タメ!…とは いつ打つのか!
アーチュリーの場合は弦を真っすぐ後方に引き、弓のバネで矢を飛ばします。 弦は真っすぐ弓に向かって進みます。 サイト(照準器)を合わして、体がそれを十分支えれば、同じだけ引けば同じように的に当たります。 西村は少ししたことがありますが、何と的に当たりやすいことか! それは驚くほど当たるのです! しかし、あるところから急に難しくなります。 何しろ距離が遠い的に当てるのは、手元の少しの狂いが大きく影響するからです。
和弓は何故難しいか。 和弓の弓はアーチュリーに比べ極めて細いです。 弦を単に引いただけではその力は弱いものです。 しかし、左小指を利かせ弓を捻り、弦にたわみにねじれの力を加えて飛ばすのです。 弦の引き具合、弓へのねじれの力の与え具合その総和で矢が飛びます。
軽く体を静め膝にたわみを作り重心を少し落とす・・・収縮→伸展 【初動は重心の前方滑落】 →後筋を使った体の押し出し→丹田を中心に上下の体の伸展(井桁崩し)
竹刀の柄頭の左手の押し出しエネルギーへと解放される →竹刀の押し出しでの振り上げ 右足を出すが左肩を残す・・・体にねじれを与える→解放 小胸を出し(肩甲骨を引き寄せる)・・・肩の後方へ圧縮→解放
左足の引きつけ→右手の押し出しと同時に左拳の引き下ろし(鳩尾まで) この時、息を吐き切り肋間筋を収縮させ両肩を前下内方へ引き込む。
ゴルファーがクラブヘッドにエネルギーを無駄なく収束させる脇の締めとヒジの締め・・・これを真っすぐ前に出した形になるのが面を打った時に似ているが、竹刀の場合はヒジは伸ばし過ぎず、脇を締める若干の余裕を持ち、体のエネルギーが伝わる、身の内で操作をする。
静かに右足を滑り出し、相手がこちらの引き金を引くに任せる。 先を懸けたのは自分だが、引き金を引くのは相手なのだ。 要は相手が打たれに来る。 相手が色を見せた時、この圧縮、収縮、捻れとして蓄えられたエネルギーが竹刀の先へと収束しながら解放される。 このエネルギーを受けるのは相手の面なのだ。 打つ前にエネルギーが溜められている(噴火の直前)状態をタメがあると云う。 これは、いわゆる予備動作終了形である。 外からは感じとれないが圧縮されたエネルギーが解放を待っている状態。 相手はそれとは知らずに、覚醒催眠の世界に嵌まり、無意識が苦しさからの解放を目指し引き金を引いてしまう。
手りゅう弾のピンを抜いて手に持っている、自殺状態なのだ。 こちらは相手に手りゅう弾のを持たせるが、遠くに離れて自爆には近寄らない。 こちらがこのピンを引くと、相手はハッと我に返り慌ててこちらの手に戻してくる。 するとこちらの自爆になってしまう。 その瞬間の前に面に打って出てしまうと、窮鼠猫を噛む状態になり、小手や胴を打 たれる。
遠く離れてカナダに同い年くらいで同じことを考えている先生がいるものだと感心した。京都で朝岡先生が西村先生とほぼ同意見だと思うと言われていたので、改めてHPを訪問した。 いつも西村が書いていることのエッセンスの文章があったので紹介します。 一度御本家のHPの訪問をお勧めします。
養心館・カナダの朝岡先生のHPの書き込み。 剣道考察日記2007年6月26日(火)と2007年8月13日(月) 次のような事が書いてあった。 なるほど千葉先生の達人ぶりは、自分の打ちの瞬間をしっかり内観していることにあったのだと判った。・・・朝岡先生お借りします。 【打突は緊張からの解放だ。】 この言葉は、千葉仁範士が、養心館の講習会で教えられた言葉の一つだ。イメージ的には素晴らしい表現だと、感動した。
これは剣道全般、全てに繋がり言える事だとも思う。
打突の瞬間。竹刀を振り上げ振り下ろす、 筋肉の緊張、その力を打突の瞬間に解き放つ。それで物凄い、勢いと、冴えが出る。
又、攻め、懸待の一致、緊張からの、一撃で捨てきる=開放。
溜め、見切りからの、緊張からの、一瞬の打突への開放。
脱力との関連も、この言葉で言い表されるではないのだろうか。
昔の古歌に、「振り下ろす太刀の下こそ地獄成れ、ぐっと踏み込め、後は極楽」と言うのが有る。
まさにこれに置き換えることも出来る。振り下ろす太刀の下。究極の緊張である。其処をぐっと踏み込む勇気で、開放される、恐怖感。
捨て身の境地を説いた歌だが、まさに緊張からの開放そのものだ。 【打たれに来る】 2007年8月13日(月)
今から15年位前になるか、羽賀の親父がマダ元気で稽古をつけてくれていた頃、熊が掛かっていくと、いとも簡単に出鼻を打って取られてしまう。
何故なのだろうと愚問を聞いてみた。何故あんなに、簡単に出鼻が取れるのか、親父が言うには、「お前が打たれに出てくるかただ。」と言われて、悔しい思いをした思い出が在る。
その意味合いが、15年経った今、少しずつでは有るが、何となく分かりかけてきた気がする。
それはどう言うことかと言うと、人間,誰でも打ち気にはやる時は、瞬間的に目クラに成る。詰り打とうとする瞬間に筋肉が硬くなるのだ。
其処を狙えば以外と簡単に打てる事が理解できるようになって来た。勿論、剣道をする人それぞれに到達しているレベルがあり、格差は当然あるのだが、
それでも間違いなく、どんなレベルの人であろうとも打とうと心が動いた時は硬くなるのである。
ただ、その腕前により格差が在るということは、硬くなる瞬間が少ない人が上手な人であり、沢山出る人が初心者なのだと言う事なのだと思う。
大いなる気勢で打ちかかる。その中にも、懸待一致が求められて、その中で、溜め、見切りなどが要求されてくるわけだから、可也高度な判断を瞬時繰り返さなければ成らない。その上、肉体の筋肉コントロールまで、遣らなければならない訳であるから、筋肉を硬直させないで相手に対処できる位に成るのは不可能に近いわけだ。
だから昔から、どんな名人でも打つ瞬間は隙が出来ると言われる所以なのだと思う。
剣道の稽古は肉体的に、いついかなる時でも難さが出なくなれば技術的に完成だと言う事になるのだと思う。勿論、その為に、心の問題、にも、触れて修行しなければ理解は出来ない。
でなければ、不動心、平常心、などと言う言葉の必要性も無くなる。
打たれに来て(行って)いる間は、剣道修行が続く。それを完全に克服する為に人間は剣道を通して心の修行をしているのだと思う。
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