振ってみた。
右手打ちの弊害も完全に解消し、心も平然となってきた。
要は竹刀の振りかぶりを右手の引き手であげようとする動作です。
賀来先生はこれらを『力を抜くこと、相手と和する心』解決された様です。
意識の変革で全てが変わるということです。

西村コメント
形を変える、動きを変えるには、その奥の変えるべき所を教わっておく必要がある。

2009/2/20
岡田先生の書き込みより
 西村先生、ご無沙汰です。
いつもありがとうございます。

 早速ですが、賀来先生、この前(2月2日)京都の稽古会の後、いつもの駅まで送る車の中でいみじくも言っておられました。
「みんな考えて打っているわい・・」「どこをどう打とうとかなぁ・・・」
さすがですね西村先生、おっしゃるとおりですね。
 賀来先生との稽古は決して面白くはありません。しかし、わかった八段連中は必ず懸かっています。
ああいう範士が最近少なくなったようですね。その点、京都稽古会は求める者にはチャンスがあります。
ありがとうございました。

2008/2/20
賀来先生の打!その秘密。
以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。
賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。
さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。
それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。
賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。
井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。
(賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)

『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。

何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。
虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。
この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。
一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」
一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。
ということである。

賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。

西村コメント
犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。
自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。
一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。
剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。
成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。
自分に自信が無いとこの決断は難しい。
やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。
体は意識の変化を微妙に体現化している。
それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。
打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。
打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。
無意識が打つと決めれば
・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。
反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。

猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。
ネズミを捕まえる時も同じだ。
穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。

この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。
犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。
そこには及び腰的な構えがある。
猫は全く無防備だ!
ただ捕まえることのみに意識がある。
それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが)
心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。
相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。
これには意識が関与しない。
相手にとっては色が全く見えない。

ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。
「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。
どちらの動きが速く強いかという問題である。
蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。
『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。
その為に『心と体の準備』が必要になる。
ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。
新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。
心の準備も身体の準備もいらない。
あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。

蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。
そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。

西村の再度のコメント
どうですか?
貴方は相手をどのように感じて対峙していますか?
相手は熊ですか、犬ですか、蜂ですか、蠅ですか?
自分の思いで自分の動きは解放されもすれば規制されもするのです。
それ故『心法』の追求が、あるレベルあら重要になってきます。
上級者になれば身体的な動作の差は余りありません。
しかし、心の差は大きくあります。
 
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年の暮れプレゼント-2
年の暮れプレゼント-2
2014年12月30日(火)
賀来先生特集-2に入る前に


無想剣・神妙剣
・・・頭の意識を抜いた内なる神、内なる無意識の世界に武術の真髄があるからだ。
これは、内田樹(つたる)先生の本から引用した過去記事を参照・
心が動かないことを『不動心』と云う。
原田源次先生が西村にお前なら判るだろうと言って『不動智』なる厚手布に染め抜いたものを頂いた。
その数年前に先生から話を聞いた。
「不動心ではダメだ、不動智でなければならない。
心を丹田に納めるだけではなく、肚の底でころころ自由に転がして置く必要がある。
その赤い心の球が智として(叡知)働くから、いかなる時にも素早く対応ができる。」
この対応が人間の叡知の反射なのだ。

原田源次先生「手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!」
原田源次先生の手は条件反射の世界にあり、体の捌きも条件反射だからあの抜き胴が出来る。
原田源次先生「剣道は読みと反射だ!」と言われている。
武道はこの反射の世界で相手に対応するのだ。
しかし、この反射を妨げる物は脳が決めた強い指令系統なのだ。
その為この反射を最大限に生かすには、心を無にする必要がある。

小川先生
息を吐き続け踵に落とす、さらに踵から膝に戻すんだよ!
このころには、息ができないから失神寸前で自分も相手の存在を忘れている。
ここへ相手が打ってくる(危害を加えようとする)、体の防御機構が勝手に働く。

打ってやろうとすると、脳が指令を発し無意識レベルで予備動作を起す。
そして、無意識の決定後しばらくして有意識が面を打つことを決断する。
ここにタイムラグがあることを皆様は御存知ない。
無意識の決定は体を通して相手にサインを出してしまった事になる。
高段者になると、相手のサインを読む能力が高い。
無意識レベルで打とうと思った時、既に相手は知っているから簡単に取られる。
だから、打ちに行くと云う事は斬られに行くことなのだ。
『古来より、剣道は先に打ち出した方が負けと決まっている。』黒田鉄山談
ではどうすれば良いか?

高校時代
大将戦だった。
時間いっぱいだった、気がつけば自分に旗が上がって勝っていた。
どうなったのか全く判らない。
後で聞くと、見事な抜き胴だったと聞く。
自分には全く覚えがなかった。
西村コメント
当時、私は面一本で、小手も胴も試合で打った事は全く無かった。
しかし、抜き胴を打っていた!

原田源次先生
・見事に先生に面入った。
 しかし、打とうと云う意識は全くなかった。
 気がついたら面を打っていた。
・先生と合気になり、ただひたすら息を吐き続けた。
 意識が無くなりそうになった時、気がつけば先生に面が入っていた。
(原田源次先生に意識をもって面を打てたことは一度もない。)
西村コメント
前回、原田先生にお会いした時、先生が小川忠太郎先生から聞いた話を実戦した。
蹲踞から立って、只ひたすらゆっくりと息を吐いた、足の踵から息を吐いた。
ここからヒザに戻すんだよな!と閃いたところから、何も判らなくなってしまった。
失神寸前の状態だったんだろう。
自分が消えてしまった状態だったんだ!

賀来先生
ひたすら意識を宇宙と一体感になるだけに集中した。
ただ、ボーッと立っている状態だった。
気がつけば、先生得意の小手を摺り上げ面入っていた。
後で、賀来先生が言った
「お前は隙だらけだ!」
先生の前にただ立っていたら、先生が小手に危害を加えに来た。
先生が隙だと思ったのは西村が無になっていたからだ。
そこへ先生の勝手の都合で小手を打ちにきた。
それを無意識(叡知・内なる神)が防いだだけなのだ。
後は形として身に付いた動きが摺り上げ面を打っていた。
西村コメント
何をやってもダメならば、自分は先生の前に立っているが、宇宙と一体化し、自分を宇宙に溶け込ましてみようとそう思って、静かに息を吐き、唯突っ立っていただけだ。
前に賀来先生がいることすら忘れている状態だった。
賀来先生が言う様に隙だらけに違いない。
攻めも、打つ気も、守る気もない。
只木偶の坊(デクノボウ)の様に立っているだけなのだから。
しかし、先生の小手を摺上げに見事に面を打っていた。
・・・打ったのではなく、気がつけば打っていた・・・なのだ!
参考
新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、
陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。

移香斎は指南の最後にこう言った。
「陰流の極めは、己を斬ることや。
難題やなあ。
斬れるか?
斬れまい。
暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」

2008/8/10
岡田さん、今日は賀来先生と盛岡でお話しをする機会が有りました。
「いつも三重の岡田がお世話になっています。」と話したら、最初は八段の岡田先生が頭に出てきた様でした。
「前よりチョット下がったなあ!」と言われました。
七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。
「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。
今日お伝えしたい事は賀来先生がこう言いました。
「送ってくれる30分間、質問をしょらん。色々聞けば教えたい事が有るのだが、いっこうに聞かないんだよ!時間が有るから聞けば良いのに。」
西村
「そうですね!いつも禅問答の様な話らしいですね。」
賀来先生
「何でも聞けばいいんだよ。」・・・との事でした。
次回稽古の帰りには具体的な質問をされてはどうでしょうか。
先生も御歳ですから、後何回質問のチャンスがあるかしれません。

最近の西村の剣道を話しました。
君には範士ぐらいとの稽古が面白いだろう。
もうそのぐらの腕になっている。
歯科医師の先生方も腕前をあげて来ている、その辺りの剣道を伝えて欲しい。
あなたの仕事だよと言われました。
以前の先生との稽古で上達を認められた様です。
八段を取らない事に御叱りを受けましたが・・・いずれその時が来るのを自然に待ちます。

西村コメント
『七段の岡田の話ですと言うと、賀来先生が言った。
「ああそうか、あいつはもう八段に受かっても良さそうなのだが!」と言われました。』
賀来先生のお墨付きがあります、自信を持って受験して下さい。
2008/8/21
全日本選手権の記念大会で中倉清先生が日本を代表する選手と稽古を披露した。
中倉先生には全く歯が立たないのだ。
ビデオで中倉先生と当時大阪府警の首席師範との稽古を観た。
圧倒的に中倉先生の優位な稽古だった。
このことを佐藤博信先生に聞いた事がある。
現役の大阪府警の主席師範が何故手も足もでないのですか?
それは力が相当差があるからなあ!
今の西村には十分理解が出来るが、当時そのことが疑問であった。
西村の剣道の理解レベルがその程度であったと言う事だ。

京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。
申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。
稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。
先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、
少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。

古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。
賀来先生が言った。
「西村がビデオで撮っている。
あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」

西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。
しかし、稽古ではこの通りなのだ。

2009/5/7
今回の京都ではある会で奈良の賀来先生のお話を聞くことができました、それはだいぶ違う剣道でした。

関根さんの剣道は一般的な剣道の上達とは違った形で伸びています!
肚が出来ている!と感じる剣道です。
相手の攻めに動じない肚があるので、西村もなかなか崩せません。
武道館で関根さんの剣道を時々見ていますが、剣技は元立の八段の方が上ですが、
肚の出来具合は関根さんの方がズーッと上です。
今回の稽古でも崩せない関根さんに西村も苦労をし、結局は攻めでは崩せませんでした。
西村の体を餌に釣り出すと心が動いた様です。
右に行くのは右手が強いか、体を捨てきっていないか、どちらかはわかりませんが検証をしてみて下さい。
関根さんの昔を知っている西村から見ると今は雲泥の差を感じます。
ある年齢になると剣技や体を鍛えるより肚を鍛える方が上達する様な気がします。

賀来先生の話の要約を聞かせて下さい。
お願いします。

なんか褒めて頂いて有難うございます。
肚のことは西村先生に一番教えていただいたことだと思います。
ただ、相手をただ舐めているような事にならないよう気を付けていきたいと思います。
賀来先生のお話は、霊とか宇宙の話から始まり中村天風の門をたたき8段審査に合格したこととか、剣道教士小関数政の九重の位、神武は殺さずを解説されました、内容は、腰骨を一つにすると自然ムの一穴に気治まりとか、緒家にては腹を張り気海丹田へ気を治むるなどと云う伝へあれど腹を張らんとすれば息迫り呼吸続ずして修行なり難し、とかのお話でした。
此の話は西村先生の考え方と同じではないでしょうか。

そうですか!
賀来先生も中村天風の教えで受かったのですか。

中村天風先生の面白い読み物があります。
結核を治したのは結局は心の変化だったのです。
インドでの瞑想で気がつかれました。
その経緯が本になっています。
護国寺に行けば天風先生の肉声のテープも手に入ります。
腹の底から響く先生の声に、西村の苦しい時は随分と励まされました。
皆様もこの方面へ意識を持って剣道に励まれることをおお勧めいたします。
剣道が本当におもしろくなるのは『心法』に興味を持った時からです。
西村の剣道観をお読みください。

西村コメント
天風先生の肉声のテープは心底心に響くものでした。
西村はこのテープを何度も聴いて(車の運転をするたびに流して聞いていました)
感謝しています。

2009/5/14
佐藤先生:賀来先生
これは見物でした!
先ず一番見て欲しいのは・・・・
佐藤先生のスーッとゆっくり足から入り込む攻め入りです。
さすがに賀来先生手元が上がった。
賀来先生のお返しの、全く逆の場面もありました。
これも見事です!
佐藤先生が下からスーッと攻め入り面を見せ、賀来先生が動いた瞬間面を打つ。
相手の懐深くスーッと攻め入りながら、引き金は相手に引かす我慢、不動智が働くに任せる。
そのときスッと面を打つか、すりあげて面を打つかは自分で決めない!
相手に随がって打つ!
究極の技が見えます。
これは西村が書いた剣道観そのものの教本の様な立ち会いでした。
賀来先生がこのように打たれたのを初めて見たし、佐藤先生が同じ様なお返しを打たれたのも初めて見ました。

剣道というよりは、体を捨てて相手の心を観る!の実演でした。

これがまさに『無刀の位』の立ち会いです。

全剣連合同稽古会6/9

武道館に着く。
駐車場に入れる前に佐藤博信範師に出会った。
西村、車越しに先生に言った。
「先生!賀来先生との京都の立ち会いは良かったですね!
先生の本に書かれている通りの動きでしたね!
触刃の間からもう一つ入る!ですね。
さすがの賀来先生の手元も浮きましたね!
その後の面も同じですね!
しかし、賀来先生もさるもの、同じ手で先生を攻め小手を取りましたね。
剣道の醍醐味・真髄はここですね。
ここで自分を捨ててサーッと入る。
先生の本の通りでした。」
佐藤範師が言った。

追加
あれ!佐藤範師の顔が無い。
道場の右手の壁に座って稽古の様子を眺めていた。
少し顔がむくんでいたせいなのかと心配した。
帰り道場を出たところで先生に会った。
君にあったあと、少しめまいがしたので稽古を控えたそうだ。
先生が言った。
「原田先生の稽古ぶりをじっくり見たよ!
全く無駄な動きが無いよ!
見事だよ!」
車中、原田先生が言った。
「森島先生と話をしていた。
『合わせるのが上手いね!』と褒められた。
剣道は合わせるしかないものなあ!」

そういえば、福岡高校での初稽古の時、原田先生の次に元に立たれていた先生に、西村が言われた。
「あなたは合わせるのが上手いね!」
弟子は師匠に似た剣風になるのだろうと、ふーっと思った。
剣道は結局、合わせるしかない。・・・原田先生
触刃の間合いからスッと体を入れながら、相手の動きに合わせて打つ、ここしかないのだ。
『触刃の間合いからスッと体を入れる。』高段者の剣道(佐藤博信著)
結局は打つ前に死ぬ!
後は『智』に任せる!
剣道も人生も『極意』ここに尽きる!・・・・と西村は思うのだ。

武道館での稽古を見ても、意地の張り合い、打ち合い、叩き合い、フェンシング様剣道のオンパレードだ。
2005/5/24
最近の西村の剣道観
・攻めて、緩めて誘って(身を捧げる『捧身』)相手に随って勝。
・相手の誘いに乗ってあげて、身を捧げる『捧身』にて体に任せる。
・活人剣、無刀の位です。
三橋先生曰く
剣道は『読みと反射だ!』
【読み】
西野悟郎先生、静岡の井上先生両先生共に・・・
先生が面を見せて西村を誘う。
西村はそのお誘いに進んで体を出して面を打たんとする。
しかし、左手はしっかり懸中待、先生は面を来るものと信じて小手を打ってくる。
大先生といえども、小手に来ると分かっていればそれを捌くのは訳が無い。
軽く摺上げて面をいただくこと三本。
信じられないと思われるでしょうが・・・これが『読み』です。
相手の誘いに乗る勇気・『捧身』が必要です。

野正先生
先生の剣先を裏から体を入れんと身を捨てて押す。
先生はこれを強く押さえ込みに懸かる。
『浮木』の原理で、ヒョイッと剣先を返してゆっくり、しっかりと出かけていた体をさらにお大きく入れて大きな面を打つと見事に入る。
打たれた先生は大喜びで褒めてくれた。
これは賀来先生と野正先生との立ち会いで、賀来先生が出された技.
賀来先生
「攻めたら、あいつさがりよった、逃げた相手は打てんわなあ!
そこで、あいつの性格を知っている。
裏から押し上げて攻めようとした、案の定強く押し返して来た。
気が強いからなあ!そこでヒョイッと剣先をかわして面だよ!」
西村「今度東京で野正先生に試してみます。」と賀来先生に言った。
虎の巻持参で野正先生と対峙した。

2009/8/22
『睡中抓痒処(すいちゅうそうようしょ)』
眠っている時でも手は勝手に痒いところを掻いたり抓ること。
意識が無くても身体は勝手に必要な事をしている。

ズーッと昔の話であるが、試合はそっちのけで賀来先生の話を半日聞いた事がある。
その話の中で「足が痒いのに頭を掻くやつは居ないわなあ!」との話を聞いた事がある。
「意識が無くても身体は勝手に必要な事をするもんだよ。」と説明をいただいた。
『睡中抓痒処』は伊藤一刀斉の伝えた言葉である。

『手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!』原田先生の言葉だ。

要は手の動きは自分の意識を超えた、内なる何らかの力が適切に対処している(これを反射と取るか、智と取るか、無想の動きとるか、神妙とるか、原始的防御機構、本能と取るかは自由である。頭の意識が作用していない一瞬の適切なる絶妙なる判断をして手を動かしている(体を動かしている)事を認識出来れば、剣道からの人間の探求も終わりに近づき、剣道もこれを知る事から、新たな人生への道を開く事が出来る。

さて、一刀斉がまだ弥五郎と名乗っていた時の事だ。
『天下一の剣』伊藤一刀斉(著 小島英記)の小説の一節を書き抜く。
本を買って是非お読みください。

『愛欲の地獄にこの数ヶ月はあったのだ。
いつか二人は、ドロドロした眠りのなかにいた。
そのとき、彼は顔に痒みを感じて、手で掻いた。
秋の迷い蚊に刺されたのである。
その瞬間、弥五郎は飛び起きた。
「これだ!」
「何なの!」
祐美が呆気にとられて見ていた。
天啓というべきだろう。
体が痒ければ、睡眠中の無意識の内にも、おのずと手は患部を掻いている。
そのように自然に剣も遣えばいい。』

この天啓が降りたあと、師の鐘捲(かねまき)自斉と対峙したとき。
自斉は呆れかえった。
「フーム、突然、お前には狐でもついたか?」そう呟いた。
「いえ、そうではありません。
ただ、先生が打とうとされると、それが私の心に映ります。
ただ、それに応じるだけです。
人間は頭が痒いと自然に手が頭に行くものです。
それと同じ事です。
この妙とは心の妙であって、先生から教えられるものではありません。」
弥五郎はすらすらと答えた。
彼は後に『睡中抓痒処』と伝えている。
無意識の行為は、激しい修行の果てに、ふいに現れたのである。
自斉の驚愕と感動こそ大きかった。
「でかしたぞ、弥五郎。
それは当流(中条流)に云う無相剣、すなわち形なくして万剣に通じる心、わしとて未だかってつかめぬ境地じゃ。
確かにお前は、わしを追い抜いた。」  』

どうです!面白いでしょう!  最近の西村の書いている事が剣豪小説の一節に上手に書かれています。
・・・・読んでみましょう。

賀来先生との最後の稽古
前回は西村の小手面が決まりお褒めを頂いていた。
今回は先生と稽古をしている相手が、合図により引き出され捌かれていた。
西村の番になった時、先生はやはり面を打てとばかりに合図をされる。
西村はこのお誘いに乗って上げる。
先生は来たかとばかりに、対応しょうと左手を動かす。
西村の無意識はそれを見て適切に対応して、上がりかけた小手を打ち面に伸びる。
ゆっくりと申し合わせ稽古、形稽古の様に決まる。
周りで見ている人からすれば不思議な光景だ。

重複しますが重要な項目です。
無刀の位、無刀の境地は死ぬも生きるも超越した境地なのだ。
吾と天地が一体になった時、相手が自分に害を及ぼそうとした時、身体が勝手にそれに対応している。

あるとき、京都の朝稽古で賀来先生に稽古をお願いした。
自分が思えば先生に伝わっていることは知っている。
そこで、植芝先生の宇宙の中に溶け込む、天地自然と合一化を目指した。
賀来せんせいの前に竹刀を持って立っているが、先生を見ている訳ではない。
ただ宇宙の気を頭から取り入れ足から地に返しその循環を意識した。
前にいる賀来先生の存在すら意識が無い状態になった。
その時、賀来先生が打って来た小手を摺上げ面を打っていた。
面を打った瞬間に吾に帰ったのだ。
いつも出来る訳ではないが、西村は時々出来る。
賀来先生が後から言った。
「西村は隙だらけだ!」あれほどの先生でもその時の西村を隙だらけだと思い小手を打つと、西村の『智』に見事に摺上げられ面を打たれたのだ。
これは師匠との稽古で息を吐き続け目の前がくらっと暗くなった瞬間、先生の面を見事に打っていた経験が有る。
これと同じだ。

山岡荘八先生の柳生石船斎の本の一節を書いておく。
『人間は、人間を作った天地自然と合一化した時に、一つの不思議を顕現し得る力を持ている・・・』
いわゆる神妙剣の極意なのだ。

この状態に意識が変成したとき、信じられない動きが出来るのだ。

  特集終わり 
  追伸  
  書いてある事は既に秘伝書、剣道教本に載っています。西村は自分を通してそれが身に付い  て来た過程を書いています。
  これが参考になって先生方の更なる成長に役立てれば幸いです。
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覚醒催眠
西村雅興
2014年2月21日(金)
六段は攻め合い,打ち勝った方が受かる。
七段は違う、八段は完成度が要求されるはず、現実は審査員の心のレベルか(?)であるが。

七段審査で攻め合って,相打ちになり双方不合格。
『押しても駄目なら,引いてみな』
フッと攻め緩めると、相手がふらっと打って来る・・・シメタものだ。
ふーっと打たれに出ると「エ!」と言う感じで相手に打気が出る。
相手との対峙を忘れ,一瞬自分を宇宙と一体化する。
相手は不思議な感覚に襲われ打ちに来る。
相手が打つと気を入れ体と肩を入れ込んで来る、そのとき心で「ぞうど!」とつぶやき、頭を差し出す。
相手の無意識は頭を打ちに来る。
後は自分の身体の『智』に任すのだ。
反射的に身体が何かをやっている。
この反射的にやっている自分の『智』を信じきれるか・・・・。
信じた自分を褒めれたとき・・・素晴らしい幸せに包まれる瞬間がある。
普段感じる事の出来ない自分に出会う瞬間なのだ!

剣道の相手は自分を見つめる手助けをして下さる相手なのだ。
敵ではなく素晴らしい協力者なのだ。

さて、スポーツチャンバラと抜刀術の師匠の田邊哲人先生は真の武道家だった。
指導者は『教育的打突』によって、「ハイ!そこがあなたの欠点ですよ」と相手の心の指導をするものだと教わった。

西村は道場でこれを実践すると、先生は本気で相手にしてくれないという。
本気で打ち負かすと二度と稽古をしてくれない。
お世辞稽古が必要な人が多いのには閉口する。
しかし、松風館の門弟は違う。
打ちのめさないと許してくれない。
剣道への意識の違いなのだ。

京都で柳生の里での同期の稽古界を見ていると清々しい感じがする。
お互い攻め合い打合いのレベルだが。元立ちは緩めて先を取っているのが見える。

剣道は『心の押し合い,引き込み、勘違い、錯覚、神経系統の失調』を通して、覚醒催眠の実践世界と一度考えて取り組んではどうだろうか。

剣道は打ち合う前に勝負が終わっている事が分かる。

最後に
『武道的思考』 著者・内田樹 筑摩書房 ¥1600を読んだ感想を書いて下さい。
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武道的思考
西村雅興
2010年12月12日(日)
今日は新しいインプラントのセミナーに行って来た。
後発の会社が製品を出すには今までにあった問題点を解決した製品であること、コストが安い事である。
今回興味を持ったのは西村自身がインプラントで苦い経験をして来た事が見事に解決している事であった。
それにコストも半減している。
いわゆる新進気鋭的発想の製品なのだ。
古くて信頼が有る〜〜とあぐらをかいていてはいては後退している事だ。

さて、剣道を考えてみよう。
先人達が命をかけて研鑽した、それも自分の命を危険に晒し、多くの命を奪った結果の珠玉のエッセンスが秘伝である。
昔の人は自分の命を正真正銘懸けて発見し悟って来た。
歯科ではどうだろう。
西村は35年間自分の命と人生を懸け、自分の身体で人体実験して来た。
行き着くところは歯と噛み合せと身体構造の神仏の意志の理解であった。
それを教えようとしてもこの世にそれを引きついてくれる人はいない。
秘伝を教えようとしても着いて来れる人は皆無なのだ。
自分の命を懸けてまでやる人がいないのだ。

剣道も歯科医道も入り口が違えど、結局は自分の中の神仏、自分自身を信じれるかに尽きるのだ。
その探求の方便として有るのだ。
旧態以前とした過去の概念を一度振り払ってみよう。

今日,買った本
セミナーの帰りに大きな本屋に立ち寄ってヒョイと目に留まった。
どうやら内田樹先生が西村に手招きした様だ。
これから読むのだがほぼ内容は分かっている。
しかし、武道の本質を剃刀の様に切って表現してあるところが凄いのだ。
おそらく、やっぱりそうだよな!と思いながら読むのだろう。
一時期先生の本からの引用で書き込みをした事が有りますから、ログ検索で見て下さい。

いつもながら長い前置きですが,ここからが本題です。

『剣道は攻めだ!』と皆様言っている。
大先生もしかり!
西村は剣道家はまだまだそのレベルかと呆れてしまうのだ。
西村は後1ヶ月、1月7日で65歳になる。江戸時代ならばとっくに死んでいる時期だ。
もういい加減悟っても良い年なのだと思っている。

『剣道は自分の中の智に出会う為の便宜的方法』と理解している。
『剣道は攻めだ!』相手を攻めて打ち負かそうなんて発想はもう止めた方が良い。
特に七段を取れば剣道を通してインナーツリップ(自己の探求)だとハッキリ意識を持ちたい物だ。

『剣道は攻めだ!』・・・・・?????

ダニエルの言葉
ダニエル・ミルズは、日本にいる三名の公認ロルファーの一人です。
私は彼との出会いによって、身体の奥に溜まったストレスを解放するボディーワークを学びました。ダニエルの著作「光の中へ」に、私のことが書かれていますのでその一部を紹介します。

『彼は既にマスターレベルの武道家であり、次への昇段試験を計画中だった。武道家もこのレベルになると、技術やテクニックは決定的な要素となることはない。彼は言った。「敵よりも優れた技術を持ち、相手を負かすことが勝利に結びつくのではない。乗り越えなくてはならない問題は、相手を敵とみることだ。敵がいるかぎり敗者がでる。精神的なレベルでは皆、兄弟だ。一人が負ければ、もう片方も負けなのだ」。ロルフィングをしながら会話は続いた。「葛藤が消える意識状態があるはずだ。敵が消え、自分の一部である友人だけが残る意識状態が存在する。このビジョンを持てれば、葛藤は消える。敗者はいない。勝者だけが残る」彼は試験に受かった。簡単に、しかも歓びをもって。試合は始まる前に終わっていた。試合はなかった。敵を完全に自分に受け入れてしまったのだノ僕たち一人一人が現状の中で嫉妬と怖れと怒りと不足欠乏からなる競争心を彼のように超えようとするならば、人類に未来はあるかも知れない』
私が七段になったときの話です

ダニエルは言います。「私はロルフィングをしながら愛を語り、その人を支えます。その人が愛を取り戻したとき、病気は治り初めています。西村先生も歯を治療しながら愛を語っています。その意味で、あなたは既にヒーラーなのです」

これは随分前にHPを作った時に載せた記事です。
ダニエルはアメリカ人でロルファーで柔術家です。
奥さんに三国さんはプロのヒーラーです。
目下はハワイにてセミナーを開催中と聞く。

日本の剣道家からこの様な言葉が出るでしょうか?
武道の本質がここにあるのです。

合気道の創始者、植芝先生は宇宙と一体の自分を感じられての演技でした。

私の尊敬する柔術家 三枝先生もこの域に達し、見事な世界を披露されています。(ユーチューブにて参照)

西村は武運に恵まれ原田先生に出会い
『手は勝手に動くわなあ!足はそうわ行かない!』
『打つ前に死ぬ,死ぬ気で打つ、打った後見事に死んでみせる』
『いつ捨てるかが課題だ』
『剣道は一瞬の我慢比べだなあ!』
上記の言葉を体現で切る様にこころがけてきた。

あるとき「西村ならわかるだろう・・・『不動心』ではなく『不動智』と書いた物を頂いた。
ずーっと『智』を求めて師匠の後を追っかけた。
そして、あるときこれだと気が付いた
しかし、何の事は無い,歯科医道ではとっくにそこに至っていたのだ。歯科医道では命を懸けていたから気づきが早かった。
要は自分が消える瞬間なのだ。

抽象的では分かりにくいので剣道的に話す。

六段は攻め合い,打ち勝った方が受かる。
七段は違う、八段は完成度が要求されるはず、現実は審査員の心のレベルか(?)であるが。

七段審査で攻め合って,相打ちになり双方不合格。
『押しても駄目なら,引いてみな』
フッと攻め緩めると、相手がふらっと打って来る・・・シメタものだ。
ふーっと打たれに出ると「エ!」と言う感じで相手に打気が出る。
相手との対峙を忘れ,一瞬自分を宇宙と一体化する。
相手は不思議な感覚に襲われ打ちに来る。
相手が打つと気を入れ体と肩を入れ込んで来る、そのとき心で「ぞうど!」とつぶやき、頭を差し出す。
相手の無意識は頭を打ちに来る。
後は自分の身体の『智』に任すのだ。
反射的に身体が何かをやっている。
この反射的にやっている自分の『智』を信じきれるか・・・・。
信じた自分を褒めれたとき・・・素晴らしい幸せに包まれる瞬間がある。
普段感じる事の出来ない自分に出会う瞬間なのだ!

剣道の相手は自分を見つめる手助けをして下さる相手なのだ。
敵ではなく素晴らしい協力者なのだ。

さて、スポーツチャンバラと抜刀術の師匠の田邊哲人先生は真の武道家だった。
指導者は『教育的打突』によって、「ハイ!そこがあなたの欠点ですよ」と相手の心の指導をするものだと教わった。

西村は道場でこれを実践すると、先生は本気で相手にしてくれないという。
本気で打ち負かすと二度と稽古をしてくれない。
お世辞稽古が必要な人が多いのには閉口する。
しかし、松風館の門弟は違う。
打ちのめさないと許してくれない。
剣道への意識の違いなのだ。

京都で柳生の里での同期の稽古界を見ていると清々しい感じがする。
お互い攻め合い打合いのレベルだが。元立ちは緩めて先を取っているのが見える。

剣道は『心の押し合い,引き込み、勘違い、錯覚、神経系統の失調』を通して、覚醒催眠の実践世界と一度考えて取り組んではどうだろうか。

剣道は打ち合う前に勝負が終わっている事が分かる。

最後に
『武道的思考』 著者・内田樹 筑摩書房 ¥1600を読んだ感想を書いて下さい。
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Re:武道的思考
剣悠 まえしん [HomePage] [Mail]
2011年1月25日(火)
初めて書込みさせていただきます。沖縄の 前泊 と申します。

2年ほど前から、先輩より西村先生の掲示板を紹介頂き、拝読させてもらっています。
ですので、以前に紹介されていた柳生兵庫介や日野晃先生の書籍も読ませていただきました。

内田樹先生の『武道的思考』について

「武道的」という観点で、世の中の出来事を縦横無尽の切り口で論理的に解説してくれていると思います。
こと、自分自身の内にある神性を磨き、感覚を研ぎ澄ましていくと宇宙全体と一体化した覚醒状態になり、
人間の身体は必然的に最善の動きを行う。
同じ様に、哲学的にも個人対個人、地域対地域、ひいては国家対国家の相互の立場や観点やまでも分析し
『必然的に最善の動き』を模索されているのだと感じました。

印象に残っているのは、ヴォーリス建築の『仕掛け』はその扉を開けた者しか感受できないという所です。
今、私の剣道において『叩き合い』から『武道的』な稽古への扉を開けられた思いがしています。

もうひとつは、『対立しているものを対立させたまま両立させる』
二つの能力を同時的に開花させるにはそれらを葛藤させるのが最も効果的である の所です。
剣道的に言えば、意識的には攻撃的な攻め、無意識のなかで相手との一体化(敵を作らない)でしょうか。

そしてイチローのバットの動きになぞらえた『出来るだけ決定を先伸ばしする』。
これは、西村先生の過去記事文にある「一瞬の我慢比べ」「手は足の三倍速く動く」に通じるものがありました。


二刀流のはくどー先生HP、カナダの熊先生HP、そして西村先生と、ネットを通して剣道の奥深さを垣間見る
ことができ、目から鱗が落ちる思いで、非常に感謝しています。
(こちらの掲示板で、上記の先生方がつながっているのもビックリしました)

生来、日本的なモノが大好きな、未熟者の剣道愛好家ですが、高齢者の達人という、私の求めていた剣道
の方向性を教えて頂きました。

まだまだ、質問等が出来るほど自得していませんが、右足の滑り出しから『月影』の雰囲気が感じるように
なり、無意識の活用の邪魔をする『打ち気』を抑える段階の修行中です。
剣豪小説のような世界が、少しづつ垣間見れるれることに、嬉しくも楽しく稽古に精進しています。

つきましては、過去ログ検索もあり、膨大且つ貴重な資料を、私達のHPでも紹介したく、LINKの承諾を
お願いしたく存じます。

剣悠 HP →  http://www.k5.dion.ne.jp/~ken_yu/

今後も、私共若輩にご考察を賜りますようお願い致します。


前泊 真
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明けましてお目出度うございます。
西村雅興
2011年1月1日(土)
皆様!明けましてお目出度うございます。
今年の剣運が良い年であります様祈ってます。

前回、内田樹(たつる)先生の武道的思考を紹介しました。
剣道に直接的にお役に立つ様な内容が少なくがっかりしたかもしれません。
随筆の総編集の様な形でしたから。
しかし、それだからこそ彼の言わんとするところが、何度も何度も繰り返し出て来ます。その内に彼の言わんとするところが刷り込まれて行きます。

その文中で興味ある文章を引用致します。

『とりあえず勝負強弱を論じているうちは武道の話は始まらない。』
『武道が想定しているのは危機的状況です。』・・ちょっと西村の方向とは違いますが納得はしています(西村的には道への昇華と思っている)。
『教えてあげたいが、教わりたい人が少ない。』・・・同感!
『「私・剣複合合体」が生成して、それが「動きたい様に、動いている」という体感構造に身体の文法を書き換えるために稽古をしている。無意識のうちに。・・同感
「道場は楽屋、実生活は本舞台』 剣道は竹刀仕事と人生は真剣勝負と西村は思う。
武道というのは「相手の身体能力が高ければ高いほど、「こちらの動きが冴える」・・・・実感
「武道的」というのはギリギリまで削ぎ落とされた合理性の事です・・・同感


近々の体験から
ある患者様の治療計画を立てたが、何としても身体が重いのだ。
三枝先生著「身体は何でも知っている」を思い出す。
CT,シュミレーションソフトでは何回やっても危険だけど可能なのだ!
西村はこのリスクを身体が避けろと合図を身体的情報で送っていると解釈をした。
計画の変更をする承諾書を書いたとたん、身体からスーッと力が抜け軽くなった。
受付が人相が変わったと私に言った。
身体は賢い・・・と思った。
引く事、退却を知った自分を少しばかり褒めてやった。
さて、患者様は変更を快く承諾して下さった。
本来植えるインプラントの歯肉の状態を見て、ハッ!とした。
あの身体的情報はもっと深い意味があった事に気が付いた。
手術は成功、治療も成功・・・
しかし、長期的予後を考えると非常に危険な状況が必ず起こる事に気が付いたのだ。
あの身体的情報はこれを示唆していたのだ。
『引く事、退却を知った自分を少しばかり褒めてやった。』
これは自惚れであった事に気が付いた。
真剣に患者様の治療をするということは『真剣勝負』『両勝ちゲーム』に他ならない。
身体の奥に普段は眠っている『智』が真剣勝負の時に現れたのだ。
この治療は真の『両勝ちゲーム』になるのだ。
今回の経験、剣道ではは80歳過ぎの八段九段の最高の範士との稽古に時々現れる。
西村がこの『智』に自分を委ねたとき、見事な面が決まってしまう。
西村が打ったのではなく、西村か消えた瞬間に『智』が打ったに過ぎない。
内田先生の引用
潜在意識が身体を主宰するとき、意識と意識の間に「空白」が訪れる。
それが「機」である
「空白」というのは、自分が何を考え、何をしているかを「私」が知らないからである。
「石火の機」と『不動智神妙録」はある。
そのとき動きは神速となる。
「神速」というのは「とても速く動く」と言う意味ではなく「通常の時間の流れとは違う流れで動く」と言う事である。喩えて言えば、刀を切り落としたところに、相手が首をさしだしてくれるような動きの事である。
(武道館で全剣連合同稽古会を毎回見ている先生なら、西村のこの瞬間を時々見ておられると思う。)

仕事では似た様な事は無意識で起きていたと思う。
今回は内田先生の本の中の『武道が想定しているのは危機的状況です。』の文章が頭に残っていたので、それを十分に認識したのだと思う。

昔、軍人の高官が盛んに武道の稽古をしたと聞く。
彼らは実際には武器を持って敵と対峙する事は少ない。
しかし、最高緊急時の判断を正確に身につける為に励んでいたと聞く。

西村の周りの多くは七段になった。
西村は原田先生の言葉、賀来先生の短い言葉・・・・・・この言葉の意味を身体で具現化する様にして来た。
西村は1月7日に65歳になる。
80歳を過ぎた原田先生が言っていた・・・今が最強である!(岩崎先生から聞いた)
西村も思う・・・今、長い剣歴の中で過去のどの自分も、今の自分に刃が立たない最強の時である。

稽古、試合の話ではない。
過去のどの自分も今の自分に刃が立たないと言う事だ。
十分に『智』の活用が出来るほどに、自分を信じれる時期に到達して来たという事である。

精神論は、魂論ではなく、次は『隙』について、内田先生の文を引用しながら書くつもりです。

ちなみ、65歳の肉体的衰えはあるものの、内科的身体数字は過去7年間で今が最高である。
これは、アンチエイジングの大家・Dr.満尾の健康管理について行った成果である。
7年前の血管年齢は93歳だった、今は60歳に若返った。
あのまま行けば、西村は今はこの世にいなかったと思う。
人は人との出会いで叩き落とされたり、裏切られたり、救われたりする。
しかし、神は乗り越えられない試練は与えない様な気がする。
今起きている事は、今必要な事なのだと受容し肯定的に進む精神さえ持ちさえすれば。
災い転じて福となす! 万事塞翁が馬!

昇段審査に落ちた時、早すぎる合格を神が案じているのか、もう少し修行をしなさいと言っているのか、稽古方法が間違っているのか、そのエネルギを人生・仕事に向けなさいと言っているのか・・・・・色々考えるチャンスだと思って下さい。

合格したとき・・・努力が報われたと思うか、とりあえずそれだけのパフォーマンスをした評価だと思うか、次の修行の始まりを与えてくれたと思うか、合格後の空しさは人生のエネルギー配分を間違ったと思うか

何にしても、しっかりと瞑想をして自分の内なる心に問いかけてみて下さい。
答えは前向きに出て来ます。
これがないと竹刀当てスポーツで終わってしまう。
剣道になる『道』を求める意味が無い。

年の初めに色々書きましたが、これを稽古に行く途中にふーっと思い出して稽古をして下さい。
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武術の真髄
西村雅興
2008年5月11日(日)
陸上競技の短距離で、ピストルの音を聞いて0,2秒以内にスタートをするとフライングと判定される事になっていた。
しかし、最近明らかに0,2秒以下でフライング無しでスタートを切る選手が出現してきたから問題になっている。
何故0,2秒か?
耳が音を聞き、それが脳に伝わり走れと指令を筋肉に行くのに、生理的に最低0,2秒かかると云う判断だからである。

これが人間の浅はかさである。
人間は意外に人間そのものを知らないのである。
西村は原田源次先生が剣道で知り得た、体験した妙玄の世界を追体験する為に稽古をお願いしている。
判れば判るほど先生のビデオにその世界は表現されている。

無想剣・神妙剣
・・・頭の意識を抜いた内なる神、内なる無意識の世界に武術の真髄があるからだ。
これは、内田樹(つたる)先生の本から引用した過去記事を参照・
心が動かないことを『不動心』と云う。
原田源次先生が西村にお前なら判るだろうと言って『不動智』なる厚手布に染め抜いたものを頂いた。
その数年前に先生から話を聞いた。
「不動心ではダメだ、不動智でなければならない。
心を丹田に納めるだけではなく、肚の底でころころ自由に転がして置く必要がある。
その赤い心の球が智として(叡知)働くから、いかなる時にも素早く対応ができる。」
この対応が人間の叡知の反射なのだ。

さて、耳をピストルの音に傾けたら、耳は音に意識を止め、耳が聞いた音を脳が判断をし、足の筋肉に行動を伝えると最速は0,2秒はかかる。
我々が目に何かが飛んで来た瞬間、『とっさに・瞬時に』手で払う。
この咄嗟(とっさ)の行為には脳は関与していない。
目が物を捕えているが、脳に関与させずに手が動いた。

スタートのピストルの音に意識を止めずに、今正にスタートを切る瞬間に重心を前に懸け、頭を指で軽く触れられても前に転ぶ状態にしておく。
倒れそうな状態をかろうじて維持しているのが精一杯の状態だ。
ピストルの音は倒れを正す反射運動の刺激にほかならない。
音が鳴ると無意識がコケそうな体を起す反射へと誘う。
いわゆる条件反射なのだ。
脳を介在させないスタートとなる。
そうすれば、反射なのだから0,2秒も必要がない。
要は音に条件反射する体を作りあげれば言い訳だ。

原田源次先生が言った。
スタートのコツを教えるには、ヒョイット腰を押してやれば良い。
岩崎先生
同じように面を打つ時にチョント腰を押し、打ち出しの要領を教えている。
(倒れそうになれば、姿勢制御の為に足腰は勝手に動く)

原田源次先生「手は勝手に動くわなあ!足はそうは行かない!」
原田源次先生の手は条件反射の世界にあり、体の捌きも条件反射だからあの抜き胴が出来る。
原田源次先生「剣道は読みと反射だ!」と言われている。
武道はこの反射の世界で相手に対応するのだ。
しかし、この反射を妨げる物は脳が決めた強い指令系統なのだ。
その為この反射を最大限に生かすには、心を無にする必要がある。

小川先生
息を吐き続け踵に落とす、さらに踵から膝に戻すんだよ!
このころには、息ができないから失神寸前で自分も相手の存在を忘れている。
ここへ相手が打ってくる(危害を加えようとする)、体の防御機構が勝手に働く。

打ってやろうとすると、脳が指令を発し無意識レベルで予備動作を起す。
そして、無意識の決定後しばらくして有意識が面を打つことを決断する。
ここにタイムラグがあることを皆様は御存知ない。
無意識の決定は体を通して相手にサインを出してしまった事になる。
高段者になると、相手のサインを読む能力が高い。
無意識レベルで打とうと思った時、既に相手は知っているから簡単に取られる。
だから、打ちに行くと云う事は斬られに行くことなのだ。
『古来より、剣道は先に打ち出した方が負けと決まっている。』黒田鉄山談
ではどうすれば良いか?

高校時代
大将戦だった。
時間いっぱいだった、気がつけば自分に旗が上がって勝っていた。
どうなったのか全く判らない。
後で聞くと、見事な抜き胴だったと聞く。
自分には全く覚えがなかった。

原田源次先生
・見事に先生に面入った。
 しかし、打とうと云う意識は全くなかった。
 気がついたら面を打っていた。
・先生と合気になり、ただひたすら息を吐き続けた。
 意識が無くなりそうになった時、気がつけば先生に面が入っていた。
(原田源次先生に意識をもって面を打てたことは一度もない。)

賀来先生
ひたすら意識を宇宙と一体感になるだけに集中した。
ただ、ボーッと立っている状態だった。
気がつけば、先生得意の小手を摺り上げ面入っていた。
後で、賀来先生が言った
「お前は隙だらけだ!」
先生の前にただ立っていたら、先生が小手に危害を加えに来た。
先生が隙だと思ったのは西村が無になっていたからだ。
そこへ先生の勝手の都合で小手を打ちにきた。
それを無意識(叡知・内なる神)が防いだだけなのだ。
後は形として身に付いた動きが摺り上げ面を打っていた。

ある区の先生
気がつくと相手の横を通り抜けていた。
相手は微動だにせず、西村に面を打たれていた。
その光景を右斜め上数メートルから眺めている自分を感じた。
過去に二回ほどこのような状態になったことがある。

【朝岡先生の所でも載っていた】
{光西寺のHPから転載}
[西村は漫画入りのこの手の本で呼んだ、今その本が見当たらないので転載する]

きこりとさとり
昔何処かで聞いたことのある”きこり”と”さとり”の話です。自分の好きな話の一つです。

 一人のきこりが斧で木を伐ろうと、山深く入ったら、さとりという珍しい動物が姿をあらわした。きこりがこれを生け捕りにしようと思うと、さとりは直ちにその心を読み取り、

「俺を生け捕りにしょうというのかネ」という。

きこりがびっくりすると、

「俺に心を読まれて、びっくりするとはお粗末な話だ」という。

ますます驚いたきこりは、

「ええ、小癪な奴。斧で一撃のもとに殺してやろう」と考えた。

するとさとりは、

「こんどは俺を殺そうというのかな。いやー、おっかない」と、からかうようにいう。

「こりゃーかなわん。こんな不気味な動物を相手にしておったんでは、めしの食いあげだ。こんなものにかかわらないで、本来の仕事を続けよう」

と、きこりは考えた。
するとさとりは、

「俺をあきらめたのか。かわいそうに!」

といった。
きこりはこの不気味な動物を諦めるために、再び元気をだして木を伐ることに没頭し、力いっぱい斧を木の根元に打ちおろした。額からは汗が流れ、きこりは全く無心になった。

すると1/10000か1/10000000の確率かはわからないが、偶然の偶然の、全くの偶然にも、斧の刃が柄から
抜けて、”さとり”に直撃!!!”さとり”は意識不明の重体。
 
お陰で、”きこり”はめでたく”さとり”を生け捕りにすることができた。
 きこりの心を読み取り、きこりをからかったさとりも、無心の心までは読み取ることができなかった。
この内容に近いのが【真剣】での野猿を相手に駆け引きをする練習風景です。
新陰流の祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)が若きとき、
陰流の祖・愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)の最後の教えがこれであった。

移香斎は指南の最後にこう言った。
「陰流の極めは、己を斬ることや。
難題やなあ。
斬れるか?
斬れまい。
暫く俺が若の陰を映しとるから、己の陰を斬る方法を考えてみなはれ。」

これを悟り信綱は、後年『新陰流』を起す。
後年、信綱が柳生但馬守宗厳に『無刀』を課題を与え、柳生を去った。
『生きて真剣の先に見る無刀の境地』である。



高段者になると打ち気は相手に必ず読まれる!いわゆる「さとり」の名人になっていくからだ。【さとられない為には、打ちに行かず打たれに行く。】ここで、足を出す前に、死ぬ覚悟が必要なのだ! 打つ前に死ぬ。しかし、ほとんどの人がこれが出来ない。死を覚悟して人生の何かに挑んだ事があれば簡単なのだが。それほどの人生を経験していないと難しいのかも知れない。こうなると【心法】「生き方」になってしまう。
では、次のレベル【読み勝ち】の世界。西村が何故範士に歯が立つのか。剣道のプロは体に染み込んだ鋭い条件反射を持っている。これを西村の意図で逆手にとるのだ。範士が面を見せたら、思わず面を打とうと体を出す(体をだしてあげる)。先生は「来たか!嵌まったか!」と小手に来る。そこを軽く摺り上げて、ゆっくり面を取る。「面に来たか!」と竹刀で受けに入る・・・西村は挙げ小手を頂く。それが大きく挙げれば・・・そのまま咽に突きを頂く。これはスピードも反射も何も要りません。【読み勝ち】だけです。
西村と稽古をすると本気でやってくれないと怒り、稽古をしたがらない人が多い。剣道について考えている事が全く違うからです。                 西村に打たれたときは、階段を踏み外し様な感じで打たれると皆様言う。     武術の真髄はここにあるのだ。

今の西村の目下の研究課題は【当あて】なのだ。
これは魔術の世界に入るようなものだ。
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全剣連合同稽古2/25 その他
西村雅興
2008年2月25日(月)
全剣連合同稽古2/25

今日は原田源次先生との稽古のみ。
いつもは前の夜には少し気が高まり寝にくい。
昨夜はそんなことがなかった。
当日先生と稽古をすることが判っているが、心は静かだった。

先生の顔を見るとツヤが良くお元気だった。
稽古の前に考えていたこと。
『打ちたいとも思わない。
打たれたくないとも思わない。
ただ静かに対峙して、内なる叡知に身を任せる。
先生と対峙しながら内観することだ。
先生が攻めてきた時、ただ打たれに出よう。
先生の心が動いた時は、内なる叡知に身を任せよう。
ただ、先生の先の動きが始まるを見届ける、さらに呼び込むように打たれに出る。
先生の左手が動いた時は身体が勝手に反応するだろう。』
こんな心境で稽古に臨んだ。
先生がよく観える。
こんなことは今までになかった。
西村の額の第三の目が先生の動きを静かに見つめている。
今までは先生の動きに連れて、西村の竹刀が動いていた。
今日は先生の竹刀の動きに連れて西村の動きが始まる。
相手の動き合わせて体を合わせ、相手の竹刀の動きに合わせ体が動き竹刀が動いた。
要は『如何に相手に先に打たせる!』かが原田源次先生相手に実践できた。
先生の竹刀を捌いて打てたのだ。
こんなことは今までにはなかった。

青木君が的確な表現で稽古の様子を話してくれた。
しかし、この奥深い心の彩までは読み取れなかった様だ。

武道館から新宿へ送って行く車中。
原田先生が西村に言った
嬉しそうな目を輝かせて、喜んで言った。
「今日の稽古は良かった!!」
それも左手で西村の方を向けてを軽く振りながら言った。
こんな褒め方をされたのは、長い先生との稽古で初めてだった。

いつも先生が言っている。
『相手に打たせれば良いんだ!』
これを先生相手に出来たことの評価が高かったのだと思う。

西村が言った。
「最近、やっと先生の言う『相手に打たせれば良いんだ』の意味が理解で来ました。
打とうとすると、それは相手に読まれている。
打たれたくないと思えば、それでは防御に回り裏をかかれる。
結局は心の変化は相手に伝わってしまう。
相手が打つ様に仕向ければ、相手の心の変化は伝わって来る。
相手の心に合わせてれば身体が勝手に対応する。」
先生は笑顔で言った。
「そうだよ!相手に打たせれば良いんだよ!」

結局、剣道は相手に打ち出させる算段をすることなのだ。
苦しくて打って出る様に仕向ける。
ギリギリの間合いで、右足で攻め入り相手に打ち出させる。
攻めを緩めて思わず打って出る様に仕向ける。
打てそうな気にさせて打って出る様に仕向ける。
相手の攻めに誘われた振りをして、打って出るように仕向ける。
相手の攻めに面を指し出し、相手に面を打って出るように仕向ける。


ここから、内田樹先生の引用
『不動智』・・・沢庵禅師『不動智神妙録』
相手の攻撃を「心に」止めず、しかも身体的に「効果的反応」をする。
「心と体を切り離して使う」

『たとへば右衛門とよびかくると、あっと答ふるを『不動智』と申し候。
右衛門と呼びかけられて、何の様にてか有る可などと思案して、跡に何か用かなどといふ心は『住地煩悩』にて候』
呼びかけられて振り返る・・・心が一切入らぬ動き、反射的動き
自分で振り返ろうと思って振り返る・・・思慮が介在し、住地煩悩の精神的要素

『一刀斎先生剣法書』
臨機応変の事は思慮をもって転化するにあらず。
自然の理を以て思わずとも変じ、量らずとも応ずる者なり。

ここから感じるのは、人間の探究において自分であって自分がしたとは思えない動き・・・内なる神の防御機構の発露を感じる。
それを神妙剣・無想剣とも言う。
これを感じるとき不思議な至福感を得る。

敵を忘れ、私を忘れ、戦う意味を忘れた時に、戦うものは最強となる。
なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も、「破るべき敵」もないからだ。

ここから西村の言葉
先生との稽古はこの高い次元の体験への引率の指導なのだ。
いわゆる、内なる知られざる自分への出会いの旅である。
ここが深まればいずれ、神仏(大いなるものの創造主)への道につながると思う。



西村は三枝先生(柔術家・御互道創始者・気功整体師)の操法を受けながら、有ることを言った。
「西村はこれから『遠当て』の研究をしたいと思う。」
柳生兵庫介が小太刀の大家の息子と手合わせした時、気に当てられその子は気絶をした。
松原先生が気を押し出すと相手が倒れた。
Sさんは離れていて相手を動かす。
気功家は離れて相手を動かす。
青木先生は弟子には遠当てが出来る。
西野先生も弟子には出来る。
西村は離れていて相手の気を動かせる。
テレポーションができる人がいる。
若山さんは離れていて、自在にカードを出せる。
身の回りに、一般人では理解不能な現象の存在を知っている。
西村も少しは出来る。
判る範士は攻め負けた時、参ったと蹲踞をした。
これを発展していきたいと思う。
竹刀で当てっこをしているのは、意識の上で勝負が終わった事の証明でしかないから。
そしたら先生が本を送ってくれると言った。

三枝先生

本を送って下さって有り難うございます。

早速読ませて頂きました。
佐川先生が肩に指先を軽く置く・・これは意識・気の流れのスイッチングの誘 発行為です。
(スイッチング:身体調整能力の一瞬の停滞、武道で言えば居つきの状態です)
これは誰にでも直ぐに出来る簡単な方法です。
それをどうして教えないのか不思議です。
これは直接触らなくても、強烈なイメージングで相手に送る事が出来ます。
治療に使うか、武道に使うかの違いだけです。
若山さんはトランプまで自在に出せる。
西村もトランプで赤と黒を12回連続で当てたことがある。
伊藤聖稿先生も離れていて色んな事が出来ます。
寝違いを意識波動で一瞬に治したり戻したり・・その他
西村もここでのセミナーでの幽体離脱体験から、意識・魂のレベルで人間はつ ながっていると確信を持った。
それ以後、自分の一番自身と確信を持つ咬合の意識波動調整には絶対なる自信 があります。
これの確認にOーリングテストをするだけです。
名刺をお札(おふだ)にするのも簡単に出来ます。
お払いも出来ます。
前屈を緩めるのは面白いです。
強烈なイメージはそれ自体意識波動として伝わります。
電話の向こうの姉の腰の痛みを取った事もあります。

佐川先生は武田先生から体験し、それがあることを確信していたから出来る様 になった。
木村先生はそれを体験したから、それがあることを確信した。
保江先生も木村先生から体験し、それがあることを確信した。
誰にでも出来るものだが、誰も信じられない事なのだ。
体験した者にしか確信の世界に入れないからだ。


西村は意識波動能力を伝授する能力に優れている。
軽井沢のセミナーで全員が出来るようになった。
それは、相手に確信させる能力が高いからです。
つまり、教え方が上手なのだ。
武道家は教える能力に欠けているか、ひた隠しにする。
特に一子相伝の極意は意外に簡単なだけに教えない。
企業秘密なのだ。

誰にも存在する能力なのだが閉ざされているだけなのだ。
イメージがエネルギーで空間を伝わる・・・誰も信じない
信じる体験さえさせれば、閉ざされたフタは開く!

今回の本のお礼に、興味深い本を送ります。
間中先生の最後に書かれた本です。
【体の中の原始信号―中国医学とX‐信号系 (単行本) 】

西村雅興先生

わざわざ丁寧な、御礼のメール忝ない。

その通りで、武道家は、教えません(笑)。

私の道場では、もう3分の1ができます。
しかし、教えれば教えるほど、独立して人は減ります(笑)。

でも、それは折り込み済み。
残る人は上手くなって、教える器量ができても、残りますから。僅かですが・・・(笑)

先生のメールやお話しは、本当に面白い。

先生の動くところ、常に真実あり!

三枝誠
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賀来先生の打ち!その秘密。
西村雅興
2008年2月20日(水)
以前に書いたことがあるが、賀来先生の剣道です。
賀来先生は面を打つ時、小手を打つ時、相手に受けられる、かわされる、相手から反撃されると云う事は全く考えていない打ちなのだ。

犬が熊に立ち向かう時、熊の反撃を予測して向かっている。
自分より大きいものからの安全を確保しながらの攻撃である。
一撃で自分が命を落とす危険を察知しているからである。
剣道の場合もこう行けば、相手はこう対応するだろうと頭の奥で計算をしている。
成功率を無意識に計算をしながら決断をするわけだ。
自分に自信が無いとこの決断は難しい。
やっと決断をした時には、自分の決断の正体が相手にバレている。
体は意識の変化を微妙に体現化している。
それが微かであっても、相手の感性が高ければ見抜かれてしまう。
打ちたい意識は・・・右足に重心が懸かってきて、手元が次第に前に出る。
打たれたくない意識は・・・相手の動きに過剰に反応し見透かされて裏を取られる。
無意識が打つと決めれば
・・・小胸を出し肩甲骨を引き肩の前だし余裕を準し、チョット重心を落とし床を掴んで蹴る準備をする。
反撃を予定していると・・・へっぴり腰になるし、打ち切れない。

さて、賀来先生が北海道の古川先生に打った3本の面は、ただヒョイット面を打っただけだ。
それに対し、古川先生は全く反応をしないで見事に打たれた。
賀来先生が静岡の井上先生に打った2本の小手はヒョイット打った。
井上先生は打たれたことすら気がついていないようだ。
(賀来曰く・・・あいつ打たれたことにも気がついていないんじゃないか。)

猫が庭先でコオロギなどを狙っている時、その少し前はお尻をモゾモゾしているがその瞬間ヒョイット跳んで捕まえる。
ネズミを捕まえる時も同じだ。
穴のまえで根気よく静かに待って、出てきた瞬間にヒョイット跳んで捕まえる。

この猫の後ろ姿に注目をしてみよう。
犬は反撃に備えて、さらにそこを予測しながら跳び懸かる。
そこには及び腰的な構えがある。
猫は全く無防備だ!
ただ捕まえることのみに意識がある。
それは相手がどんなに反撃をしても痛くも痒くもない、圧倒的に大きさの違いがあるからだ。(窮鼠猫を噛むという言葉はありますが)
心の葛藤が無いと、打つと決める決断は凄く簡単なことなのだ。
相手が隙を見せた瞬間、反射的に打っている。
これには意識が関与しない。
相手にとっては色が全く見えない。

ここからは内田樹(たつる)先生の著『私の身体は頭がいい』からの引用だ。
「蜂を追い払う動き」と「ハエを追い払う動き」の違い。
どちらの動きが速く強いかという問題である。
蜂を追い払う時は『反撃』を『予測』しなければならない。
『一撃必殺』『逃げ道確保』が必要だ。
その為に『心と体の準備』が必要になる。
ハエを追い払う時はハエの『反撃』という物差しを差し当たり必要としない。
新聞を読みながらでも、あくびをしながらでも、私達はいきなりハエを追い払う動作に入ることが出来る。
心の準備も身体の準備もいらない。
あらぬ彼方を眺め、気持が緩んだまま、なんの予告もなしに、いきなり攻撃に入ることが出来る。

蜂が相手の時は「強く速く打たなければならない」という心理的条件がある為に、動作の前に『一瞬』のためらいが生じる。
そのためらいが動作の反応時間にほんのわずかだが『抵抗』として作用してしまう。

『天狗芸術論』は『人を虫とも思わない』ことの強さを説いている。

何の惧(おそ)るることもなく、人を虫とも思わねば、心を容(い)れて強(すす)むこともなく、凝(こ)ることもなく、しまることもなく、疑うこ事もなければ、動ずることもなく、向かひたるままに思慮を用いる事もなく、心気ともに滞ることなし。
虫でも叩きつぶす心地で臨めば、心も身体も無用に緊張することがないから、持てる運動能力をのびのびと使いきることができると教えている。
この虫を撃つ喩えは二つの知見を含んでいる。
一つは、「相手の強さ」想定しない動きは想定する動きよりも「速く、鋭く、強くなる。」
一つは、日常的な動作からいきなり予告ぬきで攻撃に移る動作は「無拍子」の動きになる。
ということである。

賀来先生と稽古をされた経験のある方は、あの面、あの小手を思い出すでしょう。
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右手の働き
西村雅興
2008年2月3日(日)
掌中の作用

右手の中の引き斬り

剣の基本動作である『斬る』という単一動作のなかには、右手が「押し斬り」、左手が「引き斬り」という異なる二要素が既に働いているが、その右手だけを取り出してみると、その掌の上半分は「押し斬り」、下半分は「引き斬り」をしている。
わたしはそこまでしか見切れないが、その「先」ももっとあるに違いない。
【私の身体は頭がいい。  内田樹著  ページ44】

この先生は柔術家である。
右手(腕)の押しの中に上筋の親指が目指す強力な前への押し出しの力、
その動きの掌中の作用に手首を下に食込ます小指、薬指、中指の締まりが存在することを看破している。
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Re:全歯連関
西村雅興
2007年12月3日(月)
本日も 指導稽古ありがとうございました。
まだまだ 中段は借り物ですが 本物になるまでご指導ください。これで西村先生に教わった京都も もう1つ楽しみが増えました。中段で受験を決め 柄を上段用の長いものから 短くしたので 最初の立会いで決め手に欠きましたが 保坂先生との立会いは 少し満足しました。
立会い前に 西村先生に意識を変えていただいた成果だと思います。お昼の食事に来られると思ったので 挨拶も出来ずに失礼いたしました。
梯先生と西村先生の稽古をみとりたかったのに 時間になってしまい残念でした。梯先生の解説は 大変ためになりました。


昼食の場所をプリント通りに行ったのですが、どうやら会場が不明になって参加出来ませんでした。
沢山お話をしたかったのですが・・・・

今日の剣道を見て安心しました、上段から中段に変えたとは思えないスムーズな面打ちでした。
西村との稽古で「面は額から咽に斬る」、を教えたら直ぐに体で体現出来る能力には驚きました。
その前の面と全く違った、本格的な中段の面打ちになっていました。
最後の面の2本はゴマちゃんにも面打ちの手応えの違いを感じたと思います。
保坂先生に打った面もしっかりと斬って行っていました。
保坂先生相手に中段初心者であそこまでやれれば凄いです。

さて、七段は剣道の理合と相手と自分が見えてくることが大切です。
昔、大学卒業したての時、埼玉北浦和の雄心館道場で稽古をしている時、まだ4段でしたが道場の六段と稽古をして誰にも負けない自信がありました。
当時昇段を目指す剣士は皆日参していた道場です。
私に全く歯が立たない五段が六段を受かって来るので、五段は対した事が無いと自負していました。
卒業した秋に埼玉で5段を受かったのですが、佐藤顕(範士九段)か直接褒められた位です。相手は埼玉の国体選手だったようです。
黙って立っていると県立武道館でも六段が下から懸かって来るので知らん顔をして元立ちに立っていました。
こんなに体力・早さ・打ちに自信あっても・・・
ところが、七段と稽古をすると何ともならないのです。
おくれを取るのです。
相手の動きが速いわけでもない、何か判らないが打てないのです。
その何か?ここが七段への道を開くところです。
当時、高校で剣道を指導している、国体選手経験者も苦労をしていると聞いたことがあります。
彼の剣道は強いのですが、『当てれば受かる』と思っていたからでしょう。
この意識が変わらない限り、惜しいなあ!と思われながら落ち続けて行くのです。
しっかりとした師匠を持たないと、この位の腕になると誰も注意をしてくれません。
強いが故に、それだけ注意を受けられないと言う事になります。
岡本先生は足の故障が幸いして、我を無意識が押さえてくれました。
そうすると、打ち気が消え相手が良く見え、自分の本能・反射が生かされます。

 さて、稽古の際に一度横からビデオを撮る事をお勧めします。
足幅の広さ、左ヒカガミガ折れている事、踵が大きく上がっている事、肩に力が入っている事です。
今日は梯先生から足のことを直々に注意をしていただいたことは宝物を頂いたと思って下さい。
注意を受けても誰から受けたかで心にしみこむ深さが違います。
今の足では今度はアキレス腱を切ります。
勘と瞬発力が凄いだけに危ないと思います。
保坂先生は姿勢と構えが良かったのですが、あなたに剣道の迫力に圧倒された様です。
見習うべきは姿勢と構えです。
特に足の状態は構えを作るのに最高の状態で立っていました。

前にも書きましたが、西村が10年ぶりに剣道を始め、3回目で肉離れ、一ヶ月間の松葉杖、そしてその後二ヶ月間の16回の稽古で六段を受けた時の話です。
10年ぶり20回も稽古をしないで六段を受ける図々しさ。
思い上がりもはなはだしい限りですが、卒業して3医院従業員100人を超える経営を図々しくやっていた頃です。

もし、肉離れをしないで一回で六段に受かってしまっておれば、あのままの人生を送り、西村は今ごろこの世にいなかったと思います。
しかし、西村の運命は次の手紙で救われました。

『冠略
一昨日、武道館で久し振りに拝見致しました。
審査が終了してさがしても見当たらず、
連絡もできないので帰りました。
今回は今少しのところで残念でしたが
おそらく次回は充分と思います。
是非連絡したいので、牛袋君に住所を教えてもらいました。
気の付いたところを二、三御連絡致します。

一、気力、姿勢、態度、手の内とも全く非の打ち所なし、立派です。
一、右足に体重がかかりすぎていました。
  左足のかかとをもっと下ろして両足に平均に重心がかかるようにすると良いと  思います。
  そうすることで左手にぎりが『ツボ』に収まり相手のわざのおこりや、打突の  色のおこりに打ち込める筈です。
  打とう打とうが先になり、肩に力が入り、重心が前足にかかると、相手に色が  見えて打突がおくれると思います。
一、攻めは今のままでよろしいと思いますので、
  相手を打ち込もうと思う気をぐっとこらえて、相手の色(攻める鼻や、打突の  おこり、相手の打突のつきたところなど)に
  合わせた、一生懸命の打突、(小手でも面でも)(肩の力をぬいて) 
  であれば最高です。
  御精進を念じ上げます。
  用件のみで
  十一月二十九日
          原田源次拝
  西村殿


この手紙を読んで、早速ビデオを撮りました。
先生のご指摘通りでした。
ビデオに映る己が姿に顔が真っ赤になりました。
何と醜い心の剣道なのかと。
左足の肉離れで体重が前足に以前よりかかっていたのです。
相手をただひっぱたけば俺は強いの確認作業だった。
逆に言えば「弱虫、」「意気地無し」の証だったのです。
これは剣道以前の問題だ!生き方の問題なのだと気がつき、それ以後は一年間全く剣道をする事なく、ひたすら自己を見つける心の修業をし、二院を10月12月に閉鎖し、翌年正月から稽古を始めました。
すると五月には誰もが認める充分さで受かりました。
稽古回数は約50回でした。

今思えば、あの時剣道を始めた事、肉離れをした事、原田源次先生からのお手紙があったこと、心の修業のチャンスをいただいたこと・・・
1日が20分にしか感じない阿修羅のごとく走ってきて、ビール一杯で朝方吐き気がするほどに体【肝臓】が参っていたのですから。(昔は二升飲んでも平気、ビールは水感覚でした)
原田源次先生の手紙で九死に一生を得たのです。
だから、師匠は命の恩人なのです。
西村が昇段審査を受ける人に指導をするのは、原田源次先生の恩を忘れず、昇段を目指す人に人に親切にすると心に決めたからです。

さて、もい一度書きます。
誰しも自分は立派な足幅、立派な姿勢、立派な竹刀操作と思っています。
鏡の前に立てば皆そうなります。
相手と立ち合い、ぐぐっと攻めると左の足はおいてけぼりで、右足に体重がかかり足は幅が広くなり踵が上がってきます。

剣道は自分の打ち気を肚に沈める修業です。
頭にある自己(我)を消す修業です。

先ずは頭を後ろに引き
次は出た右肩を後ろに引き
そして肩を下ろし肩甲骨を寄せる(小胸を出す)
さらに上に伸びた体を静め、
ヒカガミを伸ばし膝を軽く緩め
床を掴むと同時に左拳の位置を下げ収める作業です。
これで相手に先が取れたのです。

強さは今のままで七段の力はあります。
ただ、七段の剣道のための修業をしていません。
強さだけでは受からない難しさが七段です。
西村が何としても七段に歯が立たなかった(四段の時)のは、その修業の差で押さえ込まれたのです。

不思議なこと
最初は 西川先生に並び、西村の時に時間切れ
次は、千葉先生(前首席師範)の時にも西村の時に時間切れ
今回は、梯先生(現首席師範)の時もにも西村の時に時間切れ
これは西村がそのようにしているのか、今は待てとの合図なのか。
正直、原田源次先生以外の八段と稽古をしたいと思わない西村です。
稽古を切実にしたいと思っていないのは事実です。
椎名先生は向こうからお声をかけていただき、稽古が実現しました。

今回の歯科のOBの稽古を見て思ったこと。
皆様個性があり結構強く素晴らしい!
しかし、しっかりとした自分の師匠を持ち、それを見続けているような剣道には見えない。
習い事はあくまで教わり、正して貰う所にある。
剣道家は自分で全ての道を作りたがる傾向がある。
剣道の稽古は高い次元に登った師匠の玄妙なる体験を追体験する所にある。
時々は人の意見も聞くのがよいが、思い込んだら命がけの師匠を持つ事だ。
このような師匠に出会う事を、内田樹先生はこれを『武運が良い』と書いている。
そして、自分は武運に恵まれたと書いている。
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Re:この掲示板の記事を失うは寂しい!
匿名で失礼いたします
2018年6月12日(火)
西村先生

お疲れ様です。
私はこの掲示板の記事を必死にコピーしています。
すべてはしていませんが、
本当に素晴らしい教科書、それ以上です。

寂しいどころではありません。
あまりにももったいない、
われわれにとっては貴重な財産です。

引き続きコピーします。

ありがとうございます。
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