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- 松原輝幸 範士八段の著書 『最強の剣道』から学ぶ - 西村雅興 [2015年12月24日(木)]
Re:松原輝幸 気当たり 遠当て の考察  - 西村雅興 [2015年12月24日(木)]
緩めて勝つ - 西村雅興 [2015年12月29日(火)]



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松原輝幸 範士八段の著書 『最強の剣道』から学ぶ
西村雅興
2015年12月24日(木)
今回は、松原輝幸 範士八段の著書 『最強の剣道』から学ぶ

稽古相手が不思議な体験をするように
八段合格し、明治村で優勝してから、全国で立ち会う相手に不思議な体験をする人が増えていった。

身長180センチもあろうかと大きな体をした相手が、身長168センチの私の小手を打とうとする。
その瞬間、私は構えたままスッと前に出る。

すると、私の剣先が相手の咽に当たる前々に、相手が後ろへひっくり返ってしまうのである。
構えを解いて、どうしたのか尋ねても、相手は
「急に強く押された感じがした」と首を傾げるばかりなのだ。

攻め合から自分の間合いに入っただけで、相手がドタンと倒れてしまうこともあった

これらの出来事は物理的に説明はできないが、やはり相手を”気”で圧倒したのだろう。

その後60才で脳梗塞で倒れるが、何とか剣道が出来るようになった。
もう相手に勝つ、負ける、ということは大きな問題ではなかった。
剣道が出来ること自体が大勝利だったからだ。
無欲、無心でいられるのが”気の剣道”である。

稽古会に呼ばれることが多い。
その際、稽古相手が、構えた瞬間からなぜか下がってしまうのである。
相手に触れずに勝ってしまう感じだ。
私の方は何もしていないのに、オーラに押されてしまうのだ。
最近、堀口先生が言っていた「力ではダメだ」という意味がやっと分った気がする。
「相手を打つ前に、まず気で勝つ。
打って勝つのではなく、勝って打つ」
無心になるというのも、言うのは容易だが、行うのは難しい。
範士になった頃は色々な目標、言い換えれば”邪心”があった。
役職も趣味を楽しもうという気持ちも薄れた。
今はただ、自分の剣道を追求したいだけである。
無欲になったというのは「諦めた」ということでもある。

気を会得することは、力任せに数を打つことではない。
無欲無心で得られるのが”気”の剣道である。
剣道に限らず。力を抜き、無心でことに当たることで道が開けることは多い。

強いで通し、”松原の面”と言われた範士の剣道の修行の流れである。

前から松原先生の気当たりで相手がひっくり返るとかの記事を読んだことがある。
西村的にはやっとこのレベルの先生が出現したかと喜んでいた。

さて、意識の波動で相手に影響を与える次元の話をしても、ほとんどの人は眉唾ものと耳を傾けてくれない。
西村に実際に体験させられて、そうかな?のレベルの理解になる。
残念ながら強い遠当てをできるレベルには西村は無いが、相手の気をかなりコントロール出来るレベルニアある。
これをセミナーで教えたこともある。
剣道は究極はこのレベルの意識波動の押し合いである。
意識波動を強烈にすると相手の心は怯え(おびえ)目は開いているが心の目は閉じて、居着きの状態になる。
これを勝って打つと表現している。
これでは”殺人剣”のレベルでしかない。
押し合った意識波動を少し強め、これに相手が押し返した瞬間、スッと緩めると、相手は壁が急に暖簾の感じ、おっとっとと(シメタ)と勘違いして打って出て来る。
(勘の鈍い人には首筋の後ろを緩め面を見せる。)
この潜在意識のレベルでの予備動作は察知が簡単で、その起こりの瞬間に入り身となって、間を盗み、相手の顕在意識が左拳の動きになった瞬間、自分の無意識が相手の動きに合わせて捌いて取る。
このとき頭は参加せず、ただ意識波動を緩め打たれに入る覚悟だけあれば、体がかってに、手も勝手に動く。
これを相手を働かせて取る”活人剣”という。

これを読まれた先生方は”気”についての動画・本等を参照して、実際に門を叩いて経験されると。違う次元の剣道家になることは請け合いだ。
幸い、気で相手をすっ飛ばすとか、相手をねじ伏せるとか動画で見られる。

私の回りには正真正銘「超能力者」が多くいる。
西村も咬合と全身症状については超能力者のレベルと自負している。
これは自分が開発したというよりは天啓(神様が教えてくれた)の結果である。
最初はその現象に戸惑ったが、今では常識のレベルになっている。

気の世界、遠当てが出来る世界、気の玉を相手にぶつけてすっ飛ばす世界からみれば常識なのだ。
ただし、受け手の感受性が低いと思った程の効果が起きない。
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Re:松原輝幸 気当たり 遠当て の考察 
西村雅興
2015年12月24日(木)
大先生も
「相手を打つ前に、まず気で勝つ。
打って勝つのではなく、勝って打つ」のレベルなのだ。
剣道家はどうして勝つことに拘るのだろう。

剣道は勝って打つのレベルの先がある。
『攻め勝って、少し緩めて引き出して打つ』のレベルになりたい。
「ハイ!貴方の弱いところはここで打ってしまう所ですよ」
と教育的打突をしてあげる所が大切である。
ほとんどの剣道家は武術的・剣術的剣道をしており、道の修行から遠い所を歩まれている。

かって楢崎先生が勝って面を打ち取っていた。
この先生の面は素晴らしいものだ。
西村も埼玉県時代に国士舘の監督の矢野先生に楢崎先生が大きな面を打っているのを直に見たことがある。
凄まじいものだった。
しかし、小川忠太郎先生が、「範士にもなってあんな剣道をするものではない」と行ったそうな。
この話を聞いたときはその意味が全くわからなかた。
今なら十分に理解が出来る。

さすが松原先生!自力で、竹刀を通して気当たり(遠当て)のレベルに行き着いて来た。
西村がそこまで出来る訳ではないが、相手の打ち込みに西村が真っ直ぐ体を進めると、ほとんど人が体を右に逃げながら打つ。
西村が打ち込み台になって打たせている時は真っ直ぐ打って来る人も、西村がぱっと打気に転じると、同じ面打なのに体を右に逃がしてしまう。
相手の無意識がこのまま直進すると真正面にぶつかる!嫌だ!ととっさに身を庇うのだ。その結果として、体を右に逃がす。
相手が面に来る時、腹突きで出ると、打つ途中で腰が引け途中で止まってしまう。

さて、松原先生が自分の体験を”気に意識している”人達の修行を体験すると、もっと素晴らしい世界が開け、それを多くに人に指導が出来る所まで進まれたと思う。

西村は直ぐに出向いて体験するのだ。
不可思議なことはことは体験するしかない。
フィリピンの心霊治療も10回くらい出かけた。
その結果、妻の膵臓癌も治り、西村のアルコール性の肝炎も完治した。
西野先生も西野流を作りあげた。
あるお酒の席で長い時間お話をしたことがありますが、偶然のように出来るようになり、西野流に発展させたと聞く。

ある柔術で座位で相手が出て来る瞬間、スッと手を差し出すと触らずして相手が転けてしまうという技がある。
これは手を差し出したのではなく、手刀を(真剣と意識して)突きに入れると、相手の無意識はヤバイ!と感じ、みずから転ぶことにより身をかわすのだ。
外から見れば空気投げの様に見える。
手を差し出す人が殺気を持って、手を真剣の短剣と明確にイメージしていると、相手の無意識はこれに感応して身を庇うのだ。

松原先生のスッと出した竹刀の先に先生の強い意識波動、気が出て、相手はこれに感応したのだ。

しかし、これが成り立つのは相手も相応に感性が高い必要がある。
一般的には師と弟子の間では上手く行くが、受け手が勘が鈍い素人では成り立ち難い。

スポーツチャンバラの全日本選手権の大将戦の話。
先方、中堅が一勝一敗で大将戦の西村に持って来た。(剣道は七段のころ)
相手は小柄な機械体操の選手。
身のこなしは猿の様に素早い。
武道はズブの素人だ。
西村が構えても相手は構えも何も無い。
全く合気にならないのだ。
西村から見れば宇宙人を相手にしている様に捕まえどころがない。
これを長い時間やると、自分の中に疑いと恐れが起きて来る。

 さて、前年度個人優勝の空手の五段、道場主、いわゆる武道家だ。
このような人は西村と合気になった瞬間、相手の心は手の平に乗る。
これを打ち取るのは簡単だ。
猫じゃらしをして、ひょいとエサを投げると食いついて来る。
こうすれば打つのは簡単なのだ。
相手はどん何頑張っても、心を手の平で転がされているから勝ち目がない。
全く降参してしまう。
先生とやるとどうしょうもないと頭を掻く。
当時、西村が一番強かった。

話を戻す。
しかしだ!困った!合気にならない!
そこで。勝つことを決めたから、相手を殺すことに本気で決めた。
本気でこのモードになって前に出ると、相手はフリーズしてしまった。
犬同士の喧嘩のつもりが、一瞬にして相手が虎に変貌したのだ。
それは驚く!
その所をバスッと面を打ち西村の勝利。
これで全日本連続優勝となった。

この成功は相手の感性が非常に敏感だったから効を奏したのだ。
決勝戦に来るい、ましてに大将に選ばれたのだから動きも勘も良いのだ。

武道、武術はお互いの気持ちが感応し合うのだ。
それを外気功の様に相手に発信出来れば、距離があっても響き合う。

気流法では西村は畳の上をころころと転がされた。
これにはどうしょもなかった。

新体道の青木先生は弟子相手なら、完全に遠当てができる。

植芝先生のビデオを見ても動揺に相手が転がる。
中倉先生は一次見込まれ植芝先生の養子になられた。
しかし、植芝先生の不可思議な技を見て、自分には不可能と思い、養子を止めた。
羽賀先生がこの手の話を聞いて道場に出向いたが、無刀流の極意で簡単に仕留められた。

合気道十段の藤平光一・合気道十段(植芝先生の直属の一番弟子)の道場で気の修行を泊まりがけで教わった・・・凄い効果があった。
しかし、先生は触らずして相手を投げ飛ばすことは出来ないと言った。
あれ!これだけの先生でもここまでかと思ったのが印象的だった。
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緩めて勝つ
西村雅興
2015年12月29日(火)
緩めて勝つ

松原先生の本から

相手と同じ力で当たり合っても、良くて引き分けにしかならない。
そこで
【こちらの力を抜いてみると、相手の気も抜けて、
その瞬間に攻撃をして勝利することが出来るのである。】

西村コメント
道場で稽古を見ていると、ほとんどが強烈な面の相打ちばかりしている。
そこには稽古量、若さの瞬発力、気の強さ、さき打の利、体格の差・・・等で、
スポーツ的剣道が花盛りなのだ。
本当に賢くない剣道ばかりに明け暮れている。
これを堂々巡りという。
本人は全く気がつかない。
それだけで昇段するとか、俺の方が強いと誇示出来る時期もある。
段位が上がるにつけ、身体能力は均等化し合い打に終始してしまう様になる。
何度も昇段に落ち、ふっと!考える。
そこで転機を得ると受かる場合が多い。
良き指導者を得ると、堂々巡りをすることなく昇段をし、いち早く剣道の奥深いところに行き着く。
それは良き人生を選ぶ知恵を得ることにもなる。

【十分に合気になって攻め合い、ふっと合気をはずす妙技】

松原先生は相手も緩んだ隙に打って、勝ちを得る表現だった。
相手が緩んだだけだと、相手の心は停止している。
これを取るにはこちらから相手の位置まで打ち込む十分な身体能力が必要である。
このとき、相手に面を見せると、シメタとばかりに食いついて来る。
相手の心を打てると錯覚に誘導する。
西村が剣道は覚醒催眠であり、稽古は動く禅、動的瞑想(ダイナミックメディテーション)と呼んでる所以である。

その無意識がシメタと思った瞬間、自分の心の命じるままに打つ。
このとき大体は面を打つ場合が多いが、面を打つと決めていると相手に読まれて裏をとられる時もある。
難しいが!打って出るが心の命じるままに打つことである。
自分の【智】は最適な判断をし、見事な石火の打をしている。
このとき頭が参加すると上手く行かない。

【緩める先】
明治村の八段戦で奥園先生が圧倒的な強さで優勝されました。
当日、自分の眼で見ていたのですが、出小手の名手の奥園先生に相手が何故?面に打ってしまったのか?不思議でした。
そこで、ビデオを購入し詳細に見てみました。
八段戦の決勝戦です、相手は奥園先生の得意を十分知っている。
しかし、小手を打たれに出てしまった・・・。
岩立先生の時と同じで、足は前後の動きは全く無いのです。
何度見ても分かりませんし、スロー再生でも分かりません。
相手が面を打とうとする少し前から一こま一こま詳細に見ていきました。発見したのです!
奥園先生の左足の踵の高さが2センチから1センチ落ちたのです。
先生は攻めを緩めたのです。
相手は強く押し合っていた壁が急に暖簾の様に柔らかくなってしまった。
これは合気道の極意です!
フーッと体が前に出て面を打ってしまった。
思わず打ってしまったのか?無意識がチャンスと捉えたのか?わ分かりませんが、自ら相手の得意技にハマりに行った、打たれに行った、身投げの自殺をしたとしか言いようが有りません。

西村コメント
西村はこれを【緩める先】と行っています。
松風の極意と対照的な、兵を引いてみせる戦略と同じです。
ただし、奥園先生は低い竹刀の位置で打ってくれば小手を打つぞ!と相手に打たせないで一発触発の所まで追い込んで行きます。
この気迫は静かながら凄まじいものでした。
これは西村が実際明治村で見ていたので良くわかります。
相手もギリギリこらえていた。
しかし、一瞬相手の攻めが消えたのでつい打ってしまった!

現代剣道はスポーツとして発展しているが、先人が命を懸け、身を守る為に悟った武術的身体動作、これを可能にしている【肚の鍛錬】を高段者のなるとこれを目指さないと大きな意味が無い。
この肚の鍛錬こそが人生を豊かに実りあるものにしてくれる。

相手の心を読み、先を取り、反射で相手を打ち取り、そこがあなたの欠点ですよ!と心で呟く慈悲の心で【教育的打突】心がけたい。
指導者の大切な心がけだと思います。

【隙について】
『隙』
剣道雑誌に隙について色々書いてあった。
もう少し分析した形で書いてみたいと思う。

内田先生の本に書いてあった。
【隙がない】こちらから見て相手の動き、変化が分からない、読めない時を言う。
(本を見直したが何処に書いてあるか不明!)

相手が自由に動きを選択出来る状態、この状態に打って出ると、相手はこれに乗じて対応することが出来る。
隙がない相手に自ら隙を作って打って出た事になる。
心が打つと決め左手が動くと、その動きは終点まで変えることは出来ない。
相手は心の変化を察知し、左拳が動いた瞬間その動きが決定した事を知る。
要は自分の選択しを無くした状態なのだ。
この状態を『隙』という。

相手が心も身体も静止状態(心も身体もどの方向にも千変万化に対応出来ている状態)のとき、相手のこちらへの対応方向が分からない。
この状態を『隙がない』という。

隙がない自分とはこの状態をいう。
相手に『隙』が無ければ打つ事は出来ない。
だから、相手の『隙』を打とうと待っていても、相手も同じ事を考えていればお互いに隙がない事になる。
ここで大切なのは相手の隙を待っている状態は、相手のフェイントに容易に釣り込まれる可能性が高いのだ。
しかし、自分が相手の存在すら忘れてしまった様な状態『木鶏』のとき、相手の攻め、フェイントには反応しない。

相手が本気に危害を加えようとした時『智』が勝手に、反射的に対応処置してくれる。・・・この境地は難しい!
意識が相手の面を打つぞ!と強い念を送るとき、自分の意識波動は強く相手に感応させて、相手の無意識がそれに大しての対応処置をとる。
見えない意識の起こりが予備動作の程度に身体を動かす、相手の意識がこれに対応症と予備動作に入る。

意識波動の感応が予備動作としての微かな動きとして、無意識の正体を形で現してしまう。
こちらの念、意識波動、予備動作に相手が一定の感応、反応をしはじめた時、相手の心が手の平に乗りつつの状態になる。
ここに隙の初期が起きる。

蛇に睨まれたカエルがいる。
蛇はカエルが逃げようと飛んだ瞬間、その放物線状の動きの時間的な位置を的確に捉え、蛇の口にカエルが飛び込んでくる様に捕まえに行く。
カエルが跳んで逃げようとしない時、フェイントを懸け、我慢出来ない状態に追い込んで逃げようと跳ばす。
このカエルがジッと静止している状況は隙がないのである。
蛇はカエルに隙を誘発するのである。
このカエルに隙が無い状態で、蛇がカエルに飛びかかると、カエルはそれに対応した跳び方をして容易に逃げることが出来る。
  
この関連はログ検索で【緩める先】を参照して下さい。
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