最近は剣道にご無沙汰でした。 剣道をしないのも寂しいし、と言って仕事に疲れた後に行く元気も無いし。 それでも剣道は楽しいので行く事にした。 無い事に火曜、木曜の二日連続で剣道に行った。
暫く離れて稽古に行くと、つい見過ごしてた点がはっきりと見えた。
ほとんどの人が竹刀の先っぽを面布団に当てに来る。 面布団を狙う為に脇が上がり、手の内の締まりがない。 これは全日本級の試合でもそうなので無理も無いが。 いわゆる乳井先生の言う「当てっこ剣道」に終始している。 頭の中には「とにかく早く当てたい!」の意識が充満しているのだろ。 試合では旗が上がるのでこれで良しと思ってしまっている。 この稽古をしていると、永遠に六段、七段にはなれない。 審査員はこのレベルになると、その段位にふさわしい指導者としての手の内のある剣道を要求している。 さらに打つ前に技前を仕掛け、相手を動かして、その後に素敵って打つ、出来れば斬る!を求めている。
さて、今回の稽古で感じた事を述べる。 ほとんどの人は真っ正面に打って出ていない。 動き始めから相手の体の左方向へ抜けて出る様に打っている。 正面衝突を避けて打っている。 要は【面を打つ覚悟が無いままに面を打っている。】 面を打つと云う事は相手も面に来るかもしれない。 このとき、相手が死ぬか自分が死ぬか、両者死ぬかの場面である事を忘れている。 剣道はこのような仮想的に命を賭けた瞬間に何か心に得るものを糧として励んでいる。 武道の修行は自発的、自己啓発なのだ。 相手を殺しに刀を打ち込む時に、相手との衝突を避けて体をかわしながら斬り込むのは愚の骨頂である。 それなら、最初から打って出なければ良い。
正面衝突を避ける心のある面は、仲良しこよしの竹刀当て競技にしかすぎない。 乳井先生曰く「これは婦女子の剣道で男子のする剣道ではない。」 乳井先生の言葉で西村のセクハラ言葉ではない。
西村が稽古の時、相手が斜め左に打ち出して竹刀のみ面に打つ様な時、面を打った後、真っ正面に体当たりをする様に指導をする。 すると、見違える様な腰の入った面を打ち始める。 打った当の本人がその手応えに驚いている。 その時このように耳元で言う。 「相手は半透明の硬めのゼリーの様な物で、このゼリーを喉元まで斬り込んで打つ。 打った後相手がそこに体を置いて居れば、体当たりで突き飛ばす。この気分で打つ様に。」 すると相手に遠慮のない、素晴らしい面を打切る。 打った本人が感動している。 『自分にもこんな面が打てるんだ!』 この感触を掴んでもらったら、そこで蹲踞して終了。 この感触を大切にしていただく為だ。
原田先生と稽古で西村が面を当てにいく。 オー!入った!と思うと、もう一丁との催促がかかる。 何度もこの合図がかかった時、西村の顔が真っ赤になってしまった!師匠相手に当てに走ってしまった。 良い面を引き出してくれているのに、斬り込まないで当てにいってしまった! フッと意識を変え、全身全霊で先生の面に斬り込む。 先生に見事に胴を抜かれる。 先生が言う「良っし!」それで終了となる。 快心の面を斬り込む−−当たったかどうかは関係ない! 先生の心に応える面を打つ! これが原田先生の指導稽古なのだ。 要は相手のギリギリの極限を引き出して成長させる。 この繰り返しが本当の稽古なのだ。 先生に本当に面が一本入るのに35年の年月がかかった。 先生がその時に西村に言った。 「参った!」 この面を打つ為に35年間があったのだ。
西村の指導稽古は原田先生より親切で、言葉を使い耳元で囁き、上達を早めるようにしている。 それでも何度も同じ事を言わせる人が何と多いことか。
ある先生が西村に言った。 「原田先生が相手の耳元で囁くときは、よっぽど相手の事を気に入っているときだよ。」 良ーく見ていると滅多に無いが、その囁きを受けた人はその場で別人の様な剣道をするようになる。 【面を打つ前に覚悟を決める、全身全霊で面に斬り込む】 今日の言葉でした。
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