持田盛二 石原忠美 小沢丘 賀来先生 石原勝利 原田源次 野正範士
米 名人には天性の感性が備わっていた。(努力では解決しないものがある!) 米 肚の出来具合は立ち会いに出る。 米 原田先生でも先輩後輩の呪縛からは逃れられない。
以下こぼれ話から!参考に
持田盛二 軽井沢の別荘に行く途中、高速ではなく県道を通って行ったことがある。 途中で大きな骨董商のに立ち寄った事がある。 古い刀を物色していた。 店主と剣道をしていると話をしていたら次のような話を聞いた。
「持田盛二は子供の頃からミカン取り早取り競争では一度も負けたことが無いとの逸話がこの辺では残っている、」 天性の感性がこの頃から花開いていたと言うことだ。 将来日本一の先生になる。
石原忠美 京都での事ですが、石原九段と若手で日本一と言われる先生の稽古で、若い方が先生の何処にも竹刀を触る事すら出来なかった稽古を見ました。 小柄な女性ほどの石原先生に、西川先生がこの様な状態だった時、剣道の本質が何処に有るのかと思いました。 このとき、西川先生に「全く歯が立たないね!」と声をかけると、「一本ぐらい触れない!」と言っていました。 西村は西川先生のこの素直な言葉が出る人柄が好きなんです!
小沢丘 武道館の年越し稽古をお願いした。 柳に風とはこのことだ。打ち込んだ位置には先生はいなかった。 武道館で年越し稽古に言ったことが有ります。 西村も意気盛んな頃で五段を取ったときでした(32年前)が、柳に風と受け流され、ポコンと打たれていました。 全く相手にされていませんでした。 相手の先生は小柄な女性ほどの体格でした。 小沢丘範師九段、日本剣道連盟の会長でした。 稽古の後、「あなたは何の仕事をしているのかね?」と聞かれました。 「歯医者です。」ち答えると、「歯医者にしては良い腕前だ!」と褒められたことが有ります。
石原先生、小沢先生、両範師とも小柄な女性ほどの体格です。
「位で遣う」 位が有る、位が無い・・・この言葉を初めて聞いたのは、江戸川区の九段候補にまであがった先生の話でした。 そのときはピンと来なかったのですが、剣道は「心の位」で決まってしまうと思います。 打ち合う前に位の押し合いです。 結局は【肚】です。 西川先生が石原忠美先生との稽古で全く刃が立たないのを見て実感しました。 剣道の目指す所は「心技体」のうち「心」頂点に立つ心に行き着くのでしょう。 心が定まれば「重心と丹田は一致する」
さて、京都での事ですが、石原九段と若手で日本一と言われる先生の稽古で、若い方が先生の何処にも竹刀を触る事すら出来なかった稽古を見ました。 小柄な女性ほどの石原先生に、西川先生がこの様な状態だった時、剣道の本質が何処に有るのかと思いました。 このとき、西川先生に「全く歯が立たないね!」と声をかけると、「一本ぐらい触れない!」と言っていました。 西村は西川先生のこの素直な言葉が出る人柄が好きなんです!
かって、武道館で年越し稽古に言ったことが有ります。 西村も意気盛んな頃で五段を取ったときでした(32年前)が、柳に風と受け流され、ポコンと打たれていました。 全く相手にされていませんでした。 相手の先生は小柄な女性ほどの体格でした。 小沢丘範師九段、日本剣道連盟の会長でした。 稽古の後、「あなたは何の仕事をしているのかね?」と聞かれました。 「歯医者です。」ち答えると、「歯医者にしては良い腕前だ!」と褒められたことが有ります。
石原先生、小沢先生、両範師とも小柄な女性ほどの体格です。
賀来先生 西村との稽古風景は賀来先生特集に書いてある。
古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。 賀来先生が言った。 「西村がビデオで撮っている。 あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」
西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。 しかし、稽古ではこの通りなのだ。
勝負、試合のその先には剣道の深遠なる世界の扉が待っている。 剣道を真剣に取り組めば、誰にでもその扉は開いてくれる。 これを求める心、先達となる師匠がいないと、その扉は遥彼方に存在する。 しかし、武運に恵まれれば直ぐにでもその扉に手が届く。 これは剣道が強いか弱いか身体能力がどうかという問題ではない。 剣道に真剣に取り組む心がけだけの問題なのだ。
石原先生に一本も西川先生が触らせて貰えなかった稽古を見たとき、 賀来先生と古川先生の稽古を見たとき、剣道はこれなんだよなあ!と思った。
石原勝利 2⃣石原先生に終始、先を取られた原田先生は、自分から仕掛けていく ことが、できません。自分のペースをつくることが出来ず、焦りを感じます。無理に面にいくところを、コテをとられてしまいますが、旗はあがってないものの、その前にも後にも、歩合負けして、撃ち込まれているコテや面が何本もあります。 3⃣確か、学校の先輩、後輩なんですよね?原田先生が石原先生を完全に尊敬?しているように感じます。失礼な言い方ですが、借りてきた猫のごとく、大人しく感じます。これは仕方のないことですね。石原先生も、原田先生の剣の特徴を全て掴んでいるかの如く、余裕を感じます。 以上です。 日本を代表する大先生の立ち合いに、このような公の場所でコメントするのは、大変大変、気が引けてしまいましたが、なかなかお会い出来ない西村先生から、何かまた教えて頂けると思い、失礼を承知で書き込みました。お許しください。
原田先生が原田先生でなかった唯一の試合です。 石原先生は一年先輩で、それも相当強かった先輩です。 京都で原田先生が石原先生に「先輩!」と声をかけるのを聞きました。 明らかに尊敬する先輩を感じる呼び方でした。 石原先生は原田先生に負けるとは露にも思っていない。 原田先生は何とか石原先生を攻めたいと思っているが、思っているで終わっている。 石原先生の余裕こそが心の先であり、それが随所に出ています。
これを深層心理学的気の捉え方では『スイッチング』と云う状態が起こる。 これは電気回路を右から左に切り替える時に一瞬電気が流れない様な状態が起きる。 心身を統一している指令系統が一瞬『無』になった様な状態を云う。 具体的には、合気道の世界でいとも簡単に相手をふぬけにしてしまう。 相手の袖を軽く引っ張った瞬間に相手の意識がそこに行く。 その瞬間相手を上から軽く押せばぺしゃんこに潰れてしまう。 丹田に意識を納め重心と丹田と意識が一致しているときは相手は押しても引いてもビクともしない。 しかし、頭を一撫ですると意識が触られた所に動き、少し押されただけでヒックリ返ってしまう。 いわゆる武道はこの様に相手の『気の乱れ・身体指令系統の虚』の状態を作り上げて相手の自由を奪うものである。 この辺りが『極意』なのである。 しかし、普通の感性の持ち主はこの辺の話になると反応しなくなる。 いわゆる,身体的感受性が低いからこれを意識で感じ取る体験をしないからである。 石原忠美範師九段の感性では、持田先生の念力を敏感に受けている。 西村が日本を代表する大先生に何でと云う面が入るか? 先生の鋭い感受性を逆に利用して,先生の無意識を操作するからである。
京都の朝稽古で石原忠美先生と西川先生の稽古の様子を見た。 申し合わせの稽古をしている様に、西川先生の竹刀が全く石原先生に触れる事すらできないのだ。 稽古終了の太鼓がドンドンと鳴ったとき、石原先生は西川先生のの竹刀の先をポンと軽く打ちそのまま面に伸びて見事に打たれた。 先生との稽古から帰る途中の西川先生に、「打てないねえ!」と西村が言うと、 少しぐらい触れてもいいのに・・・と西川先生は言った。
古川先生が全く動く事すら出来ずに、賀来先生に大きなゆったりとした面を打たれた。それも3本もだ。 賀来先生が言った。 「西村がビデオで撮っている。 あいつは一本では信用しよらんから、三本打っておいた。」
西川先生、古川先生、若手剣士の日本を代表する先生方だ。 しかし、稽古ではこの通りなのだ。
原田源次 原田先生については多く書いてある。 原田先生が遅れを取ったのを見たのは石原勝利 賀来先生だけだった。
野正範士 野正先生は過去の多く書いてある。
上記の大先生方の中である意味スピリチュアルの方面で突き抜けているのは賀来先生かと思う。 剣道では全く歯が立たない先生方だが、剣道によって上り詰める精神世界では精神世界を本気で命がけで修業をした西村の方が上に行けたと自負している。 これは剣道よって行き着いたのでは無く、人生の修業、歯科医としての修業、周りにいる超能力者の影響で行けたので、剣道の方が後から追いついてきたのが真相です。
あるHPからの抜粋 参考になればと思い抜粋した。 July 18, 200907:23 石原忠美剣道範士のこどば・教え カテゴリ 剣道 Kendo • yymy1126 Comment(3) 過日引用させていただいた「活人剣&殺人剣」石原忠美剣道範士のお弟子さんのブログにも、なかなかよいことが書いてあったので記録に残す。
<石原先生の教え> ○勝負を志す者は攻めに徹せよ 五分で立ったら必ず守りが強くなる
○「足」=左足は心の表れるところ 打ち間は左足できまる 重心は両足の真ん中に、配分は前に三、後ろに七、前足は常に軽くしておく
○剣道は自然呼吸が良い 技は息を止めて動作を起すより呼気の時に出したほうが良い結果が生まれる
○手先から起こり出すと相手にわかる 手は肩から弛める(肩の力を抜けばすべてが柔らかくなる。 打突は踏み込めば自然と強い打ちになる) 足・肩・手首の順、振り上げた時には足が出ていなければならない
○「必然の技」=得意技 解っていても防ぐことができない技=真の得意技(防がれる間は未完成) 必然の技は稽古の積み重ねでできるもの 気で攻めて理で打つ、理で攻めて気で打つ(無駄打ちが少なくなる) 打突したときは必然の技で決まる 攻めにすべての技が集約されていれば、打突は単純であってもよい
千葉周作先生の言葉で結んでおられます 「気は早く、心は静か身は軽く 目は明らかに、業は烈しく」
○ 気の張りは一本一本の稽古ではなく、その時の稽古時間一杯使う 張りは相手より、少し高く、有利に
○ 気の張りとは、次の三つ 1、呼吸法(上虚下実) 2、無心、平常心 3、先の気
○ 良い音を出す・・・・・出ばな技等 (1)この技が決まれば、総ての技が決まる
(2)労少なくして効の大なる技 (3)人間の持っている五感の目・耳(聴覚)・触覚、つまりひらめきを使う 60歳代は、若さは残っており、且つ、円熟しているから、 その気になればできる。 (4)この技があれば、相手はうっかり出れなくなる
○ 剣道上達のポイント 1、攻めて見て打つ(隙のでたところ) 2、攻めて観て打つ 機を深く見てという意、機とは相手の心と体と術の変わりぎわにおこる 「兆し」である。 「兆し」とは物事が起こりそうなしるし(前兆)で、 まだ目には見えない「におい」のところ。
3、攻めて作って打つ 「兆し」が見えたらさらに、攻めを強くして、相手の隙を誘い、 決めをたしかなものにして打つ。 この2、3ができたら相手も納得し、自分も快心の満足感が味わえる。 是が。気で攻め理で打つところで、乗って破って崩して打つともまた、 機を見、機を知り、機を作って打つともいわれる剣道理念の 「剣の理法」のところと解する (総て一拍子)
「直心是道場」(じきしんこれどうじょう) 石原先生が、全日本剣道連盟より「特別功労賞」頂いたときか又は国より 「叙勲」を受けられた際の祝賀パーティーで出席者に配られた色紙に 書かれていたこどばだそうです。
お釈迦さまの時代、インドの先進的な都市ヴェーサーリーに 維摩 (大乗仏教の代表的な経典『維摩経』の主人公)という大富豪が住んでいた。 彼は学識すぐれた在家信者であった。
ある時、光厳童子(童子とは修行者、または菩薩の意)が修行に適した 静寂の地に道場を求めて、喧騒の街を出ようとして城門にきたら、 そこで、折から城門に入ろうとしている維摩居士に出会った。
光厳童子が「どこからお帰りになられたのですか」と尋ねると、 居士は「今、道場から帰るところです」との事だったので、 「それは耳寄りな話です.実は私は閑寂な道場を探しているのですが、 居士が行かれた道場はどこにあるのですか、是非教えてください」 というと、居士は「道場は外に求むるに及ばぬ.直心是道場、虚仮なきが故に」 と喝破されたという.
「直心」すなわち素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の場所など関係ないという唯摩居士の教え
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