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- 『送りと受け』 - 西村雅興 [2006年2月10日(金)]
伊藤一刀斎と鐘巻自斎(日野晃先生の本より) - 西村雅興 [2006年2月12日(日)]



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『送りと受け』
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2006年2月10日(金)
気・波動と言うと非科学的な事とほとんどの人が思っている。

オーリングテストと言う方法がある。
相手のことを聞くの人さし指と親指で作った輪の開閉の力の差で調べる方法である。
これには筋肉レベルと筋反射の二つの方法がある。
これを使うと相手のあらゆる情報を手に入れることが出来る。
相手の感性が低い場合は感性の高い人に手を握ってもらって調べる。
一種の増幅器なのだ。
これは10人手をつないでやっても同じ結果がでる。
さらに、調べる人を見ながら別人の感性の高い人を使ってやっても同じなのだ。
この場合は手をつないでいないのだ。
皆様はどう思われますか。
相手の直接検査ならば、そうかもしれないと思う。
手をつないだ場合も、あるいはそうかもしれないと思う。
この場合、手をつながなくても検査が出来るとと言われると・・・ええ!と思う。
でも、実際には出来るのだ。

それでは誰かを調べるのに、自分のどこかの筋肉を使えるようになれば、同じ事が出来るのだ。
相手が全く何をされているかを知られないうちに、相手の情報を得ることが出来る。
これを上手に使うと宗教を起せると思う。

・ある歯科医はオーリングを使い、咬合調整する箇所を調べ治療に役立てている。
・ある歯科医は患者様の歯の波動を自分で感じ、筋肉反射テストで調整ヶ所を捜してい る。
・同じ方法で有名な格闘家を多く治療している先生もいる。

・西村は顔を見ただけで調整個所が勝手にわかるのだ。
 (学術的に説明できるが、感性のレベルまで高まっている)
 その逆に、感じた個所をイメージで咬合調整をすると相手の身体はそうなってしまう。 前屈の硬い人をイメージだけで柔らかくすることが出来る。
 相手の気の流れの悪いところを通す事も出来る。

高段者になれば分かると思う。
何故!先生に一本も入らないのか!
打ちあう前に勝負がついている。
鞘の内出決まる。
これらは、意識波動の『送りと受け』なのだ。
送りが強いと『攻めが強い』
受けの感受性が高いと『相手がよく見(観)える』
相手への波動の送りと受けで既に情報が手に入っておれば、勝負はついたも同然だ!
相手への送りは強い意念・イメージなのだ。
相手から受ける感受性を高い状態にするには、心が静かな状態が必要なのだ。
そのためには呼吸を使い上手にβ波を消すことだ。
これはコツを掴めば簡単だ。
西村は脳波測定器を買って自分で検証をしてみた。
呼吸法、瞑想法の大家でも少し時間が懸かる。
西村式ならば一瞬のうちに、β波をスパッと消すことが出来る。
これは、脳波計を駆使して方法を見つけたからだ。

では、それでは西村がどれほどの者かと問われるとイササカ困る。
でも、西村の妖剣に出会った人は少し分かるかもしれない。
有名な範士は感性が非常に高い、それ故竹刀を動かさないレベルで西村の波動に動かされている人もいる。

剣道が相当なレベルに達した人は、この方面の研究をお勧めする。
人間の不思議、宇宙との一体感、自分の知らない自分の奥の世界を垣間見ることが出来るだろう。
剣道はこの辺りの入り口を教える方便なのだと気がつくと思う。

師匠を選ぶのは弟子が師匠の体験を追体験するためなのだ。
それ故、次元の高い師匠を選ばないと、玄妙の世界までには到達できない。
西村は別のルートから入って行ったが、剣道も結局同じと気がついた。
それ故、原田源次先生の玄妙な技が感じ取り分析することが出来る。
同じことを下位の人に再現できる。
(あの抜き胴だけは何とも真似が出来ないのだが)

西村の咬合治療は誰も真似が出来ない。
世界で西村一人の世界なのだ。
誰も付いてこれないのだ。
寂しい事だが。

原田源次先生がそう思っていないかと思うと、弟子としては恥ずかしい。
岩崎先生に頑張って貰うしかない。
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伊藤一刀斎と鐘巻自斎(日野晃先生の本より)
西村雅興 [HomePage] [Mail]
2006年2月12日(日)
相手の心を聞く
これから書くことは一昨年の暮れに書いた事と同じです。
表現方法が人により異なるだけです。
『身体は賢い!』です。

剣道は相手との関係性で成り立っている。
それは相手がいて自分がいると思うか、自分がいて相手がいると感じるかの違いは大きい。
自分がいて相手がいると感じるときは、中心が自分である。
自分の思い、我、観念、意念、等を相手にぶつけている。
腕に差があるときは、強い攻めを見せると相手がそれに感応して居着く。
これを利用して上位者が下位を打ち負かしている。
自分の自己主張に相手を屈服させている図式だ。

しかし、お互いの段が上がってくると相手の存在が大きくなってくる。
そうすると、相手を居着かせて打つのは難しくなる。
強い攻めで入ると、相手はそうはいかないよと踏ん張る。
相手が踏ん張り切れずに出てくれば、これは簡単だ。
しかし、相手が踏ん張っていると、体と足を先に出した方が困ってしまう。
攻守逆転となる。
自分が見られている状態である。
そこで、手元をあげて打ちにいってしまえば、相手に頂きとばかりに捌かれてしまう。
手元を上げたと言うことは、打ちに行ったと言ことだ。
無意識が打ちを決め、次に有意識が打ちを決める。
この手元を上げる前の一瞬(無意識の決定)を相手に読まれてしまう。
(この読み方に予備動作を考えると分かり易い。
波動、本能の感性のレベルは説明が難しい)
打って出た自分の方は10分動を動かざるをえないが、相手は3分の動きで事が足りる。
相手は自分の無意識を読み尚、3分の動きで事足りるのだから、打って出た時に勝負が決まっている。


『強い攻めで入ると、相手はそうはいかないよと踏ん張る。』
相手はこのとき、居着かず、踏ん張らずでいると、相手の方が自分より格が上なのだ。
いわゆる『位が違う』状態だ。
こうなると、相手に思うように捌かれてしまう。
打てそうで、打ってみると全く歯が立たない状態なのだ。

自分の攻めで相手を動かせる、打てると判断した時、勝負は終わっているのだ。
この意識を相手にぶつけたとき、相手が不動であれば、刀を捨て『参りました!』と言て真剣の世界なのだ。
剣道では試しに打ってしまうが!
真剣では、命を守る感性はそこで打つことを引き止める。
鞘の内で勝負が決まることになる。

高段者で勘の良い方は是非この雰囲気を意識をもって稽古をされたい。
(あるレベルではもう言う必要も無いと思われるが。)

ここで大切なことは、お互いの関係性で、自分を空しく(むなしく)して相手に耳を傾ける、相手の音を聞く(観音)ことだ。

残念ながら現在の剣道は攻め合いの強さ、相打ちの一瞬の差を取る、相手に乗るを良しと見なされている。
もし、真剣ならば相手は死ぬかもしれないが、自分も重症を負うか、かたわになって一生を台無しにしてしまう。
打ちあう剣道は?がつく。

これは『日野晃・古武道入門』(心身についての誤解を解くための発見の書)
の主旨に西村も同感であり、彼の言葉を借りながら書いている。
是非、お読み下さい。

『「相手」についての理解が勝機をもたらす』
「自分が〜〜」から「相手の〜〜」への意識変化が大切だ。」

彼の説明から
『師である鐘巻自斎と対決する一刀斎。
しかし、勝負はすでに決まっていた。
「実を持って虚に対すれば勝つのは当然」と一刀斎。』
『伊藤一刀斎は、
「人は眠っているあいだでも、足の痒いのに頭を掻く馬鹿はいません。
人間には自然にそういう働きをする機能が備わっています。
その機能を完全に働かせる事が剣の妙機というものだ。
先生が私を打とうとされたとき、先生の心は虚になっています。
それに反し、私は今申したように自然の機能で危害を防ぎますから実です。
実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう。』

ここで大切なのは、勝負をすると言う実際は、完全に意識が覚醒した状態だが、その時においても無意識領域を完全に働かせる(生理的反射や反応を起させる)ようなとんでもない状態を体現したことだ。

自分が相手に対して「意図しなかったとき」「意識的でなかったとき」「対称のものを意識しなかったとき」「身体を意識しなかったとき」身体は目的に対して一番合理的な運動をするという機能を身体は持っている

「打とう」としているとき、意識が働いたとき、そのときは無意識な働きがない。
身体操作の問題ではなく、『無意識な働きがない』ということだ。
意識的というのは「自分が××する、××したい」等の主体的な行為を指す。
主体的な意識的な行為は駄目、つまり「自分が」から起こる行動は敗北につながるから駄目だと、伊藤一刀斎は五百年も前にすでに明確に指摘しているのだ。
幼稚な自己主張は相手にとって不快以外の何物でもない。
こちらの感性は相手の主張に対して『違和感』を感じる。
鋭敏な感性は頭の判断を超えて、「違和感を汲み取る」働きを持っている。
その「違和感」は受信する側にとっては、無意識的な行動に転化する。
つまり、相手に対し的確な行動が起きる。

お互いに歩み寄り動けば勝負がつくという距離での計り合い。
仕掛ければ勝負がつく認識している状態。
伊藤一刀斎は「身体に任せ」て立っている。
鐘巻自斎は「いつ攻めようか、どう攻めようか」という意識を持っている。
つまり、一刀斎は武道でいうところの『待ち』だ。
この時点で勝負はついているのと同じことだ。
それは来るのを待て「いつ攻めようか、どう攻めようか」相手の攻撃にどう対処すべきか、意識は疲れ散漫になる。
鐘巻自斎のそういった集中力が極点に達し刹那、身体は動く。
一刀斎は、自斎の集中力が極点に達したのを「違和感」として感じ取った瞬間に身体は動く。』

心を白紙の状態、静かな鏡の様な水面の状態にしておけば、身の危険を感じた感性は確実に的確に動作を起す・・・・と言うことだ。」

さて、前回の全剣連合同稽古の師匠との稽古を再度書きます。
西村がいつもこのような剣道が出来るとはいいません。
しかし、ここを目指して剣道をしています。
そうすると、時にはこのような事も起きるのです。

『今日の西村は原田源次先生との稽古に全く気負いが無い。
先生の攻め足と同じ調子で出て行く。
途中スーッと体を出すが、手元の引き金は先生に任せる。
先生の竹刀が先に胴へ回ろうとする瞬間、心が勝手に面を打った。
これは決して蹴り出したのではない。
井桁崩しの対角線の伸びる力を使って、このベクトルの先に竹刀があるのだ。
最後のもう一本はこの面が入った。
今日は日本ほどタイミングの良い面が打てた。
打てたと言うよりは、打っていた!
稽古の中ほどで、手元をあげて打って行くと見事に斬られる。
ふと我に返り心を静かにする。
そうすると、最後の二本は身体が勝手に打っていた!
先生との稽古でこんなに素直な面が出たのは久しぶりだ。
全くと言うほど剣道の稽古をしていない。
しかし、筋肉を使わない剣道をすれば、勝手に身体が動くのが分かった。
武術的身体動作が段々分かってきた。
先生の良い引き出しで、剣道の微妙なところが分かって来たような気がする。』
レスをつける



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