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- 『つかをはなす・・・』の解釈! - 西村雅興 [2009年8月27日(木)]
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『つかをはなす・・・』の解釈!
西村雅興
2009年8月27日(木)
宮本武蔵 五輪の書
『つかをはなすと云ふ事」
柄をはなすと云ふは色々心有事也。
無刀にて勝つ心あり、又太刀にて勝たざる心有り、さまざま心の行く所、書付くる能わず。
能々鍛錬すべし。

森田文十郎(注)
心の不思議な力を知ってその鍛錬をしなければならない。
無刀でも勝心が起り、太刀を持っていて勝てない気になることがある、
束は握る大事な所であるがこれをはなすとのは欲を棄てることである。
欲を捨てれば強くなると教えたものである。

この説明では西村は納得出来なかった!


西村流解釈
原田先生の抜き胴を研究したがこれが全くわからなかった。
あるとき気がついた。
先生には竹刀を持っている意識が無い。
相手が面を打とうとすると、体が勝手に体を捌き、次に手が勝手に胴を打っている。
その瞬間まで相手と深い所で対峙した結果、相手の面が鋭いとき、本能が面の相打ち避け、体が反射的の胴を斬る動きをしているのだ。

先生との稽古で、西村が見事に胴に抜かれた時、先生は満足げにOKのサインを出して蹲踞される。
当てに行って先生の面に竹刀が触っ手も、もう一丁のサインが出る、
何度ももう一丁のサインが出る。
あっ!と思い、覚悟を決めて捨てきって面を打つと、胴を抜かれるが、OK
のサインが出るのだ。
西村の面打が鋭く、覚悟を持った面であった時、先生の本能が面の相打ちを避けさせ胴に打つのだ。
そこまでの面打を引き上げてくれる指導稽古なのだ。

先生の左手の納まりは一般的な位置よりかなり低い。
ここに左手を納めると、竹刀の器用な動きは出来ない。
先生は相手の竹刀と自分の竹刀で相手と対峙しているのではなく、心の眼を開いて、澄心(すみたるこころ)で相手と対峙している。
『澄心得妙観』(ちょうしんみょうかんをう)の心境だ!
手に竹刀を持ってはいるが、竹刀を持っている意識はほとんどないのだ。
先生の流れる様な動きに連れて竹刀が勝手に動いている。
打つべき機会、打つべき所は『智』に任せているのだ。

最近、西村も竹刀を持って相手と対峙している感覚はほとんどない。
要は竹刀を動かす前に勝負がついているからだ。
体を進めて自らを棄てると、相手に勝手に反応しているからだ。
その結果、竹刀で相手を打っていることになるだけなのだ。

束を放す・・・は相手と対峙した時、心眼でしっかりと対峙して、竹刀を持っていることすら忘れている心境なのだ。
後は自分の『智』「本能・・・」を信じきっている心境なのだ。
『無刀でも勝心が起り』の説明とはいささか異なる西村的解釈だ。

構えを見ればその人の剣道の奥の心が観得る。
竹刀で相手を打たんと欲する気が強い人、竹刀を器用に動かして捌こう、打とうとする人は手元が比較的高く、左肘が外に開き脇が開いている。

竹刀の運用をしやすく、攻めも守りも良い位置は一般的云われている位置だ。
肩の力、腕っ節で十分竹刀を動かすことが出来る。

そこからタラリと左拳をやや下げ、中筋をやや締めると左拳は左腰と一体化し、左腰の動きの最後の瞬間までピッタリと張り付いていて、心が打てと命じる、本能が打てと命じる、その一瞬まで体の捻れの溜めを止めている。
その一瞬、放たれた左拳の動きは秘めたる胴体力の作用で、必要量だけ竹刀を押し上げている。
これは竹刀を操作する、竹刀を引き上げる等の意識はゼロである。
ただただ溜まった力の解放である。
無意識に竹刀は打つべき様に打っている。
【これを教えて、これを守った人はアット!云う間に昇段する】

左手の納まり具合で、その人の剣道観が観得るのだ!
その人が口で何と言おうとも、その人柄は顔に書いてあるのと同じだ。
左手の納まりに注目したが、姿勢、構えもしかりである。

西村の腰からの面打指導の要点は先ず左手の拳の位置を下げさすことから始まる。
(ただし、中筋の締めが弱いと全く駄目であるから、ここを注意する!)
そうすると、体が前進し右足が前に滑り出ても、左拳は相手の気が動くまで(相手の左拳が動く瞬間)蛇が鎌首を後ろに引いている様なその一瞬を狙い待ちしているのだ。
この右足が新幹線の様に静かに滑り出し、あい手に初動を掴まさないのが秘訣だ(重心の滑落の運用)。
その距離が異様に長かったのが若い時の原田先生なのだ。
この滑り出しと前進の過程で、相手を起こしそこを取る。
どちらが先に動いてしまうか?
これが一瞬の我慢比べなのだ!
・・・【剣道は一瞬の我慢比べだなあ!・・・・原田語録】
原田先生のこの静かなゆったりとした体の前進に我慢の出来る人はほとんどいない。
ここに意識を置けば、竹刀はその結果として動いているにすぎないのである。

無刀の位、無刀取り
・・・刀を持っている意識を超えて相手と対峙していることを言う。
『つかをはなす・・・』
刀から意識を外して、心眼で相手に対峙せよとの教えである。
後は体が勝手にやってくれることを信じるのみだ。

そこから、神妙剣、無想剣、払捨刀・・・の世界に広がって行くと思うのだ。
これが西村流の解釈だ!



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